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超短期独身生活の徒然

昨日は久しぶりの超短期独身生活にテンションが上がって、珍しくnoteとFacebookのダブル投稿に及んでしまったわけだが、実際のところ、四六時中家族と干渉しあう生活と、ひとりで暮らす生活は、まったく手触りが違うのである。
まず、時間の流れる速度が違う。ゆっくりしている。空間も、いつもより広く感じる。部屋の温度はいつもより低い。
住環境の違いは、おそらく世界観や宇宙観、人生観や社会観にも影響するのだろうなと思う。

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里帰り先から、子どもの満面の笑みを写した写真が送られてくると、本当にこういう笑顔が見れて良かったと思う。世間はときとしてとても暴力的だから。
この暴力に満ちた社会で、ちんまりとした、あたたかで、やわらかくて、とてもとても繊細な、かわいい、いじらしい小空間を持つことができる、ということは、なににも代え難い幸福なのだろう。
たぶん、世間の寒風以上に過酷な風が吹き荒れる家庭や地域というのも、ある。

社会というのは、内側に小さな社会を抱えるようにできている。業界>会社>部署、といった具合に。あるいは、世界>国家>地域>家庭、とか。
一つの社会は、一つの細胞に喩えられるかもしれない。内と外を分ける膜があって、常にエネルギー代謝と防衛をしている。同じ階層の細胞とは、競争したり、共闘したりを繰り広げる。繋がり合うことで、高次構造を作り、また内側にも、内部構造を持つ。
こういう入れ子が幾重にも幾重にも重なって、宇宙を形作っている。
細胞膜が、外にある暴力の圧に負け、内側に招き入れてしまうと、衰弱してしまう。しかし、例えば会社や家庭という細胞を見ていると、そういうことに負けてしまっている例が、あまりにも多い。

小さきものを守るためには、強さと柔らかさの、両方が必要である。ごうつくばらずに、稼ぐ、といったこともしなければならない。絶対的同一な自己矛盾を、幾重にも幾重にも纏い、体現していかなければならない。

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そういうことを考えていくと、改めて、ある感慨を抱かざるを得ない。自分は、精神的なコアの部分は、社会に対する適合性が極めて低い人間なのである。よくこういう生活ができているなと感心する。
たぶん、コアにある無頼な部分、落伍的要素を、大脳新皮質や辺縁系の処理で大幅に補っている。そうやって補うプロセスをメタ認知し、またそのメタ認知により表出された知識を表現することで、社会的に交換できる財を生み出し、収入にしている。
つまり、極めて情報的な経済を自分は生きていて、そういうふうな生き方ができるのは、現代社会が極めて高度に発達させた情報システムという基盤のおかげであることは言うまでもなく、本当に良かった、有り難いなと思う。

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プロジェクトを扱う思考力というのは、ある種の護身術なんだと思う。HUNTER×HUNTERの継承戦で、クラピカが念能力を授けてまわるくだりは、いいなと思う。自分がやっていることは、本質的にいって、クラピカと同じことなのだ。
もっとそれが伝わるといいなと思うのだが、目に見えるものでないから、そこは本当に難しい。

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最近は、量子力学と場の理論がようやくわかってきた気がする。わかった、なんていうと、まぁ、おこがましいけど。
たぶん、粒と波の二重性、という接近の仕方が、ある意味で、すごくミスリーディングだったのだ。真相はむしろ逆だったのではないか。
曖昧で、輪郭がない最小単位があってもいいじゃないか。それが気持ち悪いという感性を、逆転してしまえばよいのである。
まだ、あんまりうまく表現できないけど。量子論的プロジェクト論、という方向性は、たぶん、非常に有望である。そのアナロジーによってこそ、数々のアプローチや切り口を統合できるかもしれない。

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最近は、もう、お茶とか茶碗のことだけ考えていたいな、と、思うこともある。侘び茶がこの世にあってくれて、本当に良かった。

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