斑鳩ルカに関する覚書

初めに

今回の記事に関しては全然体系化されていません。

昨日、斑鳩ルカがライブに突如現れ、ソロ曲を歌うという事件がありました。大事件です。私にとっては。

私の心が奪われていく様をありありと感じ取れました。

現在私はノクチル、ストレイ、江ノ島盾子とJOKERの三つの記事を調整中なのですが、その後に投稿するとどう考えても遅いと思ったので、殴り書きのような形になってしまいますがとにかく今投稿するべきだと感じました。

その理由に関しては、本文を見てもらえればわかると思いますが、思弁的なシャニマス論にしてはあまりにふわふわとした議論になっており、この話を広げるためには恐らくある程度の時間が必要になるから。そして私にはその時間が今のところは確保できないため誰かの目に留まり、考えてもらえれば嬉しいというものです。

あまり時間を取ってもアレなので早速その殴り書きを始めさせていただきたいと思います。

本文

神様は死んだ、って

神様…西洋形而上学に存在する命令する主体としての神(ハイデガーの言葉による)

創世記において「光あれ」と命令することで光を有らせる事のできる神

この神はシャニマスにおけるプレイヤーを指していると考えることもできるのではないかと私は考えている(この議論については現在樋口円香に関する記事を書く中で繰り広げようとしていたが、最近新しい投稿が全くないことからも察していただけるかもしれないが、難航しており、ほとんど進められていない)。

プレイヤーはプロデューサーに名前を授ける者である。名前を授けるもの=アダムとしての議論も必要になるかもしれない(ここに関しては未だ議論できる段階に私はいない)。

我々はプロデューサーではなく、彼らの運命の円環からは抜け出た存在である(我々は彼らを運命の中に陥れる存在としてある)。

斑鳩ルカはアイドルマスターとしては異例の存在であり、SHHisが売れるという運命の中に苦しみを持って誕生している。

SHHisという円環の中に入れない斑鳩ルカとシャニマスという円環の中に入れない我々との共鳴が『メリークリスマス』を生んだのだろうか。

斑鳩ルカがルカによる福音書に由来していて、緋田美琴は御言だという説も存在しているため、ここにおいて創世記の神を持ち出すことは不自然ではないと考えられる(そもそも、私が前述の記事群を投稿した後に記す予定だった『人文学の綜合としてのシャニマス 思弁論的シャニマスの勧め』において残す予定である言葉の通り、私が今楽しんでいるこの試みはシャニマスというコンテンツを最大限に楽しむためにポテンシャルを引き出すという行為であり、そこに妥当性を見出す必要はないのではあるが)。

樋口円香と斑鳩ルカという二人を対比構造のようにして比べてみるのも面白いかもしれない。

・樋口円香も斑鳩ルカも望まない人気であること

・樋口円香はPの元にあり、運命によってハッピーエンドが約束されている(?)−斑鳩ルカはPの外にあり、その運命によってバッドエンドが約束されている(?)

暗転、中断

申し訳ありませんが今回の覚書はここで中断させていただきたいと思います。

それに関しての大きな理由は一つだけであり、私がここ最近継続的な体調不良に悩まされていることにあります。

完全に私事なんですが、最近は頭痛、喉と鼻の調子が優れない、調子が悪いの四拍子が続いていて、日常生活がギリギリ送れたり送れなかったりする状態なので、次いつ投稿できるかの約束はできませんが、可能な限り早くしたいとは思っています。

恐らく次回は江ノ島盾子に関する記事、あるいは斑鳩ルカの覚書2、あるいは樋口円香etc....ということで。

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