『変な家』を読みました 雨穴さんの信念の話

久しぶりの読書感想記事になりますし、それが哲学書でも何でもなく、最近ネットで話題の『雨穴さん』の本であることを、もし私の記事の愛読者がいれば驚くのでしょうか。というどうでもいいような疑問を巡らせています。有楽悠です。

そんなこんなで早速本題に入りたいと思いますが、その前に一点だけ注意事項というか。

まぁ当たり前っちゃ当たり前だろと思われる方もいると思いますが、これは雨穴さんの『変な家』の感想(を主題に掲げた)記事になりますので、『変な家』の内容のネタバレを含みます。目次で純粋な感想と、そうではない二次的なものとで分けていますが、これはネタバレを含むものとそうでないものといったような意味ではなく、ただ本を読んでこう思ったという感想と、その後にいわゆる『理性的』な働きをして考えたこととを分けただけであり、どちらもネタバレを含みます。考えたことというと、批評家のように何かこの文を通して抽象的なことについて述べているように感じる人もいるかもしれませんが、そうではなく普通にネタバレが入っています。なので、まだ読んでいないという方はあくまでもご了承ください。

純粋感想

純粋に言えば、何か考える前には読み切ってしまったというのが全てです。読み終わるまでに1時間もかかってなかったと思います。アマゾンのレビューに関しては読んでいたので(私はネタバレを気にしないタイプの人間なので)きっと彼は結末にまた生贄などを持ち込んだのだろうという風には思っていましたが、そうは考えていてもやはり面白く、推理小説の際に一旦本を置いて自分で考える。という事をしないタイプの人間なので(そもそも哲学書の時でも基本的に自発的に考えてしまった時以外に読書の途中で意識的に考え始めて本を置くという事をしない)先ほども言ったように一気に読み切りました。もちろん殺人一家の話であり、その被害者と彼らの足取りを追う物語であり、報いを求める物語である事も普通に出来たとは思います。まぁそれでは動画で補完できてしまうのでそうではないうねりを加えたという商業的に斜に構えたような考え方も出来なくもないですが。

読み終わった瞬間に浮かんだこと(二次的感想)

ですが、私はあくまでもそんな『売れる』目で雨穴さんを捉えて、蛇足だったと切り捨てるのは何か違うように感じています。もちろん『知られざる物語があったんですね…』と言って感動の中で終わらせるというのも個人的には違います。というのも、雨穴さんがこのように物語を終わらせるのは、本として完結させた今回だけの話ではないからです。

というのは雨穴さんが好きで、YouTubeでも、オモコロでも…かは知りませんが(私は基本オモコロの方は選手権みたいなやつしか見ておらず、初期の雨穴さんの作品は見ていましたが、動画で挙げられているもののオモコロ記事バーションは見ていないので)追っている方はその心当たりがあると思います。雨穴さんにおいて、その原因を民族や村の風習、言い換えれば『固有の歴史』のなかで説明するというのはもはや常套句と言えるほどよく使われていた手段だからです。

YouTubeのコメント欄ではよく子供に関する考察がなされていますが、今回私はあくまでも『固有の歴史』という観点で雨穴さんを話していきたいと思います。と言っても、そのような深い話をするつもりはありませんが。

雨穴さんを貫くテーマ『どうしようもない』

雨穴さんの動画で扱われる民族や村の風習、先ほど私は『固有の歴史』という言い換えが可能であるという風に提示しましたがそれは一体どういう意味なのでしょうか。特に現代を何となく過ごしているともしかしたら分からないような人もいるのかもしれませんので、強調させて頂きますが、我々は偶然『このように』生まれてきます。このようにをわざわざ『』で括ったのはそれがどのようになのかは私は知らないのであなた方の中でこのようにの中が決まると考えて欲しかったからです。例えばあなたはどこかの地域に誰かとしていつかに生まれてきます。独立した主体ではなく、あくまであなたの歴史があなたを生みます(あいにく私の他の記事の一部ではそのような考え方が退けられている箇所もあるような気がしますが、今回はそのような話はしない方向で)。違う場所で違う状態で違う時に違う考え方の違う名前の…全てが違うあなたは今のあなたと同じ『あなた』なのかと聞かれて『同じ私だ』とすぐに言い切れるような人は少ないと思います。それが『このように』の中身です。あくまでNoteを書いている私ではなくNoteを読んでいるどこかの『わたし』の『このように』

雨穴さんはそれを重視しているような気がします。というかほぼ確実にしているでしょう。

雨穴さんがよく描くこの村ではこういう風習があって、だからこそこのような行為に手を染めなければいけなかったのである。というような語り方は『このように』の典型的で過激な例ではないかと考えます。『わたし』はその村の、その親の生まれであるという偶然のゆえに過酷な運命を背負わされているのです。

そして、ここからは特に変な雨穴さんの見方なのかもしれませんが、だからこそ雨穴さんはあのような見た目なのではないかという風にも思えてきます。

雨穴さんの動画をよく見ている方なら、何度か目にする機会があったのではないかと思いますが、彼のコメント欄を見ると、よく『人間に優しい人里から離れた怪物みたい』といった旨のコメントを見ることがあります。異形の怪物のような容姿をしていながら、それでいて語りが柔らかく人間的であるという彼のスタイルがそのような意見を生むのだとは思います。ですが、それだけでは彼の魅力としては全て引き出せておらず、それと同時にそれこそが彼の最大の魅力なのです。

雨穴さんの容姿は『現実から断絶されています』。だからこそ怪物みたいと言ったコメントがあるのだと思いますが、彼はその意味でこの世界の歴史からは全く異質の場所にいるのではないかと思います。

それは、いわば『彼はどうしようもない存在ではない』と言い換えることもできるのではないだろうかと考えます。我々はこれまで血を受け継いできた人間であるから『どうしようもない存在』であるのです。それに対して雨穴さんは今まで見たこともない造形をしている。要するに、彼は受け継いできたからこそのどうしようもなさをあえて排したデザインになっているのではないか。

あえて説教のようなことを言うのであれば、これは我々にも言えるようなことではないのでしょうか(先程まで散々我々人間ゆえのどうしようもなさを強調していたのはまた置いておいて)。インターネット社会が発達した現代において、先ほどまで強調した『どうしようもなさ』は薄れているのではないかと思います。が、その中であえてどうしようもなさを強調すると言うのは、(わざわざ哲学的な文脈で捉える必要はあるのかという疑問はおいておいて)どこか近代文明とは違うものを見据えているような雰囲気もあります。

そして、結末の部分、栗原さんは「複雑な事情があったのですね」という。雨穴さんが一番言われたいことはこれなのかもしれない。言いたいでも描きたいでも無く言われたいのかもしれない。もしかしたら実在感も緻密さも何も全てこう言われたいの表れなのかも知れない。彼なりの赦されたいの形なのかもしれない。とまで言って仕舞えば、それこそ私は栗原さん以上の妄想を語り始めなければいけないだろう。我々は雨穴さんの歴史に踏み入ることは出来ないし、もしそれが妄想ではなく、今までの全てが転移的な関係の中にあるのだとしたら、それこそ我々は踏み入るべきではないのだろう。だが、あくまでも私は彼の中にある『どうしようもない』への渇望、そして『どうしようもない』と言われたいのかもしれないという仮説。その二つを見てとりたいと私は願ってしまっている。

蛇足

『読書メーター』と言う自分の読書記録をつけることのできるサイトがあるのですが、私はそこで『変な家』を読み終わった日付をつけていたと思います。それを見ればわかるとおり、今回の読書感想はだいぶ日にちの経ったものになっていると思います。『だからこそ雨穴さんはあのような見た目〜』から『〜どこか近代文明とは違うものを見据えているような雰囲気もあります』と言う部分だけ後に書きましたが、それ以外のものは今までの記事二つ(私的すぎる話)を書く前から既に完成していて(というかこの記事を書いている途中に二つの記事が自分の頭に偶然降り注いできたので急いでその二つを書いたと言うような形になりますが)、二つも記事を書いたなら少しくらい間を空けたほうがいいかなと思っていたらこんなに日にちが経ってしまいました。

正直、言葉足らずながらも、今回は記事の中で言いたいことは全て言ってしまいましたので、蛇足に関してもこの辺りにしたいと思います。

次回は白瀬咲耶かアルストロメリアに関する雑記になるのではないかと思います。あるいは樋口円香

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