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猫とアイドル

「僕が妹を殺したんだ」
 大学生の蓮は、公園の池に架かる小さな橋の上に佇んでいた。

 蓮が三歳くらいの頃だった。母の膝に抱かれて、その顔を見上げていると、母は、優しく頭を撫でながら、
「蓮は、もうすぐお兄ちゃんになるの」
 と独り言のように言った。
 蓮が不思議そうに母を見上げると、彼女は、蓮の手を取って、お腹に押し当て、
「赤ちゃんがいるの、女の子なのよ」
 と優しく教えてくれた。
 蓮は、その瞬間、なぜか悪いことをしたように思って、母の手をはね除け、彼女に背を向けて、うつむいてしまった。
 数日後、蓮は、父と母が大声で喧嘩をしているのを、部屋の奥に隠れて聞いていた。幼い蓮には理解しがたかったが、母が、父のギャンブル狂いが直らないと、子ども二人を育てることができないから、妹を中絶すると言い出したからだ。
 妹が中絶されてしまうと、蓮は、母から、妹がお腹にいたことを言わないようと口止めされた。蓮は、幼いながらも、自分がいるせいで妹が生まれて来なかったのだと思い、自分の存在をいとわしく思った。そして、どうして妹が母のお腹にいた時に、優しく手で撫でてやれなかったのかと後悔した。
 蓮が小学生になると、一家で、ごちそうを食べる時には、蓮には一人分が、父と母には、一人の半分が分けられた。蓮は、自分の取り分は半分だけなのに妹の分まで分け与えられていると感じ、いつも半分を残してしまう。父や母は、そのことを親への気遣いと勘違いしていた。
 そんな蓮が、高校生になると、親の過剰な期待に重圧を感じながらも、妹の分までしっかり生きなければならないと思い、勉強にスポーツに励み、スポーツでは、剣道でインターハイに出場するようにまでになった。
 大学は、奨学金を得たとしても、自宅から通える国立大学しか選択の余地がなかったが、蓮は、幸いにも、その難関大学に合格した。両親は喜んだが、蓮は、もし妹がいたなら、妹のために自分は喜んで就職していたはずなのにと思ってしまい、心の底から喜ぶことができなかった。と同時に、妹がいたら、どんな夢を抱いていたのだろう、その夢を叶えてやりたいと考え、いろいろ迷った末に、妹を小説の主人公にすることによって、その夢を叶えてやることにした。
 蓮は、大学に入学すると、剣道もやめて、専攻していた法律の勉強もほとんどせず、自室に閉じこもって小説を書くようになった。
 しかし、いくら書いてもうまく書けない。文芸サークルで作品を批評し合う『合評』の場で、「アイドルになるのが夢だなんて古くさい」、「かわいいだけの女子大生なんて、今のご時世に、いるはずがない」と評され、落ち込んでしまう。
 蓮が大学二年になった夏のある日、公園を散歩していると朽ちかけた農具小屋の中から、子猫の鳴き声が聞こえてきた。不思議に思って中に入ってみると、段ボール箱に寝かされた一匹の子猫を見つけた。子猫は、震えながら「にゃーにゃー」と鳴いている。蓮は、生きようと必死にもがいている子猫の姿を見ると、生まれて来なかった妹のことを思い出してしまい、見てはいけない物を見てしまったように感じて、慌てて、農具小屋から逃げ出して、池にかかる小さな橋の上まで来ると、池に向かって、
「僕が妹を殺したんだ」
 と、泣きながら、叫んだ。
 そこに、突然、アイドルの衣装を着た女の子が、タオルでくるんだ子猫を抱えながら、蓮に向かって走ってきた。

 その子の名は、美月。女子大で、服飾デザインを専攻する大学生だ。
 美月は、中学から、その女子大の付属中学校に進学し、今年、エスカレーター式に今の女子大に入学した。
 美月が小学五年の頃、大切にしていた消しゴムを男子に不用意に借りられ汚くされて返されたり、ダンスの授業で、汚れたままの手で繋がれて、石鹸で洗っても汚れが落ちない気がして以来、美月は、男子を『汚い生物』と思うようになってしまった。美月は、これ以上男子と一緒に勉強するのは嫌だと思い、両親に頼み込んで、付属の中学校に入らせてもらったのだ。
 美月は、中学・高校とダンス部に所属し、ダンスの練習に励んだが、運動音痴が災いして、練習では、他の部員の足手まといになっていた。それでもダンス部にしがみついていたのは、幼い頃に観た宝塚歌劇団への憧れだった。一方、ダンス部にとって、美月は違った意味で重宝する存在だった。衣装作りを、デザインから材料調達、仕立てまで、一切合切一人で引き受けていたからだ。
 美月は大学に入り、ダンスができる部やサークルを探したが、どこもレベルが高すぎて合わなかった。そんな中、『アイドル研究会』のポスターが目にとまる。みんな、坂道グループみたいな『かわいい』衣装で歌い踊っていた。美月は、宝塚のような華麗な世界に興味がある一方、キティーちゃんにも目がなく、部屋中をキティー一族のぬいぐるみで埋め尽くすほどの『かわいい』もの好きであったので、ダンスと『かわいい』が合わさった『アイドル研究会』に入ることにした。
 アイドル研究会の活動としては、第一に『女子大生アイドルコンテスト』への出場がある。これは、全国の大学で活動するアイドルグループが優勝を争うもので、美月の所属するアイドル研究会は、いつもブロックでは上位であるものの全国大会への出場は果たせていない。
 練習は、大学近くの公民館か少し離れた小さなステージがある公園で行われていた。美月は、練習には欠かさず参加して、今度も、お得意の衣装作りも任されたので、アイドル研究会には居場所があるように思っていた。
 しかし、しばらくすると、『アイドル研究会』のもう一つの活動、チャットでのファン交流が重荷になってきた。『アイドル研究会』の活動費は、イベントへの参加謝礼などもあるが、大半をチャットからの収益に頼っている。それぞれの部員が、チャットでファンと交流し、支援として得た収益を持ち寄って活動費としているのだ。部長と副部長は、三年生であるが、多くのファンがいて、活動費を支えている。「別に気にしなくてもいい」と言われているが、まったく収益が上がらない美月にとっては、やはり肩身が狭い。美月もファンを獲得しょうと努力するのだが、チャットで何を話したらいいかまったくわからないし、男の子の気を引くにはどうしたらいいかなんて想像もつかない。他の部員にはコンカフェで働いて人気があると噂されている部員もいるのだが、美月にとっては、男の子と会話するだけでも苦痛なのだ。
 アイドル研究会は、一年生が一番多く、二年になると半分になり、三年は、部長と副部長しかいない。アイドルという年齢もあるのだろうが、チャットで順位付けされてしまうこともあって、男の子に好かれないとこの世界で生き残れないのだ。
「かわいくないのに、何様のつもり」
 女の子からの一言に、美月はひどく傷ついていた。

 かわいくなければ、生きていけない。美月は、ある日、アイドル研究会の活動がつらく思え、練習の後、アイドルの衣装のまま、あてどなく公園を歩いていると、朽ちかけた農具小屋の中から「にゃーにゃー」という鳴き声が聞こえてきた。しわがれた小さな鳴き声だ。美月が何だろうと思って中に入ってみると、生まれて間もない子猫が、段ボール箱の中に寝かされているのを見つけた。
「どうしたの、あなただけなの?」
 美月がしゃがんで見ると、子猫は、毛は全体に白だが、右目の回りだけが茶色で、横にベチャッと押しつぶされたような顔をしていた。まだ、目が開いてなくて、口だけ動かすようにして鳴いている。美月には、目の前の子猫が、ブサイクに見えた。赤ちゃんなら、かわいいはずなのにブサイクと思ってしまうのは、それほどまでに自分の心が歪んでしまったのだと思った。
 美月は、『かわいくない』自分の境遇と重ね合わせて、助けようとした子猫に逆に呪いをかけられたように思ってしまい、人には見せられないような冷たい顔をして、
「お前は、すごくブサイクなんだ。だから、お母さんに見捨てられたんだ。お前をかわいいという人間なんていないよ。だから、お前は、ここで死んでいくしかないんだ」
 と言って、子猫の入った段ボール箱を蹴飛ばし、小屋の外に出て行った。
 美月は、公園の小道を歩きながら、どんなにブサイクでも、母猫だけは、かわいいと思うのではないか。どうしてあの子だけだったんだろう。猫は、赤ちゃんをたくさん生むと聞いたから、もしかして、一家でお引っ越しの途中だったんだろうか。だとしたら、段ボール箱を蹴飛ばしてしまったから、母猫は危険を感じて、もう、あの子に近づこうとしないかもしれない。
「あの子が死んだら私のせい?」
「そんなこと知ったこっちゃない。ブサイクに生まれたあの子の運命なのよ」
 そうつぶやきながらも、子猫が気になった美月は、農具小屋に引き返すことにした。
 小屋の中では、子猫がまだしわがれた声で鳴いている。
「生きててよかった。さっきはごめんね」
 美月は、子猫を見ると、ほんとうに悪いことをしたと思った。そして、そんなことをしてしまった自分が悲しかった。生きようとしてもがいている子猫を見ると、今度はたまらなくなって、子猫を抱きしめた。
「もう見捨てないから」
 美月は、持っていたタオルで子猫を包んで走り出した。走り出したけれど、どこに行けばいいか、わからない。答えを探しながら、小道を走り抜けると、池に架かる小さな橋にたどり着いた。すると、男の子が驚いた顔をして美月を見ている。

 蓮は、美月が小説から飛び出してきたと思ってびっくりしたのだ。
「この子、死んでしまいそうなんです」
 美月は、蓮に子猫を差し出した。
「僕は知らない、僕のせいじゃないよ」
 蓮は、さっきのことを見られたのかと困惑していた。
「私、どうすればいいんですか?」
 男の子と話すのが苦手な美月が声を振り絞って聞いた。
「赤ちゃんの猫を育てるには、二時間ごとにミルクをあげなきゃいけないんだ。ふつう、そんなことできないら、行政に預けるんだけど、行政も育てられないから大抵は殺されてしまう。ボランティアの人が引き取ってくれたならラッキーなんだけど、無理なら、元の場所に戻してあげるのが一番だと思う」
 早く子猫に消えて欲しかった蓮は、もっともらしい理由で美月を追い払おうとした。
「私、育てられない」
 美月は、泣きながら子猫を抱いて、もと来た道を帰ろうとすると、蓮は、せっかく目の前に現れた美月がこのまま消えてしまうように思えて、引き留めようと、とっさに、
「僕が育てるよ」
 と、育てられる自信もないのに言ってしまった。
 きっと、あの時の父は、今の僕みたいな気持ちだったのかもしれない。でも、僕は、今から、この子猫を育ててやることができる。
 蓮は、ブサイクな子猫を抱きかかえ、美月は、蓮が落としたことに気づいていない『猫とアイドル』と書かれた原稿を衣装に隠して、橋の反対方向に別れていった。
 三か月後、蓮は、愛猫の『こう太』を抱っこして、橋の上に佇んでいた。そこに、以前よりさらに『かわいい』アイドルの衣装を着た美月がやっきた。
「アイドルが時代遅れだって、『かわいい』だけじゃダメだって、私は、私がやりたかったアイドル、この小説みたいなアイドルをやっていくことにしたの」
 美月は、こう宣言すると、蓮に原稿を返すかわりに、こう太を受け取った。
「こう太って名付けたんだ。ブサイクなのは変わりないけど、男の子だよ」
「ありがとう」
「どうして?」
「関係ないのに巻き込んでしまって。でも、ちゃんと育ててくれて、ありがとう」
「いや、僕が育てたかったんだ」
 蓮は、美月に、妹や原稿のこと、あの日、こう太を置き去りにしたことを洗いざらい話した。
「僕は、こう太がかわいそうだから育てたんじゃない。僕は、僕の魔法を解くためにこう太を育てたんだ。必死に生きようとするこう太を見ながら気づいたよ。僕は、妹の分まで生きられないし、生まれてこなかった妹の夢なんて叶えられっこない。僕は、自分の分をしっかり生きなきゃだめなんだ。でも、もう、僕はひとりじゃない、君が目の前にいる」
 蓮は、美月の手を取り、美月は、蓮の手に手を重ねた。こう太は、美月に抱かれながら、不思議そうに、二人を見上げていた。
(おわり)

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