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できる教師になりたければ「それは何のためにするのか」を常に意識せよ!

 今回のテーマはどちらかというと教師の意識的なところです。というのも最近私自身が感じていることの1つに「それって何のためにするのだろう?」と疑問を抱くことが多くなったからです。「今までもそうしていたから」「これが伝統だから」と一言で言ってしまえばそこで終わりなのですが、果たしてそれで本当に良いのでしょうか。何かを変えるのには勇気がいります。エネルギーがいります。その「変える」という判断基準の中で1番念頭に置くべきことは「そもそも何のためにそれをするのか」ということなのだと思います。それが無くして、ただ闇雲に取り組んでは意味がありません。今回はその点を私なりに深堀していきたいと思います。

①変わらないものが多いという現状

 学校現場にいると「変わらないものが多いな」と感じることがあります。確かに「変えるべきではないもの」が一定数存在するのは確かです。しかし、何でもかんでも今まで通りという考え方には疑問を感じるのです。「変えるべきもの・無くしてもよいもの」も存在しているはずなのにです。そこの判断基準の難しさが大きな要因となっていると思うのです。ここでは職員会議で「こうすれば変えられる」というような方法論を述べるわけではありません。しかし、教職員の考え方に「何のためにそれをするのか」という根本の意識があれば、変えるべきもの・変えないほうが良いものの判断が明確になっていくと感じるのです。そしてこの意識は教師という仕事に限らず様々な仕事をする上で大切な意識だと感じています。

②常に「何のためにか」を問う

 大切なことは、常に「何のためにそれをするのか」ということを問い続けることだと考えます。例えば「子どものために」なんていう言葉が飛び交う会議を目にしたことはありますが、これは具体性に欠けます。子どものためと言えば、教師は反論しにくい生き物です。それが「本校の子どもたちはこのような力が足りていないように感じる。なので○○のような発表の機会があれば○○のような姿に成長していくと感じる。なのでこれはこうしていこう」というようにより具体レベルに落とし込んでいくのです。その議論の中で「そもそもこれって必要なのか」「じゃあ、この活動は少しあっていないのではないか」というような建設的な話し合いに特化していくと思うのです。その流れの中で何か変えるべき点があればそれでも良いですし、議論の中で変えないという選択に至ることもあって構いません。話し合う目的をもつべきなのです。

③子どもたちにも同じことが言える

 これは子どもたちにも同じことが言えると感じています。子どもたちはそもそも「その学習を何のためにするのか」が明確になっていない場合があります。そこはとことん子どもたちと話し合っていくべきではないかと感じます。目的をもった子どもたちは強いです。意欲が高いです。それをするとどうなるのかが分かっているからです。この視点を担任している子どもたちにも与えるべきなのです。ここで重要なのは教師自身がそこを明確にしていなければそれを伝えられないということです。子どもたちに話し合わせるにしても、教師が伝えるにしても「その目的を教師自身がもっていること」が必要です。そうしなければ子どもたちに本当の意味で伝わることはありません。なんとなくではなんとなくしか伝わらないということです。

④常に考える

 この思考法は生活レベルから鍛えられます。毎日コンビニで朝ごはんを買うのはどうしてなのか。それは朝の時間短縮かもしれませんし、自分で作るのが苦手だからかもしれません。家庭があって余裕がないのかもしれません。「私は○○だから、毎日コンビニで朝ごはんを買っている」という理由が明確であれば、その行動に自信が持てます。別に全てがポジティブな理由でなくても構いません。自分なりに納得解を出し、勝手に理由付けすれば良いのです。これは教育現場でも同じです。そもそも明確な正解なんて誰も知らないわけですから、自分単位で納得できる「なぜ」の答えをもっていればよいではないのでしょうか。そうすることで自分の行動に自信が出ます。うまくいかなければ「なぜ」の理由を自分なりに修正すればよいだけです。

⑤終わりに

 このような思考法は教師だけでなく、1人の人間としても大切だと感じています。こんなことを言いながら私は「なんとなく」で動いている部分が多い人間です。しかし「これは」という部分に関しては自分なりの回答をもっているつもりです。少しずつで大丈夫です。「なぜそれをするのか」という思考を意識してみてはどうでしょうか。

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