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無花果が実る頃

眩しい陽の光が瞼を照らす不快感で目が覚めた。時刻は正午を既に過ぎている。普通の会社員として働いていたら、午前中の仕事を終わらせて一息ついていることだろう。
 覚醒したばかりの頭で、枕元に置かれているスマホを見始める。瞳孔から伝わる人工的な光に目を細めながら、慣れた手つきで通知を次々と確認していくうちに、もう既に起きてから二十分は過ぎていた。
 まだ横になっていたいと駄々をこねる身体に鞭を打って、無理やり起き上がらせる。食事中、頭を空っぽにしてワイドショーを見る時間は、私が唯一何も考えないで済むひと時だ。
「不倫のお相手となったのは、一般人の方で・・・」
毎日のように、芸能人の不倫がトップニュースになるこの国は平和だ。スーツで神妙な顔をして報道陣の前に現れるその姿は、ひどく滑稽に見える。コメンテーターとして眉間に皺を寄せた、どこの誰かもわからないあの中年男性は、今まで一度も浮気や不倫をしたことが無いのだろうか。神に誓ってそう言えるのは、今を生きている人間の中でほんの一握りのように思える。
(くだらない・・・)
他人が不倫をしようと、離婚しようと自分たちの生活には何も影響がない。けれど、ここまで晒し上げのようにして世間の目の敵かのように報道するのは、一体何の意味があるのだろう。少なくとも私の中では、何も関係がない人間の不倫報道は少しも記憶に残らずに消えていく。仕事に出勤するまでの間を、どう過ごすかの方が、とても重要だ。
二人分の洗濯を回して部屋の掃除をして、シンクに残された皿を洗い、買い物に出かける。帰宅する頃には陽が落ち始めて、物悲しい色の夕焼けが部屋を染めていく。普通の主婦はこんな時、どんな感情を抱くのだろう。帰宅する夫や子供のために夕飯を仕込む、当たり前の日常。その当たり前の中にも、何か温かいものは存在する。残念なことに、私の家庭ではその温かさを築くことはできなかったけれど。
 夫の俊と結婚して、もう四年目になる。元々長く付き合っていた元カレとすれ違いを起こして破局した私は、半ばやけくそになって知り合ったばかりの俊と結婚を決めた。正直ただの勢いだったともいえる。けれど私の中で漠然と、どんな相手とでもそれなりに普通の家庭を築けると思っていた。今考えれば、それはただの無知でしかなく、暴走によって起こった弊害に数年悩まされている。
 俊に違和感を抱いたのは結婚して半年の頃だった。私と結婚するため、田舎町で就いていた仕事を捨てて上京してきた夫は、生活環境の変化に馴染めず、夜な夜な弱音を吐きながら涙を流すようになっていた。それまで大人の男性が簡単に涙を流す場面に出くわしたことが無かった私は、最初こそ同情したけれど、二回、三回と泣く彼を見るたびに、その涙の価値が安っぽく感じて、何も思わなくなった。寧ろ泣き虫な男が可愛いなんて思えるほど大人でも無かった私は、面倒くさいと受け取る方が多かった。それはなんとなく夫も感じていたと思う。いつの間にか、私の前では泣かなくなったから。
 夫との生活は、ほとんど破綻している。飲食業をしている俊は不定休で出勤時間もバラバラ。対して私は深夜に仕事から帰り、朝方に布団に入ると昼まで起きない。同じ家に住んでいるというのに顔を合わせることも会話をすることも稀だ。けれど私にとってはそれがとても心地いい。気分屋で浮き沈みの激しい俊の機嫌を伺いながら生活しなくてもいいし、好きなものを食べて最低限の家事をすれば文句も言われない。こんな生活になったきっかけは、不妊検査を俊が拒んだことから始まった。子供が出来ないことを一方的に私のせいだと押し付けて、自分が原因かもしれないとは絶対に疑わない。その考えは、言葉の刃で私の心を追いつめた。悔しさで眠れなかったあの夜を、私は今でもハッキリと覚えている。
 度重なる喧嘩で、何度も私に離婚届を突きつけられている俊は、毎回その場だけ取り繕い頭を下げるけれど、結局喉元を通れば何事もなかったかのように、また私を傷つける。そんな人間にいつまでも愛情を持てる方が異常ではないだろうか。頑なに離婚しないという選択をする夫に限界を感じて、私は家庭の外に居場所を求めた。昔から人一倍他人からの愛情を欲していた私は、この結婚生活で更にその欲求を強く感じるようになった。女であることを実感したい。誰かに強く求められたい。自己肯定感が枯渇したこの胸に、溢れるばかりの愛情を浴び続けたかった。

 夜の街を歩くのが好きだ。季節によって香る風の匂いも違うし、闇の中で煌々と輝くネオンに、人間の欲望や黒い影を、ひと時でも綺麗なものに変えてもらえる気がするから。
 素顔を隠すように濃い化粧を施した私は、とあるクラブにやってきた。ここが私の職場で、一般的にはキャバクラと呼ばれている。働き始めたのは半年前。夫と離婚するにあたり、新しい生活をするための資金を得るために始めた。高校を卒業しただけで無資格な私が就ける職など、たかが知れている。地味な職場で何年もかけて貯蓄をする時間も忍耐力もなかった。幸いなことに、容姿と体型は悪くなかったので、すぐに仕事ができたし、それなりに店でも上位の売り上げをたたき出している。なによりここで働いている間は、現実を忘れることが出来た。
「まなみちゃん。指名卓、四番テーブルに大塚さんね」
店長の耳打ちに頷いて、ドレスを纏った私は颯爽とテーブルに着く。源氏名のまなみと呼ばれると、自分の中でスイッチが入るのがわかる。私は自分の上にもう一枚、まなみという架空の女性の皮を被り、彼女の人生を演じているような気分で働いているのだ。そうやって本当の自分と住み分けなければ、“まなみ”に対して客から注がれる、欲望にまみれた汚い疑似愛に飲み込まれてしまうからだ。
「また来てくれて嬉しい」
そういって大塚の隣に腰を下ろした私は、得意の笑顔を見せる。大抵の男は、これで落としてきた。キャバ嬢と呼ばれる前も、それなりに男にはモテて来たと思う。どう振舞えば男が喜ぶのかは、二十八年間生きてきて、それなりに把握しているのだ。
「給料が入ったから、また顔見たくなって」
照れながら答える大塚を、私は内心酷く見下していた。本来なら、対等な立場であったはずの彼は、いつしか私に対して恋心を抱き、金を払って店で会うことしか出来なくなってしまったのだから。それでも彼は、純粋に私との関係の発展を期待している。そしてその期待は、私の手中で全て金に換えられて養分として吸われ続けていることに気がつかない。
何故なら私は彼にちょっとした優越感を抱かせているからだ。
 大塚と知り合ったのは、私が高校を卒業してすぐに勤めた会社だった。大卒の彼と同期入社となり、最初こそ苦手意識を持っていたけれど、それもすぐに打ち解けた。何より彼は人一倍真面目だった。そんな彼が私に何となく好意を見せ始めたのは勤めて半年が過ぎた頃。当時私には恋人がいたし、大塚の容姿や性格にときめく材料はなかった。だから余計にこうやって、今自分の客として店に呼んでいることに罪悪感を抱かないのかもしれない。実際、私が会社を辞めてしばらく疎遠になっていたけれど、久々に連絡をとったら嬉しそうにやってきたのだから。大塚は私の素の部分を知っている。本名や私の性格。それが彼にとっては、他の客に対する優越感になっているのだろう。その気持ちを、私はうまく利用して彼を繋ぎ止めている。最初から私に好意を持っている分、大して苦労することなく固定客になってくれているのは有難い。
「そういえば、話していたテーマパークはいつ行く?」
大塚に話を振られて、私は少し考える素振りをして見せる。
「今月は何かと予定が立て込んでいるから、またスケジュールがわかり次第伝えるね」とやんわり断りを入れると、大塚はそれ以上無理にその話題に触れてこようとはしなかった。
私に嫌われたくないと、自分の感情を抑えているのがわかる。申し訳ないけれど、もう金銭のやりとりがない時間をあなたに充てるつもりはない。心の中で、私はそう呟いた。
(だって興奮しないんだもの・・・)
決して口にはしないけれど、彼に対しての私の気持ちはその一言に尽きる。真面目だし優しい。付き合えば大切にしてくれそう。頭では全て理解しているけれど、肝心な心が動かない。彼に抱かれて女として艶めく瞬間を、一ミリも想像できないのだ。いつだって自分が相手を決めるのは直感。“その雄に欲情するのか”だ。随分本能的だと思うかもしれない。けれど私にとってはセックスが何よりも恋愛において重要視するもの。抱かれている時だけが、相手に一番強く思われている特別な瞬間だと感じる。セックスしたいと思えない男には、初めから愛を感じない。端的に言えば、それが私の恋愛観なのだ。
 「呼ばれちゃったから、ちょっといってくるね」
次の指名卓に行くように促された私は、大塚にそう告げて席を立った。寂しそうな表情を一瞬のぞかせたけれど、彼は相変わらず聞き分けがいい。私を引き留めるには、ボトルの一本でも開けなければいけない。課金できないのならこの店では敗北者だ。足早に別の指名卓に向かうと、そこでは一人で水割りを飲む祐樹の姿があった。彼は私以外のキャストが接客するのを嫌う。隣に座られると、変に気を遣ってしまって疲れるらしい。女性と話がしたくて店に来る客が大半なので、こういったタイプは珍しがられる。
 「来てくれて嬉しい」
私が席に着いた途端、それまで無表情だった祐樹は満面の笑顔を見せた。接客業をしている為、仕事中は自分を作らなければいけない。明るく話すことは出来るけれど、本当の彼は物静かでとても人見知りだ。初めてであった時も、一緒にやってきた職場の同僚や先輩と冗談やその場しのぎの会話でキャストと接していたけれど、時折見せる真面目な表情や寂しさを汲み取った私は、彼に寄り添う姿勢を見せた。数か月前、先輩に誘われて上京してきた祐樹は離婚して間もなかったらしく、心の寄り処を求めていたのかもしれない。連絡先を交換し、何度かやりとりをする内に、彼も色恋客として立派に成長。今では週に4回は店にやってくる私の一番の客だ。
 「本当は来る予定じゃなかったんだけど、一人で家にいると、まなみの事ばかり考えちゃうんだよね」
照れくさそうにグラスに口をつけるその横顔からは、私への好意がにじみ出ていた。
「私だっていつも祐樹の事を考えているから嬉しい。店にいないときは何しているのかなって気になるもの」
私たちの仕事は、常に相手がどんな回答を求めているか先回りして最適解を導き出すこと。それによって客は自分の事を唯一無二の理解者だと誤認してくれるようになる。ましてや恋心が芽生えれば、その依存は強くなるばかり。そうしてどんどんと沼に引きずり込まれていくのだ。この店には孤独やプライド、寂しさがひしめき合っている。それらを一時でも緩和させて、優しい世界に浸りたい。一種の現実逃避が出来る場所なのだ。
「話していた出かける話、考えてくれた?」しばらく他愛もない話を続けているうちに、祐樹は私に問いかけた。さっきの大塚同様、彼も私と出かけたいと前々から話をしていたのだ。一呼吸おいて、私はにっこりと笑顔を向けた。
「もちろん。どこにいこうか?」
祐樹は嬉しそうに自分の考えていたプランを私に話し始める。この対応の違いが私に投資した金額の差だ。祐樹は知り合ってからというもの、誰よりも私に金を使っている。本気でまなみに恋をしているのだ。これだけのめり込んでいる場合、ちょっとした拍子にヒステリックを起こしやすい。細心の注意を払って出来るだけ関係を持続させるには、多少のサービス残業が必要になってくる。それに店外デートに誘われても、テーマパークのような一日中拘束される場所でもない限り、最終的には店に連れて来られれば同伴扱いになる。
将来の自分へ繋げるために必要な犠牲だ。
 「それじゃ、来週の火曜日で。今から楽しみだな」
祐樹は幸せそうな顔で予定をスマホに打ち込んでいる。これが罠だとも知らずに、お気楽なものだ。心の中で笑いがこみ上げるのを隠しながら、私も頷いて見せた。
「ねぇ、キス・・・してよ」
恋愛を覚えたての中高生のような恥じらいを見せる彼は、本当に純粋で疑う事を知らない。それが時々、私の計算で作られたまなみの皮を突き破り、本心に直接ダメージを与えてくることもあるけれど、その度にいつも気付かないふりをする。祐樹の要求通りに、他の卓にバレない位置で唇を触れ合わせるだけの軽いキスを交わす。それだけで彼の頬は真っ赤に染まり、耳まで熱を伝えていた。こんなキス一つで満足するのなら、いくらでもくれてやる。瞳の奥で真っ黒な私の心が密かに囁いていた。もちろん相手が祐樹だから出来る事だ。清潔感があって、実年齢より若く見えるその容姿。きっと客として知り合っていなければ、充分に恋の対象になり得た相手。しかしここで出会ってしまった以上、何も発展することはないのだけれど。キャストに熱を上げる客たちは、最終的に身体の関係求める人間が多い。それを理解しているからこそ、遠回りで面倒くさい罠を、いくつも仕掛ける必要があるのだ。居心地の良いこの場所が砂の城であることに、今はまだ気付かないで居てほしい。
 閉店間際。それぞれ自分の客を見送ったキャスト達がぞろぞろと控室に戻ってくる。一足先に着替えを済ませていたさやかが、私の顔を見て話しかけてきた。
「今日も祐樹さん来てたね。今月もいい調子じゃない」
純粋に売り上げを讃えるその瞳は、まだこの世界に染まり切っていない美しいものだった。
「たまたま調子がいいだけだよ」
適当に謙遜しながら、私はドレスのホックを外した。さやかは私と同じ時期に入店したキャストで、未経験でこの店にやってきた。素人のようなあどけなさが、一部の客に人気だけれど、私はそんな彼女の売り方に不安を覚えている。何も着飾らない素直なキャラでブランディングしていると、本当の自分と仕事での自分との境界線が無くなってしまうからだ。人の感情を扱う仕事である以上、自分自身をうまくコントロールできなければ成立しないのだから。どんなに金銭を積まれても、私は自分の本心を他人に切り売りするつもりは更々ない。彼女のブランディングは、諸刃の剣。いつか心が折れてしまうのではないかと、漠然とした危うさを感じていた。
「送りの車、ちょっと遅くなるって。先に帰った体験入店の子が、酔い潰れて車内を汚したみたい。一時間は見てほしいってさ」
着替えが終わり、あとは帰るだけとなったところで、最後に控室に戻ってきたあやめが言った。送迎車待ちのキャストからは、大きなため息が聞こえた。私は内心、早く帰って本来の自分に戻りたいと思う一方で、少しでも長く家に帰らないでいられる口実が出来る事に喜んでもいた。俊と顔を合わせると、時々何の予兆もなく身体を求められるのだ。それが正直うざったい。完全に愛情が冷めきっている相手に欲情されるときほど、気分の悪いものはない。夫婦である以上、性交渉を求められるのは当たり前なのだけれど、夫の求めに応じたくないほど、私の心は既に彼から遠く離れている。
(どうやって時間を潰そうかな・・・)
仕方なく空いた席に腰を下ろして、咥えた煙草に火をつけていると、さやかは静かに髪を解いて席を立った。
「じゃあ、お疲れ様」
そういって彼女は控室のドアノブに手をかける。
「あれ?送り使わなくていいの?」
私の問いかけに、彼女は微笑んで頷く。
「歩いても帰れる距離だし。お客さんが最後までいる日は怖くて送りを頼んでいるけど、今日は指名卓すぐに帰ったから」
送迎車を待っている間に、自力で帰宅できる距離に住んでいたさやかは、そのまま店を後にした。私の鼻を煙草の匂いとさやかの残り香がそっと擽る。
 
 日頃自分の気持ちを偽ってばかりの私にも、唯一癒される時間がある。その日の前日は、何が何でも仕事を早く切り上げ、スキンケアを入念にした後、充分な睡眠をとる。月に一度しかないそのチャンスを、少しでも後悔のないように過ごしたいからだ。
 念入りに化粧をして、お気に入りの服を着たら、ヒールを鳴らして駅の階段を足早に上る。池袋の東口、キヨスクの前。待ち合わせ場所には、既に一人の男性の姿があった。
「久しぶり。待たせちゃった?」
声をかけると、彼は私に優しい笑みを向ける。
この笑顔のために、私は一ヶ月生きてきたんだと、大声で叫びたくなった。
「もう昼だし、先にどこかで食事をしてから行こうか」
無駄のないエスコートで、人波と共に歩き始めた私たち。隣を歩く彼が私の歩幅に合わせてくれているのを感じながら、汗ばんだ掌を気付かれないようにぎゅっと握りしめた。
 彼こそが私の心のオアシス。心の底から私は彼に恋をしている。大人になって色んなことに諦めを見せていた私が、ここまで本気になるなんて、自分でも驚いていた。けれど脳内で処理できないほど衝動的な感情に支配されるのが恋だ。他人の恋愛には偉そうに口を出す癖に、いざ自分の事になると、どうして人は途端に客観視できなくなってしまうのだろう。自分を縛り付ける左手の指輪を、家に封印してきた私は、ただの女になっていた。
 暴走してしまいそうな程、強い恋心を抱いているのに、私は彼の事をほとんど何も知らない。こんな不思議な現象に、正直初めは戸惑いさえ覚えた。
 半年以上前、家で生き辛さを感じていた私は、ネットに居場所を求めるようになった。そうしているうちに知り合ったのが、“翼”と名乗る彼だった。元々はお互い、普段の生活から少し離れたところで誰かと話がしたかっただけ。けれど知り合って段々と仲良くなるうちに、興味本位で会ってみたくなった。年齢も近いし、趣味も合う。何より久々にプライベートで男性と関わりたいと、強く願ってしまった。
(もしも、想像していた人と違かったら、何か言い訳をして帰ろう)
そう思って軽い気持ちで会ったのが事の始まり。実際に現れたのは自分のタイプを具現化したような彼だったのだ。肩まで伸びたストレートの黒髪、白い肌、筋の通った鼻に二重のはっきりとした目。身体のラインがわかるようなスマートで清潔感のある服装。そして低く落ち着いた声。五感全てを酔わされた私は、すぐに恋に落ちた。それから今まで、何も考えられない程、彼に夢中になっている。
けれど知り合ってから半年が経ったというのに、彼は未だ謎に包まれたまま。本名や仕事、家族構成・・・。ほとんどの事が何もわからないはずなのに、会うたびに心が惹きつけられていく。きっとこれは、彼から無意識に放たれるフェロモンのせいなのかもしれない。そんな不確定なものを言い訳にしたくなるくらい、私は彼にぞっこんなのだ。
 (悪い人だったらどうしよう・・・)
そんな懸念は、想いが強くなる度に感じていた。女性慣れしたスマートな行動、核心に触れようとするといつも上手くかわされて、何もハッキリとした情報が得られない。もしかしたら同業者なのかもと、何度疑ったことだろう。・・・そうだとしたら素直に諦めよう。
どんなに好きでも、私は金銭の上に成り立つ疑似愛で自分の心を満たせるとは思えないからだ。寧ろ答えがわかっているからこそ、侘しくなりそうで嫌だった。何も知らない今の関係が、もしかしたら一番楽しいのかもしれない。
 食事を終えて映画館に移動した私たちは、予定通りに公開したばかりの話題作を鑑賞した。平日の昼間、映画館は空席が目立つ。後ろ側の席に横並びになった私たちは、スクリーンを見つめていた。至近距離に高鳴る鼓動。
薄暗い密室の中で、彼の香水が私を包む。媚薬を浴びたかのように、頭がフワフワした。
好きな相手の香りは、記憶としてこびりついて離れない。きっとこれからも、同じ香水の匂いに触れるたび、私はこの気持ちを思い出すのだろう。
 自分ばかりドキドキしているのが悔しくて、悪戯心に火が付いた。映画に夢中になっている翼の肩に、そっと頭を乗せてみると、一瞬びくっと身体を反応させただけで、何の変化もない。上目遣いで彼の表情を確認すると、暗がりでもわかるほど、頬が赤みを帯びていた。
もっと隣にいる私を意識してほしい。自分と同じように感情を昂らせて、私を求めてほしい。露骨な欲望が次から次へとあふれ出してくる。口に出してしまわないように、ぐっと力を入れながら喉奥に唾を押しやって、彼がこちらに視線を向けるのを待っていた。ほどなくして、彼はおもむろにこちらに顔を向けた。やっと目が合ったことに、歓びを感じたのも束の間、全身を熱い血が駆け巡っていく。
(彼に抱かれてしまいたい)
衝動的に、身体が声を上げていた。段々と汗ばんでいく背中や胸元、落ち着かなくなる脚先。しっかりと閉じた太ももの隙間から、雌としての本能が顔を出していく。“セックスしよう”と直接口に出すのは、折角自分で作り上げた妖艶な雰囲気をぶち壊してしまうので気が引けた。好きな男の愛で渇いた喉を潤したい・・・。けれどこのまますぐに食べてしまうより、もっともっと、美味しく味わいたい。ひじ掛けに置かれた彼の手の上で、ゆっくりと指を滑らせる。何をせがんでいるのかは、誰だってこの雰囲気から察しが付くはずだ。真っ赤になって黙り込んでいた彼は、突然暗闇の中で獲物を狩るような瞳を光らせる。次の瞬間、待ち侘びた快感が私を襲う。荒々しく重ねられた唇から、熱いものが割り入ってきた。ねっとりと絡みつく体温に、湿った吐息。あぁ、今私は女として彼に求められている・・・。そう自覚するだけで、すでに脳は快楽に浸っていた。興奮だけで頭が真っ白になり、何もかも抜け落ちていく感覚。重すぎる肩の荷を下ろしたようなあの解放感。
流れに身を任せて、ただひたすらに本能をむき出しにし合えるのが、たまらない。そうして互いの性欲を刺激し合った私たちは、映画を放り出して、そのまま北口へ歩き始めるのだった。
 「今日も楽しかった」
事が済み、駅までの道のりで言葉を交わす。さっきまで籠っていた身体の熱が冷めた代わりに、迫る別れに寂しさが押し寄せる。ここで別れてしまえば、また一ヶ月ほど顔を見ることが出来ない。重い足取りで一歩ずつ進む私に、彼は心なしか困ったような顔を見せた。
「もっと短いスパンで会いたい」
駅へと続く階段の踊り場で、私はついに本音を口にした。
「ごめんね、私生活が忙しくてなかなか時間を作れないんだ」
翼は私に優しく告げた。彼の事情を詳しく知らない私は、それ以上何も言うことが出来ない。私の気持ちに気付いているはずなのに、彼はあえて目を反らしているように思えた。さっきまで繋がっていたはずの身体は、各々別個体であることを、残酷なほど思い知らされる。翼は優しい。でも、その優しさの裏に何かとてつもない感情を抱えているように見えた。きっと心に触れてこようとする人間を、全力で拒絶しているのだろう。“ごめんね”と小さく囁いた彼の目は、いつもより冷たかった。
 私たちは会うたびに、理性と本能の綱渡りを繰り返している。いつもギリギリのところで、彼の理性は必ず現れるのだ。このまま手を取り、本能にまみれた沼の中に一緒に落ちて行けたなら・・・。駅のホームを見つめながら、ぼんやりと考えていた。
 定刻通りに駅に着いた山手線。手を振り見送るホームの彼から、どんどんと離れていく。まるで魔法が解けていくみたい。甘くて淡いひと時は、静かに終わりを告げ、消化しきれないモヤモヤとした感情だけが、夜の闇へと溶け出していった。
 
 「おかえり」
翼と燃え上がったベッドの余韻を感じながら帰宅すると、玄関を開けた瞬間の俊の一言で現実に引き戻された。
「帰っていたんだ」
半分のぼせた状態だった私は、俊に会う想定をしていなかった。彼の顔を見た途端に、それまで感じていた幸せがどこかに消え去っていく。
「今日は早く上がっていいって言われたからそのまま帰ってきた」
上裸でビールを片手にテレビを見ている俊は、気付いていない。私から男物の香水の匂いがすることも、洗いたての髪からシャンプーの香りがすることも。どうかそのまま気付かないで。私の心が、もうこの家にはないという事にも。
 シャワーを浴びた後、髪の雫を適当に拭きながら、何の目的もなく冷蔵庫を開けた。
「無花果がある。珍しいね、買ったの?」
俊は視線を外さずに、私に返事をする。
「さっき大家さんにたまたま会って、もらった。沢山頂いたからって」
「食べてもいい?」
「いいよ。俺食べないし」
「どうして?好きじゃないの?」
「だって見た目がなんかグロいじゃん。食欲湧かないんだよね」
テレビを見ながら笑い声を上げ、俊はそれ以上私に話しかけなくなった。大ぶりの無花果は、冷蔵庫の真ん中で身を寄せ合っていた。赤黒い完熟したその実は誰かに食べてもらえるのを今か今かと待ち望んでいる。
「そういうところが嫌いなんだよね」
思わず、自分にしか聞こえないくらいの小さな声で呟いた。彼は自分の知らないものを、知ろうともせずに憶測で決めつけるところがある。見た目で判断することは、生きていて何度も損をする事があるだろう。私は彼のそういう傲慢なところが嫌いだ。自分の知らないことを理解しようとする人間だったなら、きっとここまで拗れた関係にはならなかったと思う。寂しそうに残された無花果に自分を重ねて、私は迷いなく手を伸ばした。
 冷蔵庫から出してみると、果実の甘い香りが部屋に広がった。この香りを嗅ぐと、私は亡くなった母方の祖母を思い出す。幼い頃、よく家に遊びに行くと、祖母が無花果を食べていたのだ。
祖母の生きてきた時代は、果物を手に入れることが中々難しかったらしい。バナナは高級品で、今のように安価に売られていることはなかったという。そんな祖母が大好きだった無花果。懐かしい記憶が、香りと共に脳裏によみがえってきた。
 丁寧に皮をむいて、白い実にかぶりつく。ねっとりとした果肉から、甘い汁がじゅんわりと口にあふれ出す。舌の上でその味を確かめた瞬間、鼻腔をつんと突く、涙の気配がした。無花果の甘さが、優しかった祖母の愛を鮮明に蘇らせる。誰よりも一番私を愛してくれていた。祖母以上に大きな愛で包み込んでくれる人は、この先一生を通しても、いないのかもしれない。両親とは、俊と離婚したいと話してから、溝が出来てしまっている。娘を思う親の気持ちもあるのかもしれないけれど、私は無条件で味方をしてほしかった。悩み続けて傷ついた胸を癒す愛がほしかった。祖母が生きていてくれたら、私はきっと子供のようにその膝に縋り、泣き崩れただろう。隣の部屋の俊に気付かれないように、私は声を殺しながら、静かに肩を震わせていた。とめどない涙は、雨のように頬を伝っていく。口いっぱいに広がる無花果の甘さに、少ししょっぱい塩気が混ざりこんでいた。
 「寝ないの?」
夜も更け、いつの間にか時刻は日付をまたいでいた。リビングでスマホに目を向けている私に、俊は言った。
「まだ寝ない」
簡潔にそう述べて、会話を終わらせようとする私。そんなことはお構いなしに、変に距離を詰めてくる夫。・・・嫌な予感しかしない。
「なぁ・・・」
少しトーンを落とし、耳元に吐息混じりの声を当ててくる。彼なりに雰囲気を作ろうとしたのだろう。けれどさっきの一言で余計に憎悪が増していた私は、嫌悪感でいっぱいだった。触れようと伸ばしてきた俊の手を払いのける。お前には生物的に興味がないのだと、ハッキリわからせるために、少し強めの力で。
ここでやっと私に拒まれていると自覚した俊は、露骨に大きなため息をついて、そのまま一人、寝室に姿を消した。もう二度と、夫婦として営みを交わすことはない。腕中に浮き上がった鳥肌を、優しく掌で撫でながら、私は強く誓った。
 
 翌日いつものように店に向かうと、ちょっとした騒ぎが起きていた。昨日突然さやかが店を辞めてしまったらしい。理由は客からのストーカー行為。週のほとんどを店で過ごす常連の一人が、最近さやかを気に入って場内指名をしていたことは知っていた。その客が色恋の延長で彼女に執着し、店から家が近かったさやかの生活圏内を付け回していたようだ。昼夜問わず粘着され続け、精神的に耐えられなくなったさやかは、パニックを起こして店を辞めたという。危惧していたことが、現実になってしまった。
 さやかが辞めてしまったことで、彼女の指名客がよく合番していた私に指名替えをしてくる。売り上げにはなるけれど、何だか釈然としなかった。そのくせ、彼女を追いつめたあの男はきっと何も悪いと思っていないだろう。店を追い出されても、どうせまたどこかで同じことを繰り返す。反省なんかするはずがない。自分が悪いことをしているという自覚がないからだ。けれど、こうなってしまうのは多分この男だけではない。人と人との感情が絡まり合うこの商売では、こういうことは珍しくないからだ。どんなに熱心に私たちに愛を伝えられても、それが本物でないことを知っている。金で買った模造品が、本物になることは絶対にありえないのだ。有名ブランドのコピー商品があるように、私たちが客に対して口にする愛の言葉は、ただの偽物。その場しのぎで相手の傷を一時的に塞ぐだけの粘着力の弱い絆創膏。それに客からの愛情だって本物なんかじゃない。自分が愛を囁いた分だけ、相手に見返りを求め、自分の思っている分満たされないとわかれば、不満となり相手を傷つける凶器となる。所詮彼らの愛は“自己愛”に過ぎない。とても利己的なものだ。関係をわきまえず、暴走を止められなくなった一部の人間が、こうして誰かを追い込んでいく。だからこそ、自分で自分の身を守る術を身につけなければならないのだ。
 キラキラと輝くネオン街に、今日も様々な感情が渦を巻く。渦中に立たされた私は、しっかりとまなみの皮を深くかぶり直すのだった。
 「昨日は全然連絡をくれなかったね」
指名卓に呼ばれて向かうと、明らかに機嫌の悪い祐樹が、私の顔を見るなり口を開いた。
久しぶりの至福の時間に、客と連絡を取るような野暮なことはしたくない。頭の中で、必死に言い訳を巡らせる私。祐樹は時々こうして、不定期に病み始めることがあるのだ。私の中では発作ととらえるようにしているけれど、毎回突き放したくなるような罵声を腹の中で煮詰め続けていた。
「ごめんね。昨日は体調が悪くて一日寝ていたの。本当は今日も万全ではなくて・・・」
弱い姿を見せたことで、それまで不機嫌だった祐樹は途端に私を心配し始める。
 同情を買うことで祐樹のメンタルを落ち着けさせた後は、フリーの席で場を盛り上げて閉店まで駆け抜けた。送迎車の中でキャストたちの話し声を聞きながら、窓の外の流れる夜景を呆然と眺めて過ごす。仕事が終わった後は、いつもぷっつりと心のブレーカーが落ちてしまっていた。
 それから数日。私は体調不良を理由に店を休み続けていた。身体に不調はないはずなのに、鉛のように重く感じる。さやかのことがきっかけで、自分の中の仕事に対する熱意が無くなってしまったのかもしれない。
 「今、大丈夫?」
目的もなくダラダラとした日々を過ごしていると、ある日の夜、突然翼から電話がかかってきた。彼から連絡が来るのはとても珍しい。普段は私からメッセージをしなければ、何も言ってこないのに。
「どうしたの?」
彼の様子はいつもと変わらないように聞こえるけれど、変わらないのならきっと連絡なんてしてこない。彼の口から、何が語られるのか、辛抱強く待つことにした。
「・・・会いたい」
しばらく沈黙が続いた後、翼は震える声でそう口にした。初めてその言葉を自分から発した翼に、私はすぐに何かあった事を察した。
「いつ?今からでもいいよ」
このまま彼を放っておいたら、何だか悪い事が起こりそうな気がする。直感でそう思った。
「今から家に来てほしい」
か細い声でそう告げられて、私は二つ返事で慌ただしく準備を終わらせると、夜道に飛び出した。
 翼の家の最寄り駅につくと、憔悴しきった表情の彼が立っていた。何とか私に笑顔をみせようとするけれど、無理に笑っているのがすぐにわかるほど、ぎこちない。
「ごめんね、こんな時間に突然呼び出して」
そういって彼は家のドアを開けて、私を部屋に通した。今までずっと謎でしかなかった彼の私生活は、一DKの普通の部屋であることがわかり、少し胸をなでおろしていた。こうして突然呼び出す位だから、特別親しい女性がいるわけでもなさそうだ。それなのに、彼はどうして自分の事をひた隠しにしてきたのだろう。
「二日前から、どうしても眠れなくて」
ソファーに並んで腰を下ろすと、翼は弱々しく口にした。何か過度のストレスでもかかっているのだろうか。ふと部屋を見渡すと、クローゼットの前に喪服のセットがかけられていた。誰か身近な人を亡くしたのかもしれない。
 「ゆっくりでいいよ。話したいことだけで大丈夫」
私の気遣いに小さく頷いた翼は、目頭を押さえながら話し始める。
「母が亡くなったんだ。ずっと闘病していたから、突然というわけではないんだけれど」
彼の告白に、私は言葉を失っていた。こんな時、何といってあげたらいいのだろう。どんな言葉も気休めにしかならない気がして、口にすることが出来なかった。翼の話で、彼が隠していたことの全容がみえてくる。彼の家は母子家庭で、唯一の家族である母親が病気になり、治療費が必要だったこと。お金を稼ぐために、自分の時間をほとんど仕事に充てていたこと。本当は私と会う時間を、もっと作りたかったけれど、自分を取り巻く環境から、恋愛をする余裕がなかったこと。ひとつひとつ丁寧に疑問に答えてくれた翼は、私と真剣に向き合おうとしてくれているのだとすぐにわかった。翼は自分の感情を抑えながら、ずっと母親のために過ごしてきたはず。その母親が天命を全うし、亡くなった今、悲しみと同時に自分の中で押し殺していたものが、あふれ出しているのかもしれない。
 結局、翼の話をすべて聞き終わった頃には、深夜になっていた。始発で帰ることにした私は、彼の家のベッドで初めて共に夜を過ごす。
私に心の全てを話し終えて安心したのか、翼はいつの間にか小さな寝息を立てていた。
(こんなに真剣に向き合ってくれたなら、私もいい加減に、決着をつけなきゃいけないな・・・)
彼の隣で、左手の薬指を見つめる私。何も本当の事を明かしていないのは、私も同じだったのに・・・。
 翼に想いを打ち明けられたことで、途端に罪悪感に襲われた。私が既婚者であることを知れば、きっと翼は私から手を引くことだろう。けれど私は、どうしても彼を手放したくはなかった。かといって、このまま嘘をつき続けているのは、苦しくて仕方がない。唯一の身内を失い、縋りたくなるほど彼の中で私の存在は大きなものになっていると気付かされたから。深呼吸をして決意を固めた朝、私は翼に全てを打ち明けることにした。
「私、翼の事が好き。あなたのほかに何もいらないと思えるほど。・・・でも私は、夫がいることをずっとあなたに黙っていた。本当にごめんなさい」
私が打ち明けた真実に、翼は寂しそうに微笑んだ。きっと終わりを見据えた笑顔だったのだろう。
「それじゃ、今日でお別れだね」
出来るだけ明るく別れを告げようとする翼。本当は情けなくても、泣きながら離れたくないと訴えたかった。でも今の彼に、これ以上負担をかけたくはない。彼の決断に静かに頷いた私は、話をつづけた。
「今のままでは、あなたの気持ちに真正面からぶつかることはできない。ちゃんと清算して、翼がまだ私の事を好きでいてくれたら・・・もう一度この部屋に来てもいいかしら」
胸の奥がヒリヒリと痛み始める。けれど絶対に彼の前で泣きたくはない。この痛みは、何だかんだ理由をつけて夫との関係を見直さなかった自分の責任だから。自業自得。まさにその通りだ。本当の愛がほしいと思いながら、逃げられる場所を残している自分は、とても打算的で醜い。人生の中で、人生の中で一番自己嫌悪に陥った瞬間だった。やっとお互いに素直になれたというのに、結ばれることなく離れていく二人。悔しくて悲しくて情けなくて、気を抜いたら声が震えてしまいそうだった。
「そうだね。そうなれたら、俺も嬉しい」
寂しそうに呟いた翼に、後ろ髪を引かれながら、私は下唇を強く噛みしめて彼の家を出た。
彼に抱かれた時のときめき、身体に伝わる体温。翼に関わるもの全てを、忘れたくなかった。もう二度と、この決意が揺らぐことはない。強い意志を胸に、人もまばらな始発電車に乗り込んで、本当は帰りたくもない、自分の家を目指した。
 
 夕方、俊が家に戻る前に、私は気持ちの整理をしていた。自分の口で彼に終わりを告げるのは、もう何度目になるだろう。その度に形だけの謝罪を受け入れて、彼が変わってくれることを期待した。けれど残念な事に、彼が変わることは一度もなかった。二十年以上自分として確立した人格で生きてきていると、今更変わってほしいと誰かに指摘されても、本気で自覚しなければ、矯正するのは難しい事なのかもしれない。それでも相手の事を大切に思う気持ちがあれば、努力する姿は見える筈。それすらないのだから、俊は私の事を完全に舐めているのだ。諦めてずっとこの関係を続けていても、何の得にもならない。私にとっても、俊にとっても。
 「どうしたの?突然かしこまって」
帰宅した俊は、何も言わずにソファーに座っていた私を茶化すように笑った。雰囲気を察すれば、何の話が始まるのか大体予想はつくはず。それを敢えてしないのは、現実から目を反らすためだ。また適当にその場を取り繕えば、どうにかなると思っているのだろう。
「いい加減、もう終わりにしましょう」
冷静に机の上の書類を見つめる私。見慣れた緑色の枠が印字された一枚の紙が置かれている。私が書くべき欄は、もう既に一人で埋めきった。
「・・・本気なのか?」
目を合わせない私の覚悟を感じとったのか、俊は茶化すような態度をやめて、真面目なトーンで呟いた。
「今まで一度も本気じゃなかった事なんてないけど?あなたは私がハッタリでそう言っていると思っていたんだろうけど。今度ばかりは、その場しのぎの謝罪なんて受け入れないから」
「そんなことないけど・・・」
「だったらこうなるまで、どうして放っておいたの?問題の根本解決に、一度だって至ったことはあった?」
「・・・。」
黙り込んだ俊に、今までずっと我慢してきた怒りの感情が沸々と湧き上がっていく。
反省した風を装うその表情を見るのも、もううんざりだった。
「これから先、この関係を続けて何になるの?気付いているでしょ?もうこれ以上私たちの夫婦仲がいい方向に向かうことはない。私の不満は解消されないまま。惰性で夫婦をすることに何の意味があるの?」
「私を愛しているから、手放せないんじゃないんでしょ?世間体や、自分の親に示しがつかないから・・・」
「そんなくだらない見栄のために、自分の人生を犠牲にするようなことは、もうしたくない。お互いに自由な人生を歩もう?」
静まり返る部屋。俊は入口の壁に寄りかかりながら、離婚届に視線を落としていた。
「・・・もう、戻れないのか?」
息を詰まらせながら、口に出した言葉は、今の私に何も響かない。今更何をやり直そうというのだろう。これまでにも、歩み寄れる時間はたくさんあったはず。けれど私たちは今日まで互いにそれをしてこなかった。これが二人の現実なのだ。
「わかった、書いておくよ」
私の決心が揺らがないことを悟った俊は、ため息をつきながら机の前に座った。いつの間にか、瞳に涙を浮かべて、必死にこらえている。
「ごめん、ちゃんと書いておくから、今日は一人にして」
最後の最後まで、私の前で涙を流さないようにすることは徹底したいらしい。それができるなら、もっと他のところにも気付いてほしかったと思うのは、私のエゴだろうか。小さく震える後ろ姿を見つめると、少しだけ胸が痛んだけれど、それは愛じゃない。数年でも、一緒に家族として暮らした相手への情だ。そのまま寝室の扉を閉めた私は、暗い部屋で布団に包まり、すすり泣く俊の声を聞きながら目を閉じていた。
 夫婦として歩んだ三年間。決していがみ合ってばかりではなかった。純白のドレスに身を包んで、チャペルで彼を見つめていたあの瞬間は、間違いなく世界で一番彼を愛していたはずだから。人間の気持ちは移ろう。その残酷な儚さを噛み締め、眠りに落ちた。
 翌朝目を覚ました時には、俊の姿はもうなかった。私と同じ部屋で寝ることをためらったのか、単純に眠らなかったのかわからないけれど、彼が寝室に来ていた気配はない。リビングには書き終えた離婚届だけがぽつんと残されていた。
(これで、この部屋ともサヨナラか・・・)
日当たりが良くて、暑いくらいになるアパートの角部屋。なんだかんだ言っても、私たち夫婦の時間が、ここに詰まっている。そう考えると、少し切なくも感じた。記入漏れがないか確認をして、準備を整えた私はそのまま新しい生活のために大きな一歩を踏み出すのだった。
 
「いやぁ、珍しいですよ。この部屋中々入居者が見つからなくて。大家さんも大喜びでした」
不動産屋の担当者が、満面の笑みを浮かべて私に鍵を差し出す。俊と別れて部屋探しを始めた私は、運命的な部屋に巡り合った。
「それにしても、本当にいいんですか?あの部屋は隣の空き地にある無花果の樹が邪魔をして、他の部屋より日当たりが悪いんですけど・・・」
私の顔色を見ながら、恐る恐る確認をとった担当者。どうやら私は相当変わり者だと思われているようだ。
「いいんですよ。毎日無花果を見ていられるから、この部屋に決めたんです」
私の返答に、一瞬キョトンとした様子で黙り込んだけれど、その間を埋めるような愛想笑いが響いた。
 誰に理解されなくても、それでいい。もう自分の気持ちを偽って生きていくことも、人生を諦めることも、したくはないから。
「いいんじゃない?君らしくて」
隣で私の気持ちに理解を示しながら、翼は優しく微笑んだ。
 ここから、私の新しい人生は始まる。あの店を辞めて、新たに事務の仕事に就いた私は、久しぶりに陽の光を浴びる生活に戻った。偽りの誰かの人生を生きることも、虚無感に襲われるような時間ももうない。何に縛られることもなく、自由に今を楽しんでいる。
「いい部屋じゃない。担当者さんが言うほど悪くないと思うけど」
荷ほどきの最中、翼は畳の香りを楽しむように、藺草に指を這わせた。
「好きな時に来ていいよ。畳の部屋が珍しいんでしょ?」
私の言葉に、彼は嬉しそうに頷く。疲れきった身体を畳の上に投げ出すと。なんとも言えない解放感と安心感があった。枯渇していたはずの心が、不思議と今は満たされている。細い指先を絡め合う相手に、時が経っても揺らがない想いを確かめ合えたからだろうか。
 窓の外からは大きな無花果の樹が見える。
たわわになった果実が、温かい秋の陽の光を浴びて深みのある赤色に染まり始めていた。
                 -完-