春休み

 ひさしぶりに日記を書く。岡崎乾ニ郎「抽象の力」を広島の丸善で先週買って、少しずつ読んでいる。対象を眺めれば眺めるほど、各部の印象が強くなって、とらえていたはずの形が壊れはじめるというのは、手塚敦史の詩を読んで感じでいたことと通じている。「トンボ消息」にある「水をためる中の 物」というのは、細かな語句に注目すると、「中の」の部分が意味を破壊してしまって、矛盾が生じているように見えるが、読み飛ばしてしまうとほとんど「水をためる物」としかイメージできなくて、それがわたしたちが普段認識している世界なのだと思う。しかし注意深く見れば見るほど、対象は対象であることをやめて、「中の」が印象を強くし始める。そしていよいよ「中の」だけが孤立して、われわれ自体をとらえてしまう。むずかしいことはわからないが、キュビズムとかそうした絵画の問題に、この詩集は通じているのだと思う。手塚敦史はつくづくテクニシャンだと思う。
 毎日雨がふっている。瀬戸内に住んでていいところは、雨がほとんど降らないところで、それが精神衛生上この上ないのだと思っていたが、これだと困ってしまう。部屋の窓から電線に止まっている鳥をずっと眺めている。尾の長い鳥の名前はしらないが、ツムギ、と勝手に呼んでいる。首を傾げたり、方向を変えてみたり、風のようすでも読んでいるのか。退屈しない。現代人は退屈のハードルが上がりすぎていると思う。こんなこと考えたいのじゃない。ただツムギがそこにいる様をただ眺めていたいのに。いつからか、なにも考えずにただ眺めるということができなくなったのは。子供の頃はそうじゃなかった。ただ眺めるということが画家の能力であり詩人にできることなのだと思う。また考えている。と、鳥はもういなくなっている。

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