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日本現代詩人会詩投稿作品第32期にて、柴田草矢名義で拙作「ゆきおりて」が雪柳あうこさん選で入選しています。去年の九月頃書いたもので、詩にかぎれば高校生以来、約三年ぶりに書いたものです。真剣に、詩を取り戻そうとして書いたものです。 https://www.japan-poets-association.com/contribute/

    • 4/26の日記

      ひとつの言葉をかくだけで.ひとつの言葉が出来上がってしまうのはなぜか? いまかかれつつあるこれらの言葉によって.わたしによってかかれつつあるこれらの言葉によって.変化してゆくことがさけられないわたし.なにかをつくることによって.どこかへ出来上がってしまっていくのはわたしの方であり.むしろその過程でしかない作品には本来方向性......つまり完成とか不完成とかはなくて.作品を仕上げてゆくにしたがって.出来上がっていったわたしによってうたれる終止符が.作品の完成という無意味を意味

      • ゆめ/いしき/みる/うつつ

         意識の中で思い描いているひとやものがかならずしも夢にかたちをもって現れるとはかぎらないことは誰でも知っている。むしろその夜眠りにつくそのときまでずっと忘れていたようなひとや場所のほうが夢のなかに反映される場合が多い。こういうときわれわれはわれわれの意識の外でうごいていてどうしようもない存在の存在を感じる。しかしこれは意識が意識でない部分を統治しながら考えているだけで、実際は無意識のほとんどが流動しながら意識というものをうごかしている。  ものを見るというのは、視覚のなかにあ

        • 春休み

           ひさしぶりに日記を書く。岡崎乾ニ郎「抽象の力」を広島の丸善で先週買って、少しずつ読んでいる。対象を眺めれば眺めるほど、各部の印象が強くなって、とらえていたはずの形が壊れはじめるというのは、手塚敦史の詩を読んで感じでいたことと通じている。「トンボ消息」にある「水をためる中の 物」というのは、細かな語句に注目すると、「中の」の部分が意味を破壊してしまって、矛盾が生じているように見えるが、読み飛ばしてしまうとほとんど「水をためる物」としかイメージできなくて、それがわたしたちが普段

        日本現代詩人会詩投稿作品第32期にて、柴田草矢名義で拙作「ゆきおりて」が雪柳あうこさん選で入選しています。去年の九月頃書いたもので、詩にかぎれば高校生以来、約三年ぶりに書いたものです。真剣に、詩を取り戻そうとして書いたものです。 https://www.japan-poets-association.com/contribute/

          堀辰雄のプルーストについての言及まとめ

          堀辰雄の随筆作品において、マルセルプルーストについて言及していて個人的に興味深かった箇所と、小説作品においてプルーストの文体の影響が顕著だと思われる箇所と、堀辰雄の研究書においてプルーストに言及している箇所を、書き写しました。細かい部分では本文と異なるところが多々あると思いますが、自分用に読み直せるように書き写したものなので、ご了承ください。参照した全集は『堀辰雄作品集 角川書店』です。 写真は信濃追分にある堀辰雄の書庫 「時間の見えざる実在、それを私は孤立させようと試み

          堀辰雄のプルーストについての言及まとめ

          耕治人について

           作家耕治人は明治三十九年(1906年)、熊本県八代に生まれ、詩人として出発し、昭和十三年以降は小説をおもに書いた。  その作風は私小説で知られる。私小説とは日本独自の小説形式であり、その定義は諸論あり明確ではないが、一般的には、その小説の作者、その身内などが、本人または本人をモデルにした人物として、作中に登場する小説作品のことをさす。  (一人称でかかれる私小説の場合、その書き手と、作中の語り手は、同一と見てもいいほどに限りなく近いものでありながら、フィクションであるという

          耕治人について

          記憶はどこにあるか—僕は宇宙そのものなのか

           忘れてしまうこと、記憶から完全に忘却されてしまうこと、頭から身体からその記憶が一ミリものこらずに消えてしまうこと、は、ないと、僕は考える。もちろん、僕は脳科学の専門家ではないし、記憶にかんして専門に研究をつづけているというわけではない、が、それでも一人の人間として、過去はなくなっても、記憶はなくならない、なくなってはさみしすぎる、と、信じているしそうあってほしいと願っている。  毎度毎度同じ考え方というか視点で、申し訳ないというか自分でもうんざりしているのだけれど、やっぱり

          記憶はどこにあるか—僕は宇宙そのものなのか