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【8月6日がやってくる・・・】

元々2007年8月にブログに書いた記事です。blogからFacebookノートに引っ越して修正してきましたが、今回noteに投稿し直すにあたり一部修正しました。
今は亡き母の気持ちに想いを馳せながら8月6日を迎えます。

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もうすぐ8月6日。広島原爆記念日です。あの日から77年の歳月が経ちました・・・
新聞では被爆者がだんだん高齢化していき、原爆体験が風化されていくのを危惧しているという記事が載っていました。
そして、幼い頃に被爆体験された(2000年当時)60歳代の方たちのアンケートを紹介し、当時の記憶を分かる限り残しておくべきだ、という声が高まってきているのを知りました。

私の実家では、毎年8月6日の原爆記念式典と、8時15分の投下時刻になれば、広島の方角を向いて黙祷をしています。  

私の母は、大阪で生まれましたが、戦争が激しくなり、祖母とまだ幼かった叔母と広島へ疎開しました。
祖母は元々広島の宇品出身で、宮島口にある、厳島神社の宮大工をしていた家へ養女に出されました。
その家は後継者の男子がおらず絶えてしまったのですが、3人の娘さんがいて、そのうちの1人の方の養女になったそうです。
なので、広島の親類を頼って身を寄せていたそうです。

宮島口の家は事情があって人の手に渡っていたそうで、最初は広電の己斐駅近くの親類の家にいたそうなんですが、そこもいられなくなって、昭和20年7月の終わりに宮島口に小屋を借りて曽祖父母と親類の一家と大勢で暮らしていたそうです。    

8月6日の朝、曾祖母は幼い母の手をひいて、楽々園にある親類の家に行ったのだそうです。
広電は、海と山が迫っていて、駅から続く長い坂道を登ったところに昔ながらの旧家造りの家があったそうです。

その日は朝から雲ひとつない快晴で、母は久しぶりに出かける事を楽しみにしていたそうです。
そして、その家の庭先に着いたその時。「ドーン」という激しい音と鋭い閃光が走ったそうです。
目の前の家の窓ガラスが一瞬のうちに粉々に砕け散りました。

曾祖母はとっさに母の上に覆いかぶさり、自分は硝子の破片まみれになって母を守ったそうです。
その日祖母と叔母は宮島口の家で朝起きたばかりで、音は聞いたそうですが、光は見ていなかったらしいです。
電車も動かなくなり、母は曾祖母とその楽々園の家にいて、皆が何が起こったのか様子を見に行こうとしたらしいです。

その惨劇はあまりにもすさまじく、この海岸沿いの町まで来て力尽きた人の死体の山が出来ていたらしいです。

その日の夕方、浜辺で遺体を焼いていたらしいのですが、母は「小さい子供が行ってはいけない」と言われておとなしく待っていたらしいです。
死体の焦げる臭いだけが記憶に残っているそうです。
当時5歳だった母にはその当日の記憶だけがしっかり残っているのですが、その後はあいまいみたいです。

何が起こったのか誰も何もわからなかったので、そのまま親類や知人を助けるために被爆した広島市内に立ち入った人もたくさんいました。
曽祖父母は塩の配給の為に、被爆後の広島市内に入り、被爆者として登録されました。
そして昭和30年ごろ、2人は次々と白血病になって亡くなったそうです。

母はそのまま宮島の小学校に通ったのですが、文化遺産があって戦災の難をのがれたその対岸の町は進駐軍が駐屯していたそうです。
慰問に来たヘレン・ケラー女史やマリリン・モンローさんを日の丸の旗を持って迎えたことを覚えていると言います。

父母が戦後幼い姉妹を宮島口の家に預けたきり大阪に戻っていき、父母なしで曽祖父母に育てられた母は、教会に行く事が心のよりどころだったようです。
なので私が結婚したのを記に教会で洗礼を受けました。

母はなぜか『プリントゴッコ』を異様に怖がります。
版を作るとき、電球が一瞬ピカッと光って焼き付けるのですが、あの光具合が『8月6日』を思い出させるみたいです。
雷が鳴っても、近くで光ってもあまり怖がらないので変な感じです。

あと、動物が車に轢かれてつぶれた死体を「成仏させてあげな」と土にいけてあげたりもします。
周りの人々は、そんな動物の死体を見たら「気色悪う」って感じですが、実はそれって残酷な事やなと、私も子供心に思った事があります。
なので、うちでは虫から鳥から金魚から、動物が死んだら土に返して線香をあげる、という事は普通にやっていました。    

そんだけその日の事を覚えているなら、いろいろな所で『語り部』として話をしたら?と言ったことがあります。
しかし、本人はかたくなに拒否しています。「誰もホンマにあった事として聞いてくれんけん、話さへん」と言い張ります。
一度話してもらったのですが、どうも話の端々に「よくわからんけど」という言葉が挟まるので、話がわかりにくいのです。
でも、今になると「ホンマによくわからへんのやな」と思えるようになりました。

今は被爆者の名簿を納める記念碑も建ってるので曽祖父母の名簿も納めに行くことと、記憶にあるんやからと、今のうちに語ることを勧めますが・・・どうしはるかわかりません;;    

後、私が思っていたのはものすごくしっかり記憶しているのに、本人は被爆認定されていない事。
国の被爆認定基準は爆心から半径2km以内にいた事と、それを証明するものを持っていかないと認定されないらしいのだ。
なので楽々園は大丈夫!と言い張っています。

しかし、それでも高校生の時に修学旅行に行ってタクシーに乗車拒否されたり、結婚したとき子供を生むなと言われたりしてたらしいです。
(ある意味、私をよくぞ生んでくれたとも言える)ですが、今調べてみると、被爆も2段階の健康診断措置があって、爆心から12kmの範囲にいた人間は「第二種健康診断受診者証」というものが交付されるらしい。
楽々園は爆心から11km・・・微妙ですね;;この話をしても「私はもらわん」と言ってかたくなに拒絶するので仕方ないです。
今さら証明してもらうものを探すのが大変やからって。    

しかし、母は自分の身体の具合が悪くなるたびに、脳裏に『8月6日』がよぎるみたいです。骨が弱いのと、粘膜が弱い、歯ぐきが弱いので、よく血が出るのですが、医療機関で何度診てもらっても『異常なし』で返ってくるみたいです。
そのよくわかんないけど、なんだか具合悪い感じの原因に『思い当たるもの』があるのが苦しいですよね・・・

しかし、原爆の怖さは、その光を浴びた自分だけでなく、自分の生んだ子供や孫という次の世代にまで影響を及ぼすかも知れないって事。
なので、私もなぜかとっても骨が弱いのでめちゃくちゃ心配してくれます。
身体が悪くなるたびに思い出す『8月6日』って何なのだろうね。
この爆弾が投下されたとき、その研究をしていたアインシュタイン先生はとても嘆いたと言われています。

自分だけでなく、子供や孫の身体まで悪くなったら、時は一瞬にして巻き戻り、『8月6日』に還るのだ。
「戦争」とは、国家と国家の駆け引きであり、フィフティー・フィフティーでの交渉でもあるはずなのに、あの日『広島』で、その後『長崎』で起こった事は何だったのだろうね。
私にはわかりません。    

もしも、皆さん心あれば、明日の午前8時15分、広島の為に、そして皆が安らげる世界が築かれるよう祈ってくださいね。

2007年08月05日10:15:00  

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原爆が投下されてから77年。母はその後認知症がひどくなり、コロナ禍の中施設で80歳の生涯を閉じました。

東日本大震災のでの福島原発事故が起こり「ヒロシマ」「ナガサキ」に「フクシマ」が加わるようになりました。

SDGsが叫ばれる時代となりましたが、個人的には放射能の絡んだ事は「人災」であるという意識をもっと持たねばならないと思います。
外交問題、貿易問題での世界との関わりと、人類の未来への展望と・・・それぞれの人がもっと真剣に考えねばなりません。

また私自身も病を得て、診察記録に母の原爆体験が記されることとなりました。
早期発見で手術し、現在特に健康には問題ないですが、なんとも言えない気持ちになります。

私がキャリアコンサルタント活動の中で何をしたいの?と問われた時に「未来を担う若者の支援をしたい」とこの記事の締めくくりに記していましたが、いろいろなご縁がつながり、現在、ジョブカフェの相談員をやっています。
そう考えると、これまで来た道は、なるべくして作られた道なのだと感じています。

※この記事を書いてから16年、1回目の修正から11年。私はさらに「次世代へのバトンを渡す」が自分の使命として取り組んでいく所存です。

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