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脳内に突如として現れるようになった出来物は、いったい何なのか?長い時間を経て開頭手術に踏み切った僕がつかんだ事実と、それまでの経過記録

🎯本作について

※この作品は、以前noteで1話ずつ紹介していた原本になります。

脳腫瘍が判明してからしばらくは、再発(播種を含む)が最も恐れることだったのですが、突如として脳内に嚢胞が現れます。

嚢胞の正体は一体何なのか?

本作は、脳内に突如現れた嚢胞に対して、約15年間向き合い続けた経過記録集(体験記?・闘病記?・備忘録(全41話:約63,000文字の長文です)

脳頭蓋内の検査方法や、放射線壊死について書いてあることが多いので、そこに興味がある人はプラスになることがあるかもしれません。また、実際に脳頭蓋内に嚢胞が出来て困っている人や家族には、治療を受けるうえで参考になることがあるかもしれません。闘病記を読むのが好きという人にもおすすめかも!

読んでいただけるのであれば、これまでの生き方を評価されたようで光栄ですし、今後も日々の出来事を書き残していこうと思える起爆剤になるような気がしています。

それではよろしくお願いします。



🎯その1 やばくない?

2006年 (平成18年) 29歳ごろ

僕は、学生のころに脳腫瘍が見つかって手術を受けてからは、オジサンになった現在までずっと、年に最低でも1回は、MRI検査(定期画像診断)を受けている。(主治医もずっと森先生!)

その理由は、髄芽腫が再発や播種をした場合、その成長が早いため、命に係わる重大な症状が急に出てくるからで、定期的に検査を受けるということは、結果的に長く生存できる可能性が高まってくることになるわけ!

その良い例が、2000年ごろの定期画像診断。

残念ながら、髄芽腫の播種が見つかってしまったんだけど、まだ小さいうちに見つけることができたから、ガンマナイフっていう放射線治療を受けて軽快!(これを早期発見早期治療っていうのかな?)

(今があるのは定期画像診断のおかげ…今後も定期検査は、僕にとって欠かせない仕事だ!)

ガンマナイフは、事前に顔面側(眉毛の上)と後頭部(耳の付け根)の合計4か所に穴をあけて、鉄仮面のようなプレート(機材?)を取り付けなければなりません…
ガンマナイフは、事前に顔面側(眉毛の上)と後頭部(耳の付け根)の合計4か所に
穴をあけて、鉄仮面のようなプレート(機材?)を取り付けなければなりません…

そんなふうに思っている僕が、当時の定期画像診断時を見てショックを受けた…

(また、あの時と似たような場所だな…)

前頭葉左側あたりに、これまでにはなかった10mm程度の豆粒?風船?みたいなもの(以下:嚢胞)が映っている…

突如MRI画像に嚢胞が映るようになった…
突如MRI画像に嚢胞が映るようになった…

「あの時と似たような…」っていうのは、2000年にガンマナイフを受けた場所。素人目だけど、ほぼ一致している…

ただ、当時の僕(今もだけど)は、それが何なのかを判断することはできなかった。考えられるとしたら、髄芽腫の再発の再発(播種の再発?)

(これは…終わったのかも…いや…でもな~)

画像に正常なら映らないものがあるのはわかるんだけど、痛みがあるとか元気が出ないとか…何かしらの症状が出ていたわけではなかったし、大分国際車いすマラソン大会にも出場するほど動けていた当時の僕。

どうしても悪いほうに考えることができない。

「(ここは先生の判断にまかせよう…)先生…これは…」

「う~ん…まだ小さいから、このまま消えることもありますよ。なので、しばらくは経過を診ていきましょう。今はそこまで気にしないで良いですからね」

「そうですか…よかった~」

先生がそう言われたため、ひとまずは安心する僕だった。

あれほどショックを受けていたのに、信頼する先生の言葉を聞いただけで安堵する僕

単純でしょ?

ま〜あの時は、これから起こる大ピンチなんて知る由もなかったんだから、当然って言えばそうなんだけどね…

若いころは車いすマラソン選手でした!
若いころは車いすマラソン選手でした!

🎯その2 活動開始…

2014年 (平成26年) 37歳ごろ

その後も、嚢胞が消えることはなかったんだけど、8年ほど経過した当時まで、大きな動きは見られなかった。

僕は依然として普段何不自由なく動けるし、痛みがあるわけでもないものだから、嚢胞のことなど段々どうでもよくなってきていた。

そんな僕に罰が当たったのは、ある日の定期画像診断時…

2006年以降、嚢胞に動きがなかったのに…
2006年以降、嚢胞に動きがなかったのに…

「う~ん…少し大きくなったかな…」

MRI画像を凝視しながら先生はそう言われた。

「えっ…大きくなったっていうのは、嚢胞の事ですか?」

「そうです。これまではほとんど変わらなかったのですが、今回は一転して嚢胞が拡大傾向であるし、周りの浮腫も目立つようになっていますから、
嚢胞構造が明らかに悪化していることを指します」

(と言われても…自覚症状は何も出ていないのに…)

「これからは、これまでより間隔を開けないで外来受診してください」

嚢胞自体に問題がないとしても、大きくなってしまえば正常な脳に悪影響を及ぼすようになってくる…先生はこれまでの方針「経過観察のみ(嚢胞の放置)」を撤回して、今後どのような治療が必要なのかを模索するようになった。

そして僕も、その後は撮影ごとに大きさや状態を確認・記録するようになった


🎯その3 新たな検査

森先生は、今の時点で考えられる嚢胞の正体は、「髄芽腫の再発」か「放射線壊死だろうと言われた。(その2つが混在している可能性も)

ただし、今よりもっと多くの情報を得なければ一つに絞ることができないみたい…髄芽腫の摘出手術からずっと僕を診てこられた膨大なデータ(病気や治療の経過記録?記憶?・僕の人間性など)があっても難しいんだろうな~

嚢胞の正体を予測する先生
嚢胞の正体を予測する先生

先生が言われる「髄芽腫の再発」も「放射線壊死」も(なるほど~)と思う節がある。

「髄芽腫の再発」の説明は播種しやすいことからも十分あり得ることだし、「放射線壊死」については嚢胞のある前頭葉左側(左目の上あたり)は、ガンマナイフ治療を受けている。その後遺症(ガンマ線による放射線障害)が今になって出てきてたと言うわけ…

先生が考えておられる「新たに行う何かしらの検査」…

MRI以外にあるのかな?

だって、嚢胞は硬い脳頭蓋の内側にあるんだから安易に見ること・触ることができないでしょ?そうなると、目視での確認や生検などが容易ではないだろうから、正体解明は至難の業じゃないかな~

また元気に走れるかな?
また元気に走れるかな?

🎯その4 僕のペット

2015年 (平成27年) 5月 38歳

「大分大学医学部付属病院(以下:大学病院)へPET検査を受けに行ってきてください」

森先生がついに新たな検査を受けるように言われたのは、嚢胞構造の悪化から半年余りが経過したころ。

その間も嚢胞は拡大を続け、徐々に正常な脳は圧迫されて行き場を失いつつあった。

先生が言われたPET検査というのは、メチオニンという放射性薬剤を体内へ入れた(静脈注射)後に、PETカメラ?CT?で撮影をすることみたい。

メチオニンは癌細胞に集まる習性?があるみたいで、それを利用した検査というわけ!(嚢胞が髄芽腫の再発ならばメチオニンがそこに集まってくる

僕のペットは「めちお」だよ~ん
僕のペットは「めちお」だよ~ん

メチオニンは当日作成した分は当日に使い切らないといけないらしくて、検査は(薬剤量から)当日行える人数の完全予約制。大学病院で行われるのは期間限定で今しかないみたい…

後日、大学病院を受診。

(お~懐かしいな~)

学生のころ(髄芽腫摘出手術のため)入院していたころを思い出しながら院内を進んでいくと、何やら増改築中みたいで所々で工事をしている。

本当はゆっくり見て回りたかったんだけど、今日は時間がなくて急いで懐かしの脳外科病棟へ。(検査入院という形になっていたからです)

「検温に来ました。これを…」

検査時間になるまでしばらく病室で待機していると、担当の看護師さんがパソコンみたいなものを乗せたカートを押して病室にやってきて、体温計を手渡してくれる。

(えっと…検査が終わればすぐに退院するんだけどな…)

そう思いながら体温計を受け取って脇に挟む僕。

計測中に、入院は初めてかと聞かれたので、学生時代にここで手術を受けたこと・当時の担当看護師さんが今の副学長?になっていることを話すと、「へ~そうなんですか~そんな昔はまだ私ここに勤務していないです~」と言われていた。

検査時間になり、看護師さんと一緒に病室から検査室のある放射線科へ移動。場所は何度も訪れたことがあるMRI検査室のまだ奥だった。記憶ではMRI検査室は通路の端にあったはずだから、ここも増築されたんだろうな~

さて、肝心な検査なんだけど…

MRIとPETって同じなのかな?
MRIとPETって同じなのかな?

たしか、メチオニンを静脈注射されてから体中にいきわたるまで、30分~1時間くらいリクライニングチェア(社長椅子みたいな豪華なやつ)で安静にしてから撮影をしたような記憶がある。

撮影するために寝台に横たわった後、ものすごく打ったところが熱くなる静脈注射をされ撮影開始。あれってなんだったのかな…あっ造影剤

撮影終了後は、しばらく安静にした後に検査室から病室に戻ってそのまま退院。延食で保管していたという昼食は、食欲がわかないため丁寧にお断りし、副学長(当時の担当看護師さん)のいるところへ行って、近況報告と昔話に花を咲かせ、元気をもらってから帰宅した。

後日、森先生宛に届いた結果報告書には、明らかに髄芽腫の再発を確実に疑うほどメチオニンが集まらなかったみたい。(1.8以上が悪性という数値診断で、それ以下だったから陰性であろうと書かれていたんだって!)
 
たしか、数値は1.6だったと思うんだけど、0じゃないんだから何かあるわけでしょ?
 
再発ではなく別の何かだとしても、本来頭の中にないものなんだから気になるわ~
 
今後の見通しが全くできない僕は、不安で押しつぶされそうになっていた。


🎯その5 石の上にも3年

2016年 (平成28年) 9月 39歳

メチオニンを用いたPET検査から1年余りが過ぎた。

検査結果は陰性だったけど、その後のMRI画像に映る嚢胞は依然拡大傾向…

紹介状を渡してくれる先生
紹介状を渡してくれる先生

森先生は、このまま嚢胞の拡大が止まらなければ、正常な脳が圧迫されることにより体に何らかの悪影響が出てくるようになるから、それが髄芽腫の再発でなくても、今のうちに何か手を打てないかと、再び大学病院を受診するよう紹介状を書いてくれた。

後日、その紹介状を持って再び大学病院へ…

昨年ここへ来た時は、すでに増改築中だったけど、順調に工事は進んでいるみたいだ。

特に、今回驚いたのは「外来受診システム」というのかな?

それはこんな流れ…
・受付後にバーコードが記された受診票が挟まれたファイルを渡される
・それを脳神経外科来窓口の機械にかざし待合室で待機する
・診察可能な状態になると、窓口上にある大きな電光掲示板に僕の受診番号が表示される・それを確認したら診察室へ入っていく…

僕が大学病院に入院・外来受診していたのは、おそらく20年ほど前が最後。当時はバーコードなんてなかったから、勝手が違いすぎて浦島太郎状態…

ただ、慣れてしまえばやっぱり便利!このバーコードを用いたシステムは会計などでも活用されていて、患者の負担軽減や業務の効率化・感染防止(非接触)にもつながっているんじゃないかなと思った。

さて、肝心な診察なんだけど…

籾井先生と僕
籾井先生と僕

診ていただいたのは籾井(もみい)先生。わざわざ診察室から待合室まで迎えに来てくれた。脳腫瘍などの治療成績が豊富なお医者さんみたいで、何か若かりし頃の森先生を彷彿とさせられる雰囲気があった。

先生は紹介状(画像なども)を見ながら、嚢胞がどんなものであれ、まだ小さい今の段階では積極的に治療するよりも経過を診ていった方が良いだろうと言われた。ただし、どうしても今の時点で治療をするとしたら、ステロイドの内服か、点滴静脈内注射(以下:点滴)を試して反応を見るのも一つの手なので、森先生とよく相談するようにとも言われた。

森先生が言われていた開頭手術はどうなのか伺ったところ、今の段階での外科的治療はメリットよりもリスクのほうが大きく勧めないと…更に、将来的にもし手術が必要になったとしたら、場所的に内視鏡での手術は困難で、額の上あたりを大きく開頭することになるだろうと言われた。

僕はそれを聞いてビビリまくってしまう。だけど、ここで逃げてはダメだと最近困っている見づらさの件を質問…

「そうですか…わかりました。あっ!最近、気になっていることがあるんですけど…」

「どうしましたか?」

「見づらさの件なんです。主に左目なんですが…全く見えないんじゃないんですけど見づらいっていうのか…そうですね~目の前に黒いバーコード?カーテン?があるようで…あと、目に涙が溜まったり溢れ出ることが多いし、目脂が出すぎる感じもします。だからいつも目の前に納豆みたいなネバネバしたものがへばりついているようなんです。そういう見づらさは嚢胞との関係性はありますか?」

「いえ…嚢胞がある場所的に、見づらさ・涙や目脂などの異常は出ないと思いますよ」

見づらさの原因教えて~
見づらさの原因教えて~

「そ…そうですか…あっ!先ほど将来的に手術するとか言われていましたが、いつごろでしょうか…」

それを聞いてどうしたいのかわからない質問をする僕…

「絶対手術が必要になるわけではないですよ!…万が一あるとすれば…3年くらいですかね…」

(3年か…よし、あともう少しあるな~)

3年あれば消えてなくなるかも~
3年あれば消えてなくなるかも~

そのくらいの時間があれば、事態は好転するだろうと思ったのか…それを聞いて安心した僕は、意気揚々と病院を後にした。


🎯その6 僕の新しいペット…

2020年 (令和2年) 6月 43歳

「大分先端画像診断センターへPET検査を受けに行ってきてください」

ある日の外来受診時、森先生はそう言われ紹介状の入った封筒を手渡してくれた。

(あれ?確か5年くらい前にPET検査を受けたんじゃなかったっけ?)

僕はそう思いながらも、紹介状を受け取ると足早に大分先端画像診断センターを受診

そこで詳しく説明を受けてようやく納得した僕。

「めちお」から「ふるお」に変えたよ~
「めちお」から「ふるお」に変えたよ~

以前、大学病院で受けたのは、メチオニンという放射性薬剤を用いたPET検査。これは、すでに大学病院で受けることはできなくなっているし、大分県内で実施している医療機関はないみたい。

今回は、フルオロデオキシグルコース(以下:FDG)という放射性薬剤を用いたPET検査。これも当日作成した分は当日に使い切らないといけないため、検査は当日行える人数の完全予約制。

薬剤は異なるけど、検査の仕組みは一緒。FDGを静脈注射されてから体中にいきわたるまで、30分~1時間くらい車いすに座ったまま安静にしてから撮影するために寝台へ。その後造影剤と思われる「ものすごく打ったところが熱くなる薬」を静脈注射され撮影開始。嚢胞が髄芽腫の再発(癌細胞)ならばFDGがそこに集まってくるみたい。

「今日は、水分をいつもよりたくさん摂ってくださいね!」

撮影終了後、リラックスルームのようなところで安静にしていたら、どこからか看護師さんがやってきてそう言われた。放射性薬剤はあまり長く体に入っていない方がいいみたい。(メチオニンの時にもそんな感じのことを言われたのかもだけど、はっきり思い出せない…)

安静後は、医師の診察。

以前受けたメチオニンとFDGとの違いについて詳しく話しを聞いた記憶がある…

後日、森先生宛に送られてきた結果報告書には、明らかに髄芽腫の再発を疑うほどFDGが集まらなかったことから陰性(再発ではなく放射線壊死)であろうと書かれていたみたい。

確か…それを読まれた先生は、「それじゃ~(嚢胞は)放射線治療後の癖痕みたい状態なのかな…」って言われていたような…

ということで…検査結果はまたも陰性…

それじゃ~嚢胞の正体は…

正体を早く教えてくれ~
正体を早く教えてくれ~

🎯その7 意味ないじゃ~ん

ここで「おさらい」というのか…嚢胞の正体が再発なのか壊死なのかで、今後がどのように変わっていくのかを(僕なりに)まとめてみた。

「放射線壊死」だった場合…
・大きく成長せずに自覚症状もなければ、無理に治療はしないでもいいんじゃないかな?(開頭手術なんてもってのほか!リスクが高すぎる…)
・大きくなって正常な脳を圧迫し、出てきた自覚症状で日常が送りづらくなってきたときは、治療(開頭手術など)が必要!(特に、強烈な頭痛は要注意

お前の正体は?
お前の正体は?

「髄芽腫の再発」だった場合…
成長スピードも速いし転移の可能性もあるから、すぐに治療(開頭手術など)が必要

どちらの場合であっても、確実な治療は開頭手術で嚢胞構造をクリアにすることだろう。ただ、開頭手術は大きなリスクを背負う必要があるから、できるなら避けたい…

術後の違いは…

「放射線壊死」だった場合…
開頭手術が成功すれば、その後の治療は基本なくて、再びそうしなければならない可能性は低いと思う

「髄芽腫の再発」だった場合…
開頭手術が成功しても、再発の可能性は高いので、術後さらなる治療(放射線や化学療法など)が必要

もっともっと簡潔に書くと~

再発ならすぐ開頭手術(術後も治療継続)、壊死ならいつかしないといけないかもよ!」って感じかな…

エビフライでも食べながら考えるかな…
エビフライでも食べながら考えるかな…

ま~患者にとって、今後どうしたいのかの自己決定は当然の権利だけど、(今後もこれまでのように自分らしく生きていこうとしたら)症状が深刻な状態になればなるほど、その選択肢は狭まってくるんじゃないかな…



どっちかわからないから今困っているわけで…こんな「おさらい」ってあんまり意味がないかも…

意味ないこと考える人はゴミに出します!
意味ないこと考える人はゴミに出します!

🎯その8 三者三様…

(見づらくなっている原因は、嚢胞の拡大が影響していると思うんだけどな~)

以前から、籾井先生からその可能性は低いと言われているのに、どうしても「それ」を信じて諦めきれない僕…

だけど、何もせずに悪化していくのは嫌だから「それ」以外で何か…

(あっ!眼科で診てもらおう!)

「それ」が違うのなら、眼科的に原因があるのかもと思った僕は、2020年あたりに3か所の眼科を受診している。

診察時の様子はこんな感じ…

「あの~今日相談したいのは見づらさの件なんです。特にひどいのは左目です」

「どのような症状ですか?」

「えっと…いつも涙目で悲しくもないのに涙がボロボロ出てしまいます。それでなのか?目の前に納豆の糸みたいなネバネバしたものがいつもあるみたいで…あと目脂もよく出て困っています」

ワニは食事中に涙を流しているように見えることから、食事の際に涙が出てしまう症状の例えとされます。これを「ワニの目現象」と呼ぶみたいです
ワニは食事中に涙を流しているように見えることから、
食事の際に涙が出てしまう症状の例えとされます。
これを「ワニの目現象」と呼ぶみたいです

「いつごろからですか?」

「多分1年くらい前からだと思います。それと、疲れていたりすると更に症状がひどくなります。目の前に黒いカーテンというのかバーコードみたいなものが出てくるんです」

その後の会話は省略というのか…眼科的に異常はなかった(視力検査は問題ないし他の機械でやった検査?でも異常は指摘されなかった)んだけど、それを患者にいかに伝えるのかという点では三者三様だなとつくづく思った。(お医者さんであっても人間なんだっていう証拠?

眼科医の診察中
眼科医の診察中

・A眼科
診断にかなり迷われたみたいで、無言で凝視される時間が少しあった後、「異常は特にないのですが…あえて言うのなら何らかのアレルギー性症状でしょう。原因がわかるまでは点眼薬が必要になることがあるでしょう」と言われ、点眼薬(フルメトロン・インタール)を処方してくれた

・B眼科
半分逆ギレ気味に…「どこも悪くないですよ!!!あえて言うのならドライアイです!!!目薬を出しますけど、これを指しても症状が完治するわけじゃないですからね!!!」と言われ、点眼薬(ジクアス)を処方してくれた

・C眼科
「眼科的には異常はないから投薬は必要ありませんが、聞く限りでは脳の問題(脳腫瘍など)で起きている症状の可能性も考えられるから、今後も続くようなら脳外科の先生に相談してみてください」と言われた

(このお医者さん専門外だろうに…脳外科領域の問題からで起きている可能性を指摘するとは…)

そんなふうに、C眼科のお医者さんをすごいなと感心させられたし、今起きている症状が嚢胞の関係からではなくて、別の原因があるのかもな~と思った瞬間だった。


🎯その9 働けなくなるかも…

2021年 (令和3年) 10月 43歳

このころ、ついに嚢胞拡大による自覚症状が現れえてくるようになってきた。

そのせいで、大きく支障が出てきたのが仕事だ…

「辛島さ~ん…起きてますか~」

職場で居眠りする僕
職場で居眠りする僕

「えっ!あ~大丈夫…です」

「また、居眠りしていましたよ。きちんと睡眠をとっているのですか?」

「ええ…すいません、気を付けます…」

居眠りと言っても、もう少し詳しく書くと質が悪いのがわかると思う。

[パソコン作業中、突然意識を失ったかのように、マウスを握ったまま・パソコンを見たまま眠っている]

キーボードの上に拭いたティッシュ
キーボードの上に拭いたティッシュ

僕が我に返ったときは、すでにヨダレが垂れてマスクは湿っている。それは気持ち悪いからティッシュで吹き取るんだけど、またすぐ垂れてしまうから(いつでもすぐ拭き取れるよう)キーボードの上に拭いたティッシュを広げている…(それは僕にとっては都合が良くても、他人から見ると不快…)

更に、居眠りまでいかなくても、集中して作業するよりボ~としている時間が増えてきた。それも職場の雰囲気を悪くしかねない大問題だ。

そういうのは、他人から気が疲れやすい症状になると思うんだけど、勤務時間内に予定の仕事をこなせなかったり、やる気が湧いてこなくなったり、疲れが取れず体がだるいなど、他人には気づかれにくい症状も出ていた。

「もう…働くのは難しいんじゃないのですか?」

やんわりとではあったけど、勤務中の態度で職場の上司から注意を受けるようになってきている…

このような症状は、嚢胞が拡大し正常な脳が圧迫されている証拠…

(まずいぞ…どうすればいい…やっぱり手術なのか?)

今後も悪化が続けば、職場からより厳しい注意?処分?を受けるのは必至…それはいわば、これまで通り働き続けるのが困難になるかもしれないことを意味していた。

(勤務中の態度を改善させる方法を探さないと…あっ!睡眠状態にならないようにすればまだなんとか行けるんじゃないかな…)

循環器科を受診
循環器科を受診

そう思った僕は、8月に循環器科を受診して相談。睡眠時無呼吸症候群の可能性を疑われ、簡易検査を自宅でさせてもらっていた。ところが、結果は軽度でありCPAPなどの治療対象にはならず、寝る時の姿勢を横向きにするなどアドバイスを受けたのみ。症状を劇的に変える手段は見つからなかった。

CPAP

(やばいな…万事休すか?…これは、森先生に相談するしかない…)

10月の定期受診時、これまでの経緯などを話し、脳波とMRIを急遽撮る事になった。

「ちょっと…今回は問題ありですね…」

診察室に入るや否や、そんなショッキングな言葉を聞いた僕…

慌てて、(事前に撮影していた僕のMRI画像が表示されている)医療モニターを見ると、平面にスライスした形ではあるけれど…左側(左脳)全体の2~3割ほどに拡大した嚢胞構造が写って見える…

(えっ…これって僕のMRI画像?)

これまでとは明らかに大きさが違う…あまりの変化に、本当は別人の画像なのではと疑ってしまった。

昨年6月のPET検査(FDG)以降も、嚢胞は拡大傾向ではあった。ただ、拡大ペースは緩やかであり自覚症状も出ていなかった。

それが、最近のコンディション悪化を裏づけるかのように、今回の画像ではこ一転して急速に拡大している…

(これって…やばいんじゃ?…いや…やばいぞ!)

「あの~先生、これは大丈夫なんでしょうか…」

「今すぐに命の危険があるわけではありませんが、壊死ではない可能性も十分視野に入れなければならないでしょう。

ただ、自覚症状が出ている今、それにこだわるよりも、早急に何かの手を打った方があなたのためです。これまで言ってきたようにいつかはなんとかしなければならず、まさに今がその時です。

もちろん今回も最終的に決めるのは私ではなくあなた次第ですが、私から大学病院に強くお願いをするので受診してよく相談してください」

早期に何らかの治療を受ける意義はわかっているつもりなんだけど、小心者で優柔不断な僕がそれから逃げてしまう傾向が続いていて今日まで来てしまっていた…

ただ、今回もそうするわけにはいかない!

「わかりました。行ってきます!」

このままでは辞めさせられそうだ…

🎯その10 ぴこ~ん!

2021年 (令和3年) 11月 43歳

森先生が書いてくれた紹介状を持って大学病院を受診した。

「紹介状と一緒にMRI画像が入ったCDが届いたのですが、残念ながら確認することができませんでした。ただ、画像を印刷された用紙が入っていましたし、先生のお手紙に詳しいことが書かれていましたから大丈夫です」

紹介状を読みましたよ!
紹介状を読みましたよ!

診察室へ入るなり、籾井先生はそんなことを言われる。

画像はDICOMとして取り込むって聞いたことがあるから、確認できないのはCDの破損なのかなと思ったけど、確認しなくても現状を把握してくれているなら何も問題はないわけで…

「画像が診れないのは残念ですが…それでは…どうでしょうか…」

見たいけど見れない嚢胞…
見たいけど見れない嚢胞…

「画像上での嚢胞構造拡大もそうですが、最近になって仕事中に突然意識を失うような居眠りや、集中力や気力・持続力の低下がみられるようですね?」

「ええ…」

「それらは、これまでもお伝えしてきたように嚢胞が大きくなって、正常な脳を圧迫し悪影響が出ている証拠です。これまでは、嚢胞がそれほど大きくはなく症状が明らかに出ていませんでしたし、あなたから手術を受ける意思を感じられませんでしたので経過観察としてきましたが、今回は強く手術することを勧めます」

(やっぱりそう来たか…森先生と同じ意見だ…)

そうそう…

森先生ほど前からじゃないけど、嚢胞がだんだん大きくなってきた数年前からは、籾井先生からもやんわりと手術を勧められるようになっていた…

「嚢胞が大きくなってきています。それは即命に関係する問題ではありませんが、大きくなればなるほど正常な脳が圧迫されて本来あるべき場所に留まることが出来ません。

あなたの場合(嚢胞がある場所)は、頭痛や集中力の低下、居眠りやボ~としてしまうなどの症状が出て徐々に悪化します。今はまだ症状が明らかに出ていませんが、そうなる前に…今後の予防的な治療の意味合いで手術を受けた方が良いです。

ただ、決めるのはあなた次第です。受ける意思があれば、こちらはいつでも手術計画を立てます」と…

それなのにここまで経過観察を続けてもらっていた理由は、森先生の外来時と同じで…小心者で優柔不断な僕が手術をなかなか決断できずにいたから。

僕が手術に踏み込めない理由…

全身麻酔下での開頭手術というリスクはもちろんだけど、これまでの外来受診で相談してきていた顔面神経麻痺の諸症状が、手術をしても改善されないだろうというのもネックになっていた。

何ていうか…大きなリスクを背負って受ける手術なのに、僕に返ってくるメリットがどれだけあるんだろうって…
     
だけど、最近は仕事中の勤務態度(居眠りやボーとしてしまうなど)で職場から注意を受けることもしばしば…また、上司や同僚の目も気になるし、集中力が保てず目標量の仕事をさばくことができないのは明らか…

(このままでは、今後も働き続けるのは難しいのかもしれない…)

手術を受けたら、僕が今困っている顔面神経麻痺は治らない可能性が高そうだけど…仕事中の居眠りや集中力低下が改善される可能性は高い。それはすなわち、今後も継続して働くことが可能になる…

併せて、入院中に言語訓練を受けることができれば、喋りにくさなど口周辺の機能回復も期待できる…

どうする?

(やっぱり、自分じゃ決めきれんわ~父ちゃん教えてくれよ…)

そんな弱音を吐くヨワヨワマンは、年齢だけは立派なオジサンなわけで…

時間は限られている。

目の前には籾井先生が、僕の返事を今か今かと待ち望んでいる…

どうしたら…

「先生…やっぱり…(あっ!)」

そのときだ!

ひらめいたぞ!

迷いに迷う中、僕の脳裏にこれまでの記憶?軌跡?が浮かんできた!


🎯その11 明るい未来のために決めたこと

あれは…まだ健常だったころ?

高校の学生服を着ているから開頭手術直前みたいだ!

あの時は~周りには同世代の仲間で溢れていたよな~

進路をどうするか悩んだよな~
進路をどうするか悩んだよな~

こんな僕にも人並程度?の仲間がいて、同じ時間を一緒に過ごしワイワイと騒いだり、他愛のないことで笑ったり(勉強もしたけど)…

カヌーを漕いでいたよな~
カヌーを漕いでいたよな~

そういう日常は当然っていうのか…あたりまえすぎて何て言っていいのかわからないけど、大切な時間だったのは間違いなかったと思う。

それが、開頭手術を受けたのを境にして180度変わった…

左半身麻痺など、身体に障がいを負うことになったのはもちろんだけど…圧倒的に同世代より年上の人が多い環境下で、話が合わないというよりは、話をする雰囲気ではないと言えばいいのか…ある意味、孤独な闘いが始まった。

一人の時間が増えていたからなのか?病院を退院して、確実な歩行を獲得するため専門の施設へ行くころには、自分はもう他人と関わることなんて無理…一緒に生活するなんてできるわけがないって確信していたっけ…

あれ?学生服姿の僕がだんだん消えていくぞ…

おっ…今度は車いすに乗って出てきた…

にわか車いすマンのころ
にわか車いすマンのころ

見た感じ…にわか車いすマンのころみたいだ!

あのころは、プロ車いすマンになりたいわけじゃなかった…

ただ、歩くことが難しい現状を打開するにはそれしかなかった。

だから、プロ車いすマンとして社会参加できるよう専門施設に入所した。

施設は、小学校の日課表のように日々のスケジュールが決められていたよな~

最初はなんてことはないと思っていたんだけど、障がいを持つとなかなかうまく行かなくて…何をやっても上手に早くできなかったっけ!

ま~生まれつき不器用だったのも、それに合わさって一層要領が悪くなっていたのかも?

もともと不器用
もともと不器用

だけど、諦めないで3年くらい訓練を受けている間、多くの良き出会いがあって僕は変わっていったよな~

・社会復帰への道を、自分のできる範囲で精一杯模索する仲間の姿を見たり、寝食を共にしたり…

自分のできる範囲で精一杯模索する仲間
自分のできる範囲で精一杯模索する仲間

・障害者スポーツ関連で「身体・精神・知的」様々な障がいのある人と交流したり…

車いすラグビー
車いすラグビー

障害者スポーツ指導員としていくつもの活動に参加したり…

車いすツインバスケットボールのテーブルオフィシャル(審判)
車いすツインバスケットボールの
テーブルオフィシャル(審判)

そうこうしているうちに…

いつしか、あれほど自分に自信がなかった僕が、将来の夢を持つようになった!

「僕の考える自立した生活(単身生活をしながら仕事をして車を運転すること)をしてみたい」!

僕の考える自立した生活がしてみたい!
僕の考える自立した生活がしてみたい!

当時はそのすべてが不可能なレベルだったけど、いつかできたらいいな(そうなれるよう頑張ろう)と前を向けるようになっていた。

そして今、そんな夢を全て叶えた僕がいる…と言ってもスタートラインに立てただけで、まだまだ「道半ば」

それを、より確かなものにしていく日々は、「なんてことはない」っていうのか…「想像とは違った」っていうのか、「以外と孤独で寂しかったりして、楽しいもんじゃなかったんだな」っていうのかな…すべてが僕にとってプラスではないような気がするんだよね…

日課表のように、決められたスケジュールなんてない自由な社会…

それって、なかなかシビアっていうのかな…

だけど、それこそが実社会なんだ!…それこそが僕がいるべき場所なんだ!今の僕なら生活できる場所なんだ!と思える自分がいる。

そうそう…

僕は…いつの間にかプロ車いすマンになっていた!

そんな僕ならば、手術なんてヘッチャラだろ?

でも…

手術と言っても、やっぱり…開頭手術は…怖い。

いざ、目の前にしてみたら足がすくむ…

・・・

いや、待て…

僕にはあの言葉がある…

学生時代にカヌーを漕いでいた僕の恩師が好んで使っていたあの言葉。

メガホン片手に自転車を漕ぐ恩師
メガホン片手に自転車を漕ぐ恩師

いつしか、僕の座右の銘となったあの言葉。

「意志あるところに道は開ける」

何か叶えてみたい夢・やってみたい目標のようなものがあるのなら、その強い思いを継続して向き合い続けることで未来は見えてくるんだ…ただ、その過程は必ずしも成功ばかりでなく失敗もたくさんあるし、やっとのことで見えてきた未来が想像していたのと違うこともあるのかもしれない。だけど…向き合った経験・費やした時間は、これから生きていく中できっとプラスとなって支えてくれるから…そこから逃げず諦めないで前を向いて…

これまで様々な障がいのある人に出会い、たくさんの人に支えてもらえた。何度もあの言葉に助けてもらえた…

それは、誰もができるわけじゃやない貴重な経験!

そうだ、今の僕は「ただのヨワヨワマン」じゃない!

だから…

僕は、まだ終わっちゃいない!…いや、終わってはいけない!

まだまだこれからだぞ!
まだまだこれからだぞ!

これからも、これまでと変わらない生活がしたい!

自分の考える自立した生活である3つの柱が、一気に崩れ落ちる可能性もあるんだけど、最も危惧しているのは…

継続して働くことができるのか?

その打開策は、開頭手術を受けることが、最善なのは明らか…

それなのに、あ~だこ~だ駄々をこねて、一角を自ら崩してしまっても良いのかよ?

そうじゃないやろ?

その可能性が開頭手術の先にあるのなら…

「それでは…今後も経過観察でということで、よろしいでしょうか?」

「いえ、やっぱり…手術をお願いします!」

僕は決心した。まだまだ叶えきれていない夢に向かって…

学生のころ以来20数年ぶりの開頭手術に挑む!


🎯その12 出陣準備

2021年 (令和3年) 12月 43歳

先月の外来受診後、入院日程決定の連絡を待っているんだけど12月に入っても連絡がこない…

学生の頃入院した時は、開頭手術までにさまざまな検査をして、それには2週間くらいかかったと記憶していた。だから逆算して12月初旬までに連絡がなければ年内手術は難しいだろう…

(出来るだけ早く…年内に手術が受けられたらうれしいというようなことを伝えていたんだけどな~…ダメっぽい…)

そこで、今一度入院時に提出する書類や入院に必要な荷物を今一度確認。

書類の大半(入院誓約書、輸血が必要になったときの使用可否書、病衣、オムツ使用申込書、退院支援計画書など)は躊躇することなくサインできたんだけど、「特定生物由来製品使用承諾書」については一時どうするか迷ってしまった。だって特定生物とか…地球外の物質で育てられた本来なら自然界に存在しない生物みたいなイメージが湧いてしまって…ただ、今はそんなことで迷う時間はないと我に返った僕は、書類を熟読した後にサインした。

(あれ?嚢胞の手術だけじゃなかったっけ…)

なぜか、手術の説明書類には2つの術式が書かれている…
・頭蓋内腫瘍摘出術
頭蓋底部硬膜閉鎖術

最初の術式は嚢胞に対するものと思ったけど、次の術式はいったい何なのか…閉鎖術?

説明書をよく読む…開頭部位が副鼻腔につながる可能性がある(嗅神経の近くに嚢胞があって、術後に臭いがわからなくなる可能性がある)から通り道?を封鎖するみたい。ただ、それによって術後に髄膜炎や脳炎・髄液が鼻から漏れるなどの合併症が出る恐れがあると…

ナビゲーター
ナビゲーター

手術にはナビゲーター(ニューロナビゲーター)を使うみたい。学生の頃受けた開頭手術時に使ったのかわからないけど、ナビゲーターがあると手術がやりやすいみたいだから、脳医学の発展に一役買っているんだろうな~

手術の目的は、腫瘍を減少させ、脳を除圧・水頭症を解除することで、僕が自覚する症状を軽減させること!手術によって、ある程度は周囲の脳に影響を及ぼす恐れがあり、それが視力や視野、失語、意識障害、高次脳機能障害などの出現・悪化につながる可能性がある…か~

なんかいろいろと怖くなってきたんだけど…お前は籾井先生を信じるしかないんだぞ!と自分に言い聞かせる…

大学病院も必死だな~と痛感させられたのは、新型コロナウイルス感染症予防対策(以下:コロナ対策)関連の書類が数枚あったこと。

①入院前の注意事項
・入院2週間前からの不要不急な外出を避ける
・入院2週間前からは流行地域(県外)へ往来した人との接触をしない
・手洗いをこまめにし、3密(密封・密集・密接)を避ける
・入院2週間前からは、毎日朝体温を測る
など

②入院時の注意事項
熱が出たとか、入院前の注意事項を守れなかった場合などは事前連絡を!
など

③入院後の注意事項
・面会禁止(ただし、入院時と手術説明日、手術日と退院時の4日間は家族1名のみ面会可能)
・洗濯など荷物の受け渡しがある場合は、病院玄関近くに設けた場所で対応(病室にはもちろん入れない)
など

このことから(家族が高齢であったり、忙しかったこともあったけど)、家族に洗濯をお願いしたり必要物品を随時運んでもらうのはやめようと思った。そのため、何を持っていくかでかなり悩んだし、少々割高だったけど病衣と使い放題のオムツを契約した。そして4日間の家族面会日は父親のみに来てもらい、他の家族には来ないよう連絡した。

数種類のオムツを使い分けることで、経済的にもgood!

ま~(ちょっと厳しすぎるんじゃない?)って思うところもあったけど、コロナ禍なんだから仕方がない。

医療機関はたくさんの患者が行きかう(入院・外来)場所なんだから、クラスターなんて起こすわけにはいかないし、これは何も大学病院だけではなくて、どこの医療機関も同じような対応をしているんじゃないかな~…ってことで我慢!

種をまくように広がるクラスター

それから…入院前もまだまだ働く日数があるため、勤務体制を見直ことために上司と相談をした。(勤務時間を短縮させてもらい、短時間勤務で寝ることが減らす)

勤務中に寝てしまったり集中を保てないのは、嚢胞を何とかしないと簡単に解決できる問題ではないことは十分に分かっている。だから、今の時点で対策と言っても無残な結果になるのは目に見えている…ただ、何も対策を取らないのは職場に申し訳がない!

併せて、入院後どのような形で勤務をお休みするのが良いのかも相談した。入院前に勤務時間短縮のためにかなりの有給時間数を消化するため、入院後は病休と欠勤を申請し、疾病手当の手続きをする方法が良いのではないかと言われた。

僕が手術を受ける事を決めたのは、これまでと変わらず「僕が考える自立した生活」を続けて行きたいから!その一角に仕事があり、手術を受けることでコンディションを整え、「今勤務する職場で現勤務体制を維持すること」はとても重要なこと。このままではそれが崩れてしまうかもしれない…

(ちょっと待って!単身生活をしながら仕事をし、車を運転することを続けたいんなら、何も今の職場に拘らないでもいいのでは?別のところで働いてもそれは可能でしょ?)

そんなふうに思う人もいるんじゃないかな…

それはごもっともなんだけど、僕は「今勤務する職場」に強い思い入れがあるんよね!

それは、「働き始めることができた経緯」って言ったらいいのかな?職場の雰囲気や仕事内容が僕に合っている点もだけど、あの時こんな僕を採用してくれた職場に恩返しをしたい気持ちが強くて…まだまだ恩返しなんて程遠い今の僕は、現職場で継続して働くことは必須条件!また、当時からの現勤務体制(勤務時間)を崩したくないのは、「初心忘るべからず」というのか…あのころの気持ちで仕事に向き合いたい…ま~僕の意地みたいなもの…

あとね…

僕は、即仕事の場で活かせるような特殊技能(資格?)を持っていないし、年齢的なものもあるし、障がいのある人が就職することはとても厳しい現実もあって、今の職場以外で働ける自信がほとんどないっていうのもあったりして…

えっと…この件はこれくらいで…
ことなく、術後必ず現勤務体制を取り戻すから今は辛抱する時だ!って割り切ることができるようになっていた。

そうそう…将来のための時間短縮!

そんな前向きな気持ちで入院日を迎える体制ができていた。


🎯その13 いざ出陣!

大学病院の看護師さんから電話
大学病院の看護師さんから電話

大学病院の看護師さんから電話

それは突然の事だった。

「プルルルル…(電話が鳴る音)」

(あっ!もしかして大学病院から電話かも?)

「はい…もしもし…」

「大学病院ですけど、辛島さんでしょうか?」

「ええ、そうです」

入院日が21日に決まりましたのでご連絡させていただきました」

「えっ…今月ですか?」

「そうです、先日事前打ち合わせした時にお渡しした書類をよく読まれて10時30分ごろにはお越しください」

「はい…ありがとうございました」

入院日が決まったのは安心材料だけど、なんかすっきりとしない…

(21日に入院とか言っていたけど…28日くらいから病院は年末年始の休みに入るだろうから、1週間くらいしか時間がないってことになるぞ…事前検査には2週間かかるはずだから、手術が年内に出来ないんじゃないのかな…)

おくすり手帳も忘れず!

手術前に2週間程度の時間がなければならないと決めつけていた僕。21日に入院が決まったことがイマイチ理解できない。

(あっわかった!僕が出来るだけ早く入院を希望していたから、とりあえず年内に入院させといて手術は来年になるんだろう。それだったら、入院も来年でいいのにな…)

そんなことを思いながら手術に対する臨戦体制?(気持ちの整理?)を整えていき、いよいよ入院当日の朝を迎えた。

12月21日 (入院当日)

いつもより格段に速い5時に起床して、洗濯と食器洗い(しばらく家を空けるからできるだけ汚れたままにしたくなかったから)を済ませ、8時30分に予約していたリフトタクシーに乗って大学病院へ。病院玄関で父親と合流し窓口で入院手続きを完了した。

リフトタクシーに乗る僕

「本日入院ですね?お迎えに来ました。病棟まで案内します」

しばらくすると、そこへ看護師さんがやってきて懐かしの脳神経外科病棟へ!

(あれ?こっちじゃなかったっけ…)

記憶に残る病棟の位置とは違う方角に看護師さんは歩いていく…

僕は学生時代(24年くらい前)にここで開頭手術を受けたんだけど、増改築のせいなのか?当時とは(階数は同じだけど)病棟がある場所が変わっていた。ほかにも随所に変わっているところがあって、すぐに慣れるのは難しそうだ。

手首にリストバンドを着けられた

病棟に着くと、手首にリストバンドを着けられた。これは入院中外すことが出来ないみたい。医療スタッフは印字されているバーコードをスマホみたいな端末で読み取って確認後に医療行為をし、検査などに行くときは受付に備えられている装置(スキャナー?)にそれをかざしバーコードを読み取って(スキャン)もらうことで僕の患者情報を得るようだった。

また、その際に必ず僕に名前と生年月日を聞いてくる。これも医療ミスを未然に防ぐ有効な方法なんだろう。

病室は4人部屋で、運よく窓際のベッド。広さや備品?も必要最低限で申し分ない。あと、この日のどこかで細長い棒を鼻の奥まで突っ込まれてPCR検査を受けた記憶がある。

くしゃみが出そうになる…
くしゃみが出そうになる…

その後、籾井先生(執刀医/主治医)・担当医・担当看護師から挨拶や各説明を受け病室で待機。しばらくして父親と別れ、心電図・胸部XP・MRI・採血のため院内を周り、心拍数・身長・体重を病棟で測定した。

食べこぼすのを見られたくないな
食べこぼすのを見られたくないな

担当の看護師さんには、事前に書いた手紙(日常生活や症状の情報や要望)を渡した。より多くの情報があったほうがいいと思い結果的に文字数が多くなったのは申し訳なかったと反省…

さて…いよいよ手術が目前に迫ってきたぞ~

飲み物をこぼすのも見られたくないや…
飲み物をこぼすのも見られたくないや…

🎯その14 手術の目的

12月23日

父親も一緒に籾井先生の手術説明と麻酔科医の説明を聞いた。

手術説明を聞く父親と僕

僕は、これまでいくらか手術説明を受けていたし、入院前の書類にも目を通していたから大体のことはわかっていたんだけど、今日は父親にある程度理解してもらう必要があった。

・嚢胞がある部位が、角度より内視鏡的な治療が困難なため、手術は前頭開頭になる
・嚢胞の前方にある結節を除去し、嚢胞を開放する
・手術予定時間は2時間
・感染症などのリスクは内視鏡手術より高い

結節は採るけど嚢胞の外側は残るのか~中に溜まっているものを抜くだけ?それでいいのかな…)

僕は素人だから、大きく風船みたいに膨らんで周辺が腫れている嚢胞構造全てが気になるんだけど、先生が言われるには、嚢胞前方に白く映る部分(結節)が問題みたいで、そこが嚢胞に栓をして中身(液体?)を出さなくしているから、嚢胞が大きく膨らんでしまうみたい。

そうなるから、僕に自覚症状が出てくるらしく、手術によって「結節を取り除くことによって嚢胞内容物を除去し、正常な脳への圧迫を抑え、集中力の低下や眠気が起こることを改善させる(嚢胞構造を縮小させる)こと」が目的なんだって!

嚢胞があるのは、前方に位置する前頭葉内
嚢胞があるのは、前方に位置する前頭葉内

(そういえば、ずっと前から、森先生も先端の結節を危惧されていた。やっぱり脳神経外科医は僕みたいな素人とは違うな~)

そう思いながら医療モニターに映るMRI画像を見つめていた。

また、聴力低下や見づらさなど、嚢胞拡大が原因ではないかと僕が個人的に思う各症状は、(これまで何度か聞いていた通り)嚢胞がある場所から考えて、手術を受けたからといって改善しない可能性が高いでしょう」と言われた。

このことは非常に残念ではあったけど、今回の手術の目的である「これまで通り働いていけるように(居眠りしたり集中が続くように)なること」を実現させることに、まずは全てを注ぐべきで、落ち込んでいる場合じゃないと言い聞かせることができた。

その後、エレベーターに乗って麻酔科へ。

男性の麻酔科医から言われたのは…
・明日の手術時は全身麻酔下で行われること
・全身麻酔の方法(静脈から麻酔薬を注入後、気管の肺につながる場所まで人工呼吸用のチュープを挿入して呼吸管理…)
・一昔前と違い麻酔技術が飛躍的に向上し安全性が高くなっているが、ある程度のリスク(全身麻酔時で1万分の1の確率で危険な状態)はあること

説明を聞いた後、父親と別れ病室へ戻った僕は、明日のスケジュールを再確認した。

なになに…明日の朝食が絶食なのはわかるけど、今日の夕食後からは食事禁止だと~!飲水は良いみたいだけど、飲んでいいのは「アルジネードウォーター」っていうスポーツドリンクみたいなのを明け方の6時まで…

ま~仕方がないか…

明日は8時10分に病室から手術室へ行くのか~

さて、どうなるかな~


🎯その15 おかえり

12月24日

いよいよ手術当日の朝を迎えてしまった…

(あ~あ…世間はクリスマスイブだから賑やかなのかな…僕は手術だけど…)

ベッドに横になったまま,そんな感じで自虐的になる僕…

目が覚めたのは多分5時過ぎくらいだったと思う。病室はまだ真っ暗で、入口付近の非常灯が微かな灯…

もう少し眠ろうと思ったけど、手術のせいなのかな…眠気は全くなくて難しいみたい…

しばらくして(多分6時ごろ)看護師さんが病室にやってきた。内服薬を持ってきたとのこと…見ると日頃食後に飲んでいるビタミン剤や整腸剤。

(えっ?今日って飲む必要あるのかな…)

そう思いながらも、昨日の時点では飲む予定がなかった「アルジネードウォーター」を床頭台から取ってコップに注いだ。

その後は、病衣から手術衣に着替えて手術室へ出発するまで待機。(正式に手術衣と言っていいのかわからないんだけど、上着とズボンが分かれている病衣ではなくて長いコートみたいなやつ)

8時前だったか、父親到着後に担当医師と看護師を合わせた4人で手術室へ向かった。(車いすを自走して)

それ以降の記憶は…まったくなくて…ごめんなさい…

手術は3~5時間くらいだったのかな?(病室に帰ってきた時間が15時だから病室を出て7時間経過している事になるけど、術後しばらくは手術室にいると思うから)

驚いたのは意識がはっきりした時。あの時は「なかった」のに、今回は「あった」!

あ~「あった・なかった」というのは左半身の事。学生時の手術後は左半身麻痺になって左手や左足の感覚がなくなったから、てっきり体の半分がなくなったと焦った

左半身麻痺

そんな苦い過去のある僕は、今回の術後の状態が半ば信じられないほど!

学生のころに受けた手術直後の状態とは全く違う…比べ物にならないほど元気だ!声も出るし手や足の動きも術前と変わりなさそう。ほとんど術前の機能を維持していたんじゃないかと錯覚するほどだった。それは傍らにいた父親も同じ思いだったんじゃないかな~

だから、帰り際に…

「それじゃ~また明日来るわい」

「えっ…コロナ渦の面会は4回しかダメって言ったやん…(入院日・手術説明日・手術 日・退院日)」

「お~…そうやったな」

ま~それだけうれしかったんだろうけどね!

学生のころ受けた開頭手術は後頭部から首にかけて切開しました
学生のころ受けた開頭手術は、
後頭部から首にかけて切開しました

🎯その16 あのころ

前回、手術直後の状態が学生のころ受けた時と異なるって書いたけど、今回は当時を振り返って「あの状況」を紹介してみたいと思う。

そうそう…あのときは…

こんな感じで帰ってくるのを予想していたのに…
こんな感じで帰ってくるのを予想していたのに…

目が覚めた時、看護師さんが2人いて、麻酔から覚めた僕を確認した1人がこんなことを言われた。

「わかりますか~?わかっていたら、名前と生年月日を言ってください!」

それを聞いた僕は、何をそんな簡単なことを言わせるのかと思いながら答えたつもり…

(…)

それなのに、看護師さんは顔を斜めに傾けて不思議そうな表情を浮かべている。

(この人って耳が不自由なのかな…)

そう思っているとようやく看護師さんがこう言われた。

なんて言っているの?
なんて言っているの?

「(小声で)あれ?わかっていないのかな~…(大きめの声で)辛島さ~ん!わかっていたら、名前と生年月日を言ってくださ~い!」

(えっと…さっきからきちんと言っていますけどね…イライラするな〜)

僕はそんな気持ちを抑え再び声を出した。

(…)

どうやら、また看護師さんには伝わらないみたいだ。

僕はきちんと答えているのに、なぜわかってもらえないのか不思議でたまらなかった。仕方なくもう一度答えても…わかってもらえない…

(あ~もう…なんで伝わらないの?)

(あっ!ひょっとして…)

もしかしたら自分の声が出ていないのかも

実は、一時的に声が出せなくなっていた僕。長い時間気管にチューブが入っていたせいなのかもだけど、はっきりとした理由はわからない。

こりゃ~どうなっちゃったんだ?

でもさ〜看護師さんを責めた自分はある意味仕方がなかたんじゃないかと思う。

だって、自分の声が出ていないなんて簡単に思いつく人なんて多くないと思うから。僕はそれまで、声が出ない状態なんて考えたこともなかった…

あともう一つ!

あれ…おおかしいな~
あれ…おおかしいな~

左がない!!!

感覚的に体の中心から左側全てがなくなったと思った。でも寝た状態で必死に足元を見ると左足の指が見えていたっけ…

そんな左半身麻痺は、プロのリハビリを受けたり、生活を送る中で(時間の経過)段々と回復していった。ま~今でも若干左半身の動きはイマイチなところがあるんだけどね…

部屋から看護師さんがいなくなったあと、扉が開いて中に入ってきたのは父親だった。

本当は、扉の向こうには家族や親戚が大勢来てくれていたみたいなんだけど、父親が代表として様子を見に来たんだろう…

父親がそこで見た僕…

長時間うつむき姿勢で手術を受けた僕の顔面は、かなり浮腫んでいて目がほとんど開いていないし、僕は何とか父親が入ってきたことがわかって声を出そうとするも声は出ていない…

「それじゃ〜そろそろ行ってくるわ〜」

今朝(手術前)、父親が病室に来てくれた時はすでにストレッチャーに寝かされていた僕だけど、毎日部活動で外にいたから真っ黒に日焼けしていて、マッチョとは言えないけど人並み程度の体格で、いつものようなテンションで…

そうそう…

いつもの僕がいつもの僕で父親と会話して別れたのに…

今、変わり果てた僕を父親はどう見たのか…

その日は、父親以外に、他の家族や親戚が中に入ってくることはなかった。

涙を流しながら笑顔で退出した父親が静止したんだろう…

微笑みながら涙を流していたと思う。

あっそうだ。手術時間は〜午前9時には病室を出ていて戻ったのは夜遅くだから…多分10時間くらい?

そして、手術から戻ってきたのは朝いた病室ではなくて、ICUみたいに看護師さんの目が届きやすいナースステーションそばの観察室という所。

数日後、祖父母が面会に来てくれた。祖母は僕を見て、終始笑顔で声をかけてくれた。祖父はそれに合わせるような形でニコニコしながら頷いていたっけ…あの時も、僕の状況は父親と面会した当時とさほど変わっていなかったから、2人はどう思っていたのかな~

その後は毎日のように父親・妹・叔母が面会に来て昼食と夕食の介助など身の回りのことをサポートしてくれた。特に、放射線治療中ドッサリと抜け落ちた髪の毛と睫毛をガムテープで撮ってくれたり、食欲不振になり寝たきりに近い状態になったときに毎日かかさず決まった時間に来て傍らにいてくれた叔母の姿が忘れられない

ま~

そんなどん底だった僕が、プロ車いすマンになっているなんて…世の中捨てたもんじゃないね!

今の僕はプロ車いすマン!
今の僕はプロ車いすマン!

🎯その17 術直後の様子①

ここからは、僕にとって最大の「苦しかった時間」を書いていこうと思う。

病室で父親と会話を交わした時はそうなかったのに、痛み止めが切れたのか…就寝時間くらいから体がものすごくきつくなってくる。

体がきつ~い…
体がきつ~い…

併せて…

例の対策なんだろう…仙骨部を中心にブヨブヨマット?が敷かれているみたいで寝ていて気持ちが悪い。

更に、膀胱には管が入っているみたいだし、鼻にはチューブが入っているぞ…酸素かな?それに、両足首から先には機械が取り付けられていて定期的に膨らんだり縮んだりしている…浮腫防止のため?

酸素マスク?
酸素マスク?

(あれ?相棒がいない…)

ベッド脇にマイ車いすはなく、機械付きの点滴スタンドが…

そこには、複数の点滴用薬剤パックがぶら下がっていて、左腕に刺さっている針は太いのが一つなんだけど、チューブの途中でそれらが連結している…

点滴がいっぱいだ…
点滴がいっぱいだ…

そんな状況は、窮屈だし気持ちが悪いんだけど、身動きしようと思えるまでの気力もなければ、寝返りする体力もない…

(これじゃ~寝たきり状態や…)

そう思いながら点滴スタンドについている機械を眺めていると、そこの画面上に表示される数字が気になってきた。

(あそこの数字っていったい何?…滴下に関係する数字?それとも脈拍とか?)

そう考えたのはほんの一瞬で、たぶん寝てしまったのかな…記憶に残っていない…


🎯その18 術直後の様子②

(コホン!エヘン!…あれ?おかしいな~)

いつものように軽く咳払いしたくらいでは痰をうまく出せなくなっていたのもこのころだ。

これは肺活量が低下しているからなのか?気管にたくさん痰が溜まるのにそれを咳払いで出そうとしてもうまく出せない…そこで声を出す勢いも使って「オエ~オエ~」と大声を出しながらガーグルベースへ出そうとするんだけど、それでもしぶとく出てこない…

痰吸引して!気持ち悪いんよ~
痰吸引して!気持ち悪いんよ~

見かねた看護師さんが、カテーテル(ストロー?)のようなものを口から気管へ入れて掃除機みたいに吸い取ってくれたことが何度もあった。

ちょうどその頃はナースステーションに近い病室だったから、四六時中大声で叫ぶ僕はさぞかしうるさかっただろうと今さらながら猛省…看護師さんら医療スタッフの皆さん、あのころはごめんなさい…

また、学生のころに受けた開頭手術後と同じで後ろ側の首や肩が激しく痛んだ。多分これは手術中の体位に関係があると思うんだけどはっきりとは分からない。最初は息を吸うだけでも辛いくらいで段々和らいできてもベッドをフラットの状態で寝ることができず、リクライニング用のリモコンを操作して頭側だけ角度をつけなければ辛かった。(痰が気管に溜まりにくいという利点もあった)

後ろ側の首が痛かった…
後ろ側の首が痛かった…

ベッドをフラットの状態にできるまでは、まずリモコン操作で角度をつけた状態にして、そこへ頭をつけたのを確認してから(再びリモコン操作で)フラットの状態にしていた。

ベッド上で食事をするときは、オーバーテーブルに食事を置いてもらい、リモコン操作でベッドを起こし自分の力で座らずに食べられる状態にした。

ただ、時間が経過すればするほどズリズリと体が沈んでしまうし、首が頭を支えられずに顔を正面まで上げることが出来ない僕は、満足に食べることが出来ずこぼしてばかりだった。


🎯その19 術直後の様子③

術後初めてMRI検査を受けたのもこのころだ。(今回の入院では初めてのMRI検査でもあった)

(多分看護助手さんに)車いすを押され検査室へ。順番が来るまで待合室で待機していると、誰かが近づいてきて何かを渡してくる。

当時の僕は顔を正面に向ける(顔が上がらない)のが困難だし、見づらさや聞こえづらさがあったから、誰が何の目的で近づいてきているのかがわからない。それを察したのか?腰をかがめて僕を覗き込むような姿勢になってくれたけど…やっぱり無理…

ボーリングの玉みたいに重くて起き上がれない…
ボーリングの玉みたいに重くて起き上がれない…

(待てよ…いつもMRI検査前に問診票を書いていたから、今回もそんな感じかもしれない…)

手を伸ばすと、ボールペンみたいなのと硬い下敷き(問診票が付いている)を渡してくれた。

(よし、予感的中!)

ところが…

これまでの経験から「それ」を導き出したまでは良いけど、用紙に何が書かれてあるのか…正直言ってほとんど見えず解読できない…そこに書かれている内容は大体わかるけど、正確な内容や記載位置なんて覚えているわけがなく…

なんですか~わかりませんよ~
なんですか~わかりませんよ~

僕が、じ~と用紙を見つめたまま、いつまでたっても書こうとしないから、スタッフが声を出して書かれている文字を復唱してくれる…でも補聴器を入れていない僕には聞き取れず理解できない…

かなりの時間をかけて、なんとか問診票を書き上げると、すぐに撮影の順番になったみたいで撮影室へ。

ところが、今度は撮影台に横になることができない。ベッド上と同じで、後ろ側の首や肩が激しく痛んで頭をフラットの状態まで倒すことができないからだ。

だけど、諦めず病室のベッドで寝起きするときを思い出す…

(そうだ!ダイレクトでは無理でもリクライニング用のリモコンを使えば寝起きできるじゃないか!それを応用すればいい…)

そう思った僕は、スタッフに首と腰を支えてもらいジワリジワリとゆっくり頭を下げていった。

MRI撮影開始だ~
MRI撮影開始だ~

「あっ…大丈夫そうです!撮影をお願いします!」

なんとか横になることができた僕はスタッフにそう言うと目を閉じた。

「急いで撮影しますから…あっこれは何かあったら押してください。ブザーが鳴りますから」

点滴の針が刺さっていない方の手にスポンジボールみたいな柔らかいコールボタンを握らせてくれて部屋を出ていかれた。

撮影はいつもと同じで造影剤を入れるから1時間弱かかったのかな…寝るときと同じで首と腰を支えてもらいながらゆっくり起き上がった僕は、身も心もヘトヘトな状態で病室へ戻っていった。


🎯その20 術直後総括

これまで書いてきたように、術後数日はかなり苦しい状況だった。

そんな術直後の状態を、更に困難なものとしたのは、「術後すぐ、文明の利器に頼ることが出来なかった」ところが大きいと思う。

あっ…文明の利器というのは、眼鏡と補聴器のこと!

普段は、視力や聴力を補うためにそんな文明の力に負んぶに抱っこ状態の僕。

(自覚的には)どちらも術後更に悪化し、ますます情報が得られにくくなっていたのに、それが出来なかったのは、真っ裸で南極の上を歩いているような感じで辛かった。

文明の利器なくしては、赤ちゃんと同じ…
文明の利器なくしては、赤ちゃんと同じ…

ま~冷静に振り返ってみたら、顔は腫れ上がって、包帯で頭はぐるぐる巻き(耳にも一部被さった状態)で、眼鏡と補聴器を取り付けられる状態ではなかったし、そもそも自力で動く力なんてなかったから仕方がなかったんだけどね…

併せて、術後に感じた気付きっていうのかな…

①「見づらさ」の件は、(学生の頃と同じで)顔面が試合後のボクサーみたいに腫れあがってしまったのも影響がありそうだった。僕は右目の視力を眼鏡で調整しづらいため、日頃は左目を頼りにしているのに、腫れて瞼が開かないのは特に左目…おまけに目脂がものすごく溜まって更に開かないようガッチリと糊付けしているような悪循環…これでは見たくても見られない。

そのせいなのか…目に映る映像?がダブっていて、特に文字を見るのに一苦労…ベッドテーブルの上に置かれていた用紙に何が書かれているのか全く理解できないこともあった。たまたま病室にやってきた看護師さんに尋ねても「そのままそこに置いていたらいい(気にしないでもいい)ですよ」と言われるだけでいなくなってしまうし…余計に不安になるやないか~い!

赤ちゃんだから、できましぇ~ん
赤ちゃんだから、できましぇ~ん

また、食事の際についてくるウェットティッシュ(お手拭き)でさっと左目を拭くと、大量の目脂が取れる。拭き取ってもまた…どんどんどんどん湧き出てくる…あれだけの量の目脂は一体どこかで作られているのか…

②「聴力低下」の件は、どうやら苦手だった高音域の音にますます弱くなっている(ように感じる)ことが原因みたい。そして、内側から工事現場にいるような音(ドンドンドカドカ…)がずっと聞こえていて、聞きたい音を聞き取れないように邪魔をする…

最初その音をみんなが聴こえていると勘違いしていて、まだ薄暗い明け方に病室へやってきた看護師さんに「こんな早くから(病院の)どこで工事をしているんですか?」と聞きそうになったこともある。

ま~こんな感じで、「目」や「耳」の状態が(自覚的には)術前より悪化をしていたから、今までの対策だけでは社会参加は難しそうな気がしていた。入院中は仕方がないとしても…退院後はなんとかしないといけないと焦っていたな~

それでも歯をくいしばって耐えれたのは、「辛い時こそ体を動かせば必ず早く回復をするんだぞ!」っていう信念みたいなものがあったからなのかな?

今までプロ車いすマンとして…実際に体で掴んできた…

ただ、今振り返ればかなり無理をしていたかも…

そんな僕を見たある看護師さんがこんなことを言われたのを忘れられない。

今の時期にしてはよく動いているほうだよ!たいしたものだけど…術後間もないから転倒などして怪我をしないことの方が大切だと思うから無理はしないでくださいね

(そうだよな…焦りすぎで自分が見えていないのかもしれない…そんなにいきなり良くなるわけがないやん…)

看護師さんのおかげで、早く良くなろうと焦りすぎていることを自覚でき、もう少しゆったりとした気持ちで行こうと思えるようになっていた。

そうそう…

あの時…あの人からも言われたじゃないか…

今は底だけど、少しずつ登っていこう!」って…

あせらず、自分らしく行こう!

焦らず…自分らしくあればいいんだよ!」って…

そんな気持ちで今と向き合えるようになった僕は、そんな苦しい時間を何とかクリアしていった。


🎯その21 快方へ道半ば…

地獄のような術直後を何とか耐え抜いた僕は、すごくゆっくりではあったけど元気になってきた!

そのおかげと言っていいのか?これまでは気になっても、打開する気力や体力がなくてどうしようもなかった「自分の置かれた状況」にストレスが溜まってくる…

・お尻に敷かれているブヨブヨマット
・足首の除圧力ポンプ?
・膀胱に入っている管
・点滴
・鼻の穴に入っているチューブ
など

(あ~もう!!!これじゃ~身動きできん…何とかならんかえ~)

そんなことを思いながら天井を見つめていると、看護師さんが病室に入ってきた。ゴム手袋をはめて防水エプロンのようなものをかけている…

あなたは何者?
あなたは何者?

「今からオシッコの管を抜きますね!」

ベッド周辺のカーテンを閉めながらそう言われた後、手際よく管を抜いた。

(あらららららら~~~)

管が尿管を通って抜けていく間、痛くはないんだけど「むずむずする」というのか…「何かが突き抜ける感じがする」というのか…

その後、青っぽい液体の入ったボトルを取り出してスプレーしながら陰部を洗浄。お尻に敷かれているブヨブヨマットや足首の除圧力ポンプ?も取り除いてくれた。

すべてやり終えたのか?ベッド周辺のカーテンを開け病室から出ようとしたんだけど、何かを思い出したようで、再び戻ってきてこう言われた。

「鼻に入っている酸素も必要なくなったみたいなので外しますね!」

(やっぱり…鼻の穴に入っていたのは酸素チューブだったのか~)

そう思う僕の鼻に手を伸ばして緑色のチューブを外してくれる。

(ガラガラガラガラ~)

その時、別の看護師さんがキャスター付きの点滴スタンドを押してやってきた。それを、ベッド脇にある機械付きのスタンドと差し替えて、滴下中のパックも移動。

その間に、一旦病室を出て行かれた看護師さんが僕の車いすを押して戻ってきた。

「これ、置いておきますね!」

おお~久しぶり…我が相棒!

足が戻ってきたぞ~
足が戻ってきたぞ~

これまで機械付きの点滴スタンドがあったベッド脇に、マイ車いすがやってきた!車いすに乗れる可能性が高まったというのは、プロ車いすマンにとってこれほど嬉しいことはない

(早速乗車してみよう…あっ…よく考えたらまだ片腕に針が刺さっていた…)

乗り移る前の段階で、片腕で靴を履くのも簡単じゃない…片腕でもできないことはないけど、点滴の針が刺さっているし、今はまだ体力も感覚も鈍っているだろうから無理すると転倒する可能性もある。

そこで、看護師さんのサポートを受けながら車いすに座った。では早速周囲を動き回ろうかと思った矢先、首や肩が強烈に痛くなり顔が真正面まで上がらない…それはベッドを起こして食事をする時もあったことだけど、ベッド上より支える部分が少ないからなのか?重力のせいなのか?その度合いが強い…

(これは…動かすのは無理や…)

普段は慣れもあって、乗り移りにそこまで力は必要ないんだけど、片腕だけでとなるとそうはいかない。

せっかく乗り移らせてもらったけど、しばらくじっとしたままで動かすことはなく再びベッドへ。

術後初めてのマイ車いすの自走訓練?は、残念な結果となってしまった。

その後、徐々に自走する機会が増えてきたんだけど、その時自走の妨げとなったのが点滴スタンド…

点滴が片腕を占領(前腕の手首に近い静脈に針が入っていた)していたのは仕方がないんだけど、それはスタンドと常に一緒に移動しなければいけないということ。自走するには、前方をよく確認しなければならないんだけど、スタンドが視界の邪魔になる…更に、車いすを移動させるにはスタンドも移動させないといけない…

まだまだ厳しいな…
まだまだ厳しいな…

(こんなんじゃ~まともにハンドリムを回せないな~)

仕方がないと思いながら、片手でハンドリムを回して少し前進したら、点滴スタンドを少し前に進める。スタンドは意外に重い。床との接地面3ヶ所にキャスターが付いてはいるけど、片手で思い通りに動かすのは至難の業…これじゃ~数mの移動にかなりの時間が必要になる…

そんな、いつもと違う状況下は戸惑う中、今度は体力が著しく低下していて体が動かなくなってくる…

(ありゃ?動かそうにも体がうんともすんとも言わなくなってきた…)

頭では今やらねばどうすると自分に鞭を打っているつもりなんだけど、体がギブアップ状態なのか?…

ようやく動いたと思ったらチンタラチンタラ…いつもの何倍も鈍い!

だから一つのことが完了するのに膨大な時間が必要だった。(例えば、目の前の床頭台に置かれた荷物を移動させようとしても、じっと見つめながら静止し数分パワーを溜めてそれから手を動かす状態)

こんなふうに…術前のようにいかないのはストレスになったけど、術直後の地獄に比べたら天国みたいなもの!

このころ、左瞼がようやく上がってきたし、術後続いていた「目に映る映像?がダブってしまう件」も落ち着いてきて文字を読み取りやすくなっていた。だから、失敗しても時間がかかっても見栄えが悪くても…挑戦?を止めるようなことはなかった。


🎯その22 いい湯だな~

「今日はお風呂に入りませんか?」

術後初めての入浴チャンスが到来したのもこのころ。

「えっ…お風呂に入っていいんですか~!!!あっ…でも今日はやめておきます…」

せっかく誘ってくれる看護師さんには申し訳なかったけど、まだ十分に体が思うように動かせない現実が身にしみる今…入りたい気持ちはすご~くあるんだけど、渋々お断りした。

すると(わかっていますよ~)と言いたげに…

寝たままでいいから…入りませんか?」

「えっ…寝たまま?」

どういうことなのか、最初は意味がわからなかったんだけど、どうやら機械浴室で入れてくれるらしい。(介助浴っていうのかな?)

「それだったら…お願いしようかな…」

「じゃ~準備をしてきますので、辛島さんもできる範囲で入浴の準備をお願いします」

「わかりました」

何とか入浴準備を済ませ病室で待機していると、看護師さんが再びやってきて、機械浴室まで車いすを押してくれた。でも浴室の入り口にあるストレッチャーヘ車いすから移る力がない…

(やっぱりこんな状態じゃ入れんわな…)と思っていたら、耳を疑うようなお言葉が…

「ほら!私の背中にもたれかかって(抱きついてきて)!」

(えっ…それって、普通ならセクハラ?犯罪?でしょ…)

あ~そういうことなら…行きますよ~って感じで、すんなりできるものじゃない。(一応僕にも理性というものがある!)

ただ、体が思うように動かないのは事実。それに、看護師さんは看護のプロだ。

その道のプロは、第3者から見たら考えられないような?ポリシー・責任感を持ってそのことに向き合っている…それなのにサポートをお願いしない姿勢では、かえって失礼になるような気がしてきた。

「わかりました…それじゃ~行きますね…」

考えを改めた僕は、ほぼ全体重をか細い看護師さんへ委ねた…

さて、ストレッチャーに寝ている状態で浴室に入ると、既にお湯が溜まっているのか湯気がもくもくと出ていた。

機械浴中の僕
機械浴中の僕

浴槽にストレッチャーを横付けしてスライド式に湯船へ浸かると、暖かいお湯が全身に行き渡る。首から下が浅い湯船に浸かっている状態で、看護師さんが柔らかい布のようなもので軽く撫でるように体を洗ってくれた。

途中何度かお湯の入れ替えをして体が温まってきたかを確認されると、「今回は初めてなので、首から下だけの入浴支持が籾井先生から出ているからシャンプーはしませんね」と言われ湯船からストレッチャーへ!

バスタオルで体を軽く拭いてくれた後、ストレッチャーに寝たまま病室へ。病衣に着替えていたら、マイ車いすと新しく作ってくれた帽子を作って持ってきてくれた。

「せっかく入浴したんだから、帽子も取り替えましょう!」

看護師さんお手製の帽子
看護師さんお手製の帽子

そう言われながら今被っているものと差し替えてくれた。

あっ…帽子は看護師さんのお手製なんだけど、脳外科の患者さんが、手術後に創を隠す・保護する・血液や薬剤などを吸収する目的なのか?四六時中被っていた。

学生の頃受けた開頭手術後も被っていて、当時は放射線治療で毛根も眉毛もまつ毛も無くなったから被っていた時間がかなり長かった。今回はそういう治療を受けることはなかったけど、まだ抜糸?もしていないし、開頭した場所(手術創)が前方だから、意図的に帽子を取る(頭部や顔面を確認する)勇気なんてなかった。

だって、そんなものを見たら…気を失うかもしれないでしょ?

あっそうだ!リハビリが始まったのもこのころだった。

顔面神経麻痺による口周辺の機能改善や、日ごろの自己流でやっているような車いす動作・生活を、修正?改善?して新しい何かを吸収したかった僕は、術後早期にリハビリをしたいと担当医や看護師さんへ伝えていたんだけど、術直後は動くことすら無理だったから、症状が比較的安定してきた今始まったのは妥当というのかな…

リハビリテーション室は、僕が入院している病棟と同じ階にあったから自走してすぐ行けるんだけど、まだ自分だけで病棟から出ることができなかった(行動制限があった)僕は、時間になったら看護師さんが付き添いの元で病室から移動していた。

受けるリハビリは「PT」「OT」「ST」の3種類で、まだまだ体は満足に動かないけれど、こういう時期こそ動かし始める意義は高いと信じ自分に鞭を打って頑張ったつもり!

実際のところ、年末年始の休日が入院期間の大半だったことと、入院期間が短かったことから、退院までに数えるほどしかリハビリを受けることができなかったけど、PTやOTからは、マットから車いすへの乗り移りなどが自己流とは思えないほど上手く教科書通りと褒められ、STからは、森先生から教わった発声練習や口周辺のマッサージをより細かくアドバイスしてくれた

目のリハビリ…
目のリハビリ…

🎯その23 まだわからんぞ!

ある日の朝、朝食が済んで車いす上でボ~としていたら、病室に担当医が入ってきた。

良くなっているの?
良くなっているの?

「これ…差し上げます!」

「ありがとうございます…って…何ですか…これ?」

まだ十分視野が確保できていなかったから、目の前に真っ黒い紙のようなものが見える。

「術後に撮っていたMRI画像を印刷して持ってきたんですよ」

「そうなんですか~あっ…でもよく見えなくてわからないです…良い兆候なのでしょうか…」

「もちろんです!嚢胞の中身が抜けたため、脳の腫れが引きかけていて、正常な脳が本来の場所へ移動しはじめていますよ。」

そう言われてみたら、術前よりも正常な脳が場所移動しているような気がしてくる…

「それじゃ~嚢胞の正体って一体何だったのでしょうか?」

「最終結果はまだ調べている途中なのでお伝えできませんが、髄芽腫(癌細胞)など悪性のものではなさそうなので、今後の治療は必要ない可能性が高いです」

「本当ですか!良かった~」

今後の治療というのは、手術後に合わせて行われる放射線治療や化学療法のこと!

これらを受けなければならなくなるとQOLは確実に落ち、入院期間は長引く。ひょっとしたら、その過程で病状が悪化して再び元通りの生活が送ることができなくなってしまう可能性もある

だから、中間報告のような段階ではあるんだけど、その必要がなさそうというのは、僕にとって朗報だ!

「じゃ~1ヶ月くらいで退院できますかね?」

「それは主治医(執刀医)が判断することですが、長期入院の必要はないと思います」

「わかりました。まだ気を抜かないようにしておきます。教えていただき、ありがとうございました」

そうそう…

まだ安心しちゃいけない。

担当医は問題ないとは言うけれど、組織を調べる専門家?はどう診るのか…


🎯その24 バリバリバリア

術後1週間くらいになってくると、さらに回復への上昇気流に乗ったかのように元気が満ち溢れてきた!

まだまだ見栄えが良くなかったり、いつも以上に時間を要すことはあるけど、ある程度は頭に思い描くことを形にすることができる…それは、ようやく頭と体が一致したというのか?「僕の日常」が回り始めたことを実感する。

そんな時、看護師さんが病室にやってきてこう言われた。

「今日は一般浴室の順番をとっているのですが…きつかったらこの前みたいに機械浴でも構いません。どうされますか?」

自信満々ってわけではなかったけど、今回は、一般浴室で入ってみたい…

「それじゃ~機械浴じゃなくて一般浴室で…あと、できる限り自分で洗ったりしたいんですけど…」

「わかりました、(一般浴室へ)行ってみましょう!」

ところが…

バリアで通過できない…
バリアで通過できない…

準備をしてから一緒に一般浴室へ行くと所々にバリアが…

(これじゃ~自力では無理っぽいな…)

仕方なく、看護師さんに介助してもらうことに…

そこで事件発生…というか、びっくりしたことがあった。

それは、一通り体を洗ってもらい、そろそろ終了かと思っていたころ…

「あっ帽子取っていなかったですね~」と言われながら被っている帽子を取られてしまった!!!

(えっ…取るの?どうせ、今回も首から上は洗えないだろうから被ったままでもよかったのに…)

そんなことを思いながら手前の手すりを握っていると、シャワーが背中からだんだん上のほうに…

(オイオイ、それ以上はダメでしょ…あらららら~~~~)

思った通り、シャワーは首から上に…

「シャンプー持ってきていますか?」

(えっ…術後数日しかたっていないのに頭洗っていいの?それにシャワーの勢いも強すぎやしない?)

「いえ…石鹸しか…」

「それじゃ~良く流すだけにしておきますね!」

学生の頃受けた手術時はこんなに早く頭を洗えなかったはず…これも医学や治療方法の進歩なんだろうか…

その後、脱衣所で十分に体を拭いた後、車いすを押してもらい急いで病室へ…

少しゆっくりしてから、今回の入浴について振り返ってみる…

僕が一般浴室でやったことは、主に15分くらい必死に手すりを握っていたことくらいだった。体を洗ったりしたかったから少し残念な気もするんだけど、それだけの時間握り続けることができたんだから、機械浴で全介助してもらうよりは頑張ったと思う。

今は、手すりを頑張って握り続けるのが仕事だ!
今は、手すりを頑張って握り続けるのが仕事だ!

だから、達成感?は70点かな!

ま~焦ることはない。これからもっと出来ることは増えてくるに違いないから…

さて、入浴後に出た汚れものは、これまで溜め込んでいたものと併せて看護助手さんに洗濯をお願いすることにした。

まずは小銭を渡し、院内コンビニでコンパクトサイズの洗剤を購入してもらった。(体がまだまだってところもあったけど、まだ行動制限があって病棟から出てはいけなかった僕は院内コンビニへ買い物に行けなかった)

その後、お釣りにプラスする形で小銭を渡し病棟内の洗濯・乾燥機で洗濯をお願い…

これは、術後間もない状態で体が思うように動かないところと、一般浴室と同じで洗濯・乾燥機にもバリアがあったから!

これらバリアは、病棟に限ったことではなく病院の所々に見られた。買い物や洗濯は、当時体が思うように動かせなかったからある意味仕方がなかったんだけど、たとえ回復して自分で動ける状態になっても、車いすマンの僕には(自分だけの力で)それらをクリアにすることは難しかったかも

これは病院に限ったことではないんよね…社会全体でまだまだバリアフリー化が進んでいない証拠なんだろうと思っているんだよ~ん!

あっそうそう…看護助手さんには洗濯以外にもお世話になった。僕が常に太腿の上に掛けていたバスタオルに付いたカレーか何かのシミも、病室内の洗面台で手洗いして落としてくれたのもそうだ。「痒いところに手が届く存在」というのかな?入院中に助けられたことが多くて間違いなくQOLは上がっていた。

そんな看護助手さんに、少し悪いことをした?教えられた?なってことがある。

それは、ある日の朝食を病室へ運んできてくれた時のこと…

「朝食が来ましたよ~ここで食べますか?」

「ええ」

「それじゃ~置いておきますね!それと…」

僕がお願いしたわけでもないのに、パンの袋を開けたりジャムの袋を切ったりしている…

(ちょちょちょっと…)

そう思っていたら思わず口に出てしまう…

「も~~~せんでいいっちゃ…」

しなくていいってば!
しなくていいってば!

すると、その時はそれ以上することはなく「ごめんなさいね…」と言いながら病室を出ていかれたんだけど、後日MRI室に車いすを押してもらっていた時に、こんなことを言われた。

あなたって甘えることを好まずに何でも自分でやってきたから、他人がやると嫌なんでしょ?

(なっ…僕の弱点みたいなのを指摘するとは…)

「いえ…」

「入院しているんだから、いつもとは勝手が違うことが多いでしょ?他人の力に頼るのも大事な時がありますよ。困ったらいつでも声をかけてくださいね!」

「ええ…もちろん…」

ま~こんな感じで…早く良くなりたいと、どうしても頭の中に焦りがある僕。それが言動や行動に出てしまうのはまだまだ子供だ…情けない…


🎯その25 初体験の年末年始

そして迎えた12月31日

術直後に比べたら、ある程度は考え方もしっかりしてきて、行動力も出てきていた僕。

ただ、無情にも時間は確実に過ぎていて、気がつけば今年も終わろうとしている…

(ま~年内にここまで回復しているんだから良しと思おう!あっそうだ~この調子なら、年末年始に一時帰宅ができるんじゃないかな?)

その思いを看護師さんへ伝えたところ…

「今、主治医(執刀医)に聞いてきたんですが…年越しは病院でとのことです」

「あっそうですか…わかりました」

冷静になって考えてみたら、まだ病棟からも出てはいけないような状態。

一時帰宅なんて、そもそも無茶な話

「ただ、年始にCT撮影をして問題なければ、行動制限の緩和を検討するみたいですよ!」

「本当ですか!(そうか~年始に院内コンビニへ行けるかも…)」

年明けに院内コンビニへ行くのを夢見て、年越しを病院でするのを受け入れた僕。これまで生きてきた中で、年越しを病院でするのは初めてのことだ!

自分で準備しないでご飯が食べられる幸せ

元気満々なら、治療以外ほぼ何もない病院にいることは「生き地獄」になると思うんだけど、まだまだ満足に動くことができていなかった僕にとっては、逆に「恵みの雨」みたいなもの!温度管理は徹底されているしご飯は3食かならず時間になれば運ばれてくる。

それに、医療関係者が常に近くにいる環境というのは万が一急変したとしても安心できる…「心が休まる年末年始」!


🎯その26 解禁!

2022年 (令和4年) 1月1日 45歳

新しい年を病院で迎えた!

昨日は大晦日だったけど、まだまだ見づらさは高度だったから、テレビを見たりタブレットでゲームをしたりして時間をつぶすよりも、目をじっと閉じていた方が楽だったから。

病院は年末年始のお休み中で、外来診療が始まり、入院患者の全治療も再開する4日までは何もすることがなかった。加えて病棟から出てはいけないという行動制限があった僕は、院内コンビニや散歩にも行けない…

だけど、今日のCT検査(昨年末に籾井先生が入れてくれていた)次第で制限が緩和される可能性があるから、息が詰まりそうになるけどそこまで我慢…

「検査に呼ばれたので行きましょう!」

お昼になりそうだった午前中、病室に看護師さんがやってきてそう言われた。僕は待っていました!と言わんばかり意気揚々とマイ車いすに乗ってCT撮影室へ向かった(と言っても自走はしていない)。外来診療は救急以外お休みだから、院内はあまり照明がついていなくて薄暗い。ま~それもたまにはいいもの!

撮影室には職員が一人だけだった。

(お~~~運悪く?元旦担当になっちゃったのかなあ…)

そんな無礼なことを思う僕に、普段通りに対応してくれる…

僕って人として浅はかだよな…ありがとうございます…

CTは、MRIと違ってすぐに撮影が終わってしまう。あっという間にお迎えの看護助手さんがきて病棟へ…

しばらくして、看護師さんが病室へ入ってきた。

「籾井先生からの伝言なんですが、結果(CT検査)は問題なかったので今から院内フリー(院内行動制限なし)で良いそうです!」

(やった~)

お~すばらしい世界だ!
お~すばらしい世界だ!

早速、車いすを漕いで院内コンビニへ。いつもの1~2割程度のスピードだったから余計に周りがよく見える…CT検査に行った時もそうだったけど、病棟と違い広い通路は薄暗いし、医療スタッフも外来患者もいない

また、いつもなら表示されている電光掲示板は真っ暗だし、医療機器などにカバーが掛けられ電源は落とされている。そんなシーンと静まり返った空間は、普段味わうことができない貴重な経験。

それに、時間がかかったけど院内コンビニへ無事に到着できたし、店内をぶらぶらしてリフレッシュできたのは最高のお年玉になった!

あっ…CT検査の時に感じたことなんだけど、どこの病院も、年末年始だからといって完全に病院の動きを止めることはできないよね~

外来診療がお休みだったとしても、僕みたいに一時帰宅ができない多くの入院患者がいるから、ある程度の人員や医療機器は必要。

中でも患者にとって一番身近なのは看護師さんになると思う。

朝から晩まで24時間一年中、必ず誰かが勤務をしている看護師は、コンビニや生産ラインに従事する人と同じで、その仕事自体は止めることができないでしょ?

だから、「3交代制」や「2交代制」で、(特別な理由を除いて)職員全員でローテーションしていると思う。

僕は日中に勤務した経験しかないから、深夜勤務がどれくらい負担になるのかを想像しにくいんだけど、本来なら人が休息する時間帯に働くことはそれだけで大変なことだと思う。

僕ら患者が良くなること(自分のこと)だけに集中できるのは、そんな過酷な労働条件下で働く医療スタッフがいるから!どうか、心や体を休める機会を設けて疲れやストレスを溜めないようにしてほしいな~

あっ!話は変わるけど…

コロナかなので黙食です!
コロナ渦なので黙食です!

病院食に対するイメージがどうしても悪い僕なんだけど、年末年始のメニューにはすごく感心させられた。

例えば、3日までに分けられて提供された各種おせち料理は、単身生活の僕が家に帰って用意することは到底できないレベルで豪華だった。それに、元旦の朝食にはメッセージカードが添えられていて胸が熱くなった

また、年末年始に限らず、入院中に出てきた病院食は、学生の頃入院した時よりも格段においしくなっていたのは事実!

病院食の味向上は、これまで入院した他の病院でも同じように感じたことだから、時代の流れで病院食はおいしくなっているのは間違いないと思う。(僕が抱くイメージがかなり古い証拠…)

今の病院食がまずいという人の多くは、普段の食事がよっぽど高級な食材を使っているか、濃い味付けだったり、好き嫌いが多かったり、内容がジャンクだったり、砂糖や醤油などの調味料を大量に消費していたり、食事を摂取する量が多すぎているのかも。

そういう部分をクリアにしていたら、何か物足りないなと感じるときがあっても十分に食べられるレベルだと思うな~

そこには、管理栄養士さんや調理師さんの心意気があってこそ!いつもおいしい食事をありがとうございま~す!

あっ…食器の大半が当時(学生の頃)と変わっていなかったのも好印象です!物持ちの良さに感心させられました~


🎯その27 体が頑張っている証拠?

7日に退院になります!

突然病室に入ってきた籾井先生から、退院が確定したことを告げられたのは、まだお正月気分の2日…

(えっ!あれ?先生、休日ではないんですか…って…退院?…え~~~僕が!!!…いくらなんでも早すぎじゃ?)

一瞬耳を疑った僕。

正月だ~餅つきだ~
正月だ~餅つきだ~

「えっと…それじゃ~組織を調べていた件は、悪性ではなかったってことですか?」

「いえ、最終結果はまだ出ていません」

「えっ…それでも退院…ですか?」

「はい、術中に(簡易的に)調べた時に髄芽種のような悪性のものではないことはある程度わかっていますし、昨日撮影したCT画像も特に問題はなかったですから」

「そうですか…」

「ですから、以前のように、追加の治療(放射線や化学療法など)は必要ないでしょうから、後は体力などが回復して入院前のように車いすで動けるようになればいいので…5日あれば大丈夫でしょう?」

「は~…わかりました…」

確定診断が出ていない状態での退院には少し抵抗があるけど、できるだけ早く退院したい気持ちはあって…

「あっ…リハビリは?」

「必要なら、退院後に外来でリハビリを受けにきては?」

「そうですか…退院までどうするか考えてみます…」

正直なところ、それは流石に…家から距離のある大学病院に通うのはいろいろな意味できつい。それに実生活を送れるようになることだけを考えるなら、ここでリハビリを受けるより退院して日々を送る中で体を慣らしていった方が早いと思う。

(本当はもう少し受けたかったんだけど…仕方がないな…)

そんなことを思いながら病室で車いすに乗ってボ~としていたら、今度は担当医が空のビニール袋みたいなものをぶら下げてやってきてこう言われた。

「今から手術創のところを綺麗にしていきますよ~」

(綺麗に?抜糸のこと?それなら確か…退院後、外来受診をした時にするとか言われていたような…)

そう思いながらも、先生の股関節が見えるくらいの姿勢になった…って言うか首が上がらないからそもそもそういう姿勢なんだけど…

「では帽子を外しますね!」

粉雪?
粉雪?

先生がそう言われ帽子を外していると、同時に大量の白い粉が上から降ってくる。

「先生、大きめのフケみたいなのが落ちてくるんですけど…」

「それはあなたの手術創周辺から出ている皮脂の塊です。人間の自然治癒力のすごさの象徴ですよ!これからますます新陳代謝を繰り返して、古い皮脂は剥がれていきます。それは良くなっている証なんだと思ってください!」

そう言われると、片手に持っているビニール袋みたいなものへ、長さが1~2cmで幅が2~3mmくらいの金属を入れた…

「先生、それは…」

「あっ…まだ見ていなかったのですね!良い機会なのでタブレットで写真を撮って見てください」

そこで、術後初めて手術創の写真を撮るためタブレットの画面を凝視…

(ぐわぁぁぁ~~~なんだこれは~)

金具を取る前
金具を取る前

額よりもう少し頭頂部側に、右端から左端まで数十個の金具(多分、医療用ステープラー)がずらりと列をなして並んでいて、まるでムカデみたいな手術創(半楕円形)ができている。

オマケに、術後初めて自分の顔を見ることにもなり…

(ぐえぁぁぁ~~~気持ち悪い…)

ボクサーが殴り合った試合後みたいに顔全体離れあがっていて手術創に近いほどひどい…そして、左側の目は浮腫んだ眉につぶされてほぼ開いていない

(これって、治るんやろうか…)

そう思っていたら、いつの間にか…先生が片手に持っているビニール袋が、僕の頭についていた金属でいっぱいになっている…

「終わりましたよ」

もう一度タブレットを覗くと、金具がすべてなくなってはいたけど、今度は金具の入っていた場所がポツポツと陥没しているように見えて余計気持ち悪い…だから、すぐに帽子を被り直して見えない状態に…

金具を取った後
金具を取った後

(さっき、皮脂の塊って言われていたけど…一体何なんだろう?)

先生が病室からいなくなった後に詳しく調べてみると、皮脂は本来は液体?細かい粒子?みたいで良いやつだけど、目視できるくらいの大きさ(角栓?)になったらあまりよろしくないみたい。ただ、今は回復時期だから、治ってくるまでは塊ができてもOK…むしろ大歓迎しなきゃいけないみたいだ。


🎯その28 僕がいるべき場所

僕にとって、残りわずかの入院生活となった4日、「大学病院の仕事始め」というのか?外来診察と入院患者の全治療が再開された。そのおかげで、昨日とは打って変わって院内は人や照明や稼働する医療機器などで賑やかだ。

そんな状況に反して、退院が間近に迫った僕は不安でいつもより元気がないかも…

入院生活は基本暇なんよね…
入院生活は基本暇なんよね…

こんな時は病室でじっとしていたい気分なんだけど、ここにいる間にクリアにしておかないと、結局は今後の自分が困ることがいくつかある。

それは誰かがやってくれるわけではなくて、僕自身で解決させるために動く必要がある。(不安で元気がないからじっとしておこう…)ってわけにはいかない!

クリアにするべき項目は大きく以下の3つ

  • 退院後、生活に制限はないのか?を確かめる

  • 車の運転は可能なのか?を確かめる

  • 疾病手当・診断書のことを確かめる・お願いする

退院後の生活については、籾井先生によく相談すれば大丈夫だろう。問題は疾病手当や診断書だ。

看護師さんによると、病棟にいたら解決させることができないから、どちらも一括で受け付ける場所へ行ってくださいとのこと…

その場所は、入院・外来患者が支払いを済ませる窓口付近にあって、平日の17時頃までしか担当職員がいないらしい。

(外来患者が支払いを済ませる窓口付近なら、いつ行っても常に人でごった返しているに違いない…できれば行きたくないな…)

行きたくなかったのは、「コロナ禍」であったから…だけではない。まだ完璧に回復したとは言えない状態の今、顔面の腫れなどが他人に気づかれるレベルだったし、見づらさや聞こえづらさがあったから、ガヤガヤしている空間で手続きを滞りなく済ませる自信がなかったからだ。

(でも…行かないと!)

僕は変装をした!
僕は変装をした!

まずは…見た目をできるだけ病人っぽくしたくなかったから、今被っている看護師さんお手製の帽子の上に、入院時被ってきた私物のハンチング帽?を深めに被った。

それから病棟では付ける必要がなかったマスクを装着。それと、あそこは入り口に近いからここに比べたら寒いはず!防寒対策をしておかないと風邪をひきそうだ…ってことで病衣の上から入院時に着てきた上着を羽織った。

(これで顔面の腫れが他人に気づかれにくくなるんじゃないかな?)

ま~そういう「身だしなみを気にする(身なりを整える)」っていうのは、社会復帰するなら大切なことだから、今振り返ると、あの時の行動は正しかったと思う。

さて、本題だけど…

所定の場所にたどり着いて手続きをした僕は、まず医師の診断書を書いてもらえるよう、入院前に職場で聞いたことや籾井先生との会話を思い出しながら申請した。

ただ、予想通り見づらさが高度で、いつものような時間で、書類を完成させることができなず、疾病手当の方は申請せずそのまま病棟へ戻ることにした。

(やれやれ…こんなんじゃ~先が思いやられるな…こんな状態じゃ~日常生活に支障が間違いなく出るぞ…退院までに治ればいいんだけど…)

そんなことを思いながら車いすを漕いで病棟へ戻っていると、いろんなことが頭に浮かんでくる。

(7日が本当に退院なら…入院期間は、たったの18日間になっちゃうぞ。それってマジ?)

入院前はひょっとしたら再び元の場所に戻ることはできない(これまで通り僕が考える自立した生活ができなくなる)かもと思っていたくらいだから、想定外の入院期間は嬉しさよりも戸惑いのほうが大きいかった。

それと、僕にとっては「かなりの覚悟を決めて挑んだもの」だから、なんだか拍子抜けって感じかもしれない…

ただ、悪いことじゃない。入院という環境はあまりにも快適すぎる…

そうそう…

入院していることは、すなわち「ぬくぬく生活」!

こたつ…あったか~
こたつ…あったか~

本来、僕はヨワヨワマンだから、そんな生活を送れば送るほど、甘えが出てきて向上心も無くなっていく…

僕は、何のために手術を受けようと決心したのか?

その答えがわかれば、ここに居続ける理由はなくなる…

退院したら、病院と違って雪もちらつく真冬の世界へ戻るわけだけど、そこが今までやってきた・やってくることができた僕の生きる場所!予定より早いとか遅いとかそんなことよりも、僕はここで生きるわけじゃない!

だから…

「あの場所」へ…

「あの場所に僕がいる」…それは当然のことだ!


🎯その29 制限下での気づき

(あっ、そうだ…一度行っておこう!)

元旦に院内コンビニへ散策に行った時、隣に「患者図書館」あったのを思い出した。

そこは学生の頃に入院していた当時にはなかった施設?で、どんなところなのか覗いてみたかったんだけど、病院がお休み中の三が日は閉まっていて「新年は4日から開館します」と書かれた張り紙が…

今日なら確実に空いているだろうと早速行ってみると、館内には初老のおじさんが1人椅子に腰掛けて事務処理をしていた。

初老のおじさんが1人
初老のおじさんが1人

「すいません。本を借りにきました」

「入院中ですか?」

「ええ…」

「どうぞ」

ここは、入院もしくは外来通院中ならば利用可能みたいで、外来患者はよくわからなかったけど、入院患者なら手首に付けているリストバンド(バーコード)を読み取るだけで数冊借りることができる。

(おっ…これにしよう!)

僕は、医療コーナーにあった「嚥下に関する本」を借りてみた。

その中で、嚥下体操について以下のようなことが書かれていた。

★嚥下体操(以下のことを毎日3回)
・深呼吸
・首の体操
・肩の体操 → すくめるようにして戻す
・上体の体操 → 上体を左右に揺らす
・頬の体操 →  口を閉じたまま頬を膨らませ、へこませ
・おでこの体操 → おでこに片手を当て、頭で押す(以下:医学用語である前額部:ぜんがくぶ)
・発声練習「イ」「ウ」「パピプペポ」
・深呼吸
・舌の体操

舌の体操に関しては、舌を前に大きく「べ~~」と突き出してそのまま戻さず左右に動かすと良いらしいけど、これがなかなか難しかった。

(全てを通してやったら、それを最低でも2~3回繰り返すか…これはかなり大変かも)

何でもそうだけど、3日坊主じゃなくて毎日継続して行くことが大事なんだろうな~

また、「顔や舌、喉マッサージ」など、これまで何度かSTのリハビリを受けてきて教わったようなことも書かれていた。

もう少しゆっくり読みたかったんだけど、翌日(退院前)に返却する予定で時間が限られていたのは少々心残り…

(それにしても、入院中は紙媒体の活字をよく読んだよな~)

実のところ…普段の僕は、調べ物も情報の入手手段も買い物も、大半はネットで事足りるっていうのか?どっぷりとネット生活を満喫している。だから日常で新聞や雑誌・文庫本など紙媒体の情報源はほぼノータッチ…

それに…テレビもタイムリーで見ることよりも、録画済みや見逃し配信しているネットで見ているし、実店舗へ足を運ぶ機会は!ネット通販愛好者のため)以前よりも少なくなったと思う。また、硬貨!紙幣も)よりカードなどで支払いを済ませることの方が断然多くなっている。

だから「テレビなんていらない!」「新聞など時代遅れだ!」「本は場所を取るから電子書籍!」「いまだに硬貨(紙幣も)で支払いをしている人の気が知れない」…そんな巷でよく耳にする?お言葉に共感を受けることがよくある。

だけど、それは自身がある程度健康でそういう環境下に常時いることが条件になると思う。今回の入院ではまさにそれを強く感じたな~

入院していたら情報の入手手段は限られていて、床頭台に設置されているテレビか、食堂などにあった(誰かが読んで寄付した?)雑誌など。または(そこまで行けるなら)売店などで売っている新聞や本・雑誌くらい…

特に新聞は実社会に戻ったら無くなってもいいんじゃないかと思うくらいだけど、入院していたら逆にマストアイテムだ!それに硬貨も必須!(僕は行動制限があったから)洗濯したい時、買い物を代行してもらいたい時に、看護助手さんにカードを渡すわけにもいかない…(特に洗濯機と乾燥機はコインがないと動かない)

巡回バス図書間
巡回バス図書間

「患者図書館」も同じようなもので、退院した今の僕は(外来受診時)積極的に利用しようとは思わないけど、患者さんにとっては貴重な…ありがたい、大切な場所だと思う。


🎯その30 終わりと始まり

7日、ついに退院の日がやってきた!

籾井先生からは以下のことを言われた。

・手術部位は、髄芽腫の再発ではなく放射線壊死が最も考えられる(最終結果はわかり次第伝える)

・顔面痙攣が落ち着いているのなら、バルプロ酸は今月いっぱいで中止の方向で良い

・退院後は、徐々に体を慣らして社会復帰してほしい(車の運転は特に注意を)

荷物の準備は、ここ数日の有り余る時間を有効に使って少しずつやったから負担にはならなかった。運ぶ自信はあまりなかったけど、病棟まで父親が来ることになっているから、病院玄関に手配済みのリフトタクシーまで運んでくれるだろうし、家に着いたらタクシーの運転手さん(介護の資格あり)に玄関まで運んで貰えばいい。そう思いながら忘れ物がないかの確認をして病衣から入院時に着てきた私服に着替えた。

(おっ…やっぱり高い!)

その後、支払窓口へ。入院費(手術費用含む)は決して安くはなかったけど、長い間働き続けてこられた証っていうのかな…それを自分で全額工面できたのは正直嬉しかった

再び病棟に戻って父親が来るのを待っている時間は、今回の入院を振り返る良いきっかけとなった。

サポートしてくれた人のおかげ!
サポートしてくれた人のおかげ!

まず、20日もかからずに退院できたのは、あの頃よりも脳神経外科医学が発展して手術などの医療技術が大きく躍進していたからなのはもちろんだけど、お医者さんや看護師さんはもちろん、多くのコメディカルスタッフ(栄養士さんや薬剤師さん・理学療法士、作業療法士、言語療法士など)がチーム一丸となって僕を支えてくれたから!

あっ…以下はコメディカルスタッフに入るのかはわからないけど、警備の人や掃除してくれた人や売店や図書室にいた人、そんな病院にいて僕との関りがあった人すべてに感謝ですよ~

あと、「コロナ禍」だったのも大きいと思っている。

入院中は、コロナ対策で面会禁止だったことで、家族をはじめ誰かのサポートは期待できなかった。でもそのことが、とてもきつかった術後、自分が動かなければ何も達成できないと奮い立たせるきっかけになって行動に移せた。

また、学生のころに受けた開頭手術直後の姿を知っているから、面会可能であれば四六時中来てあれこれ手を貸してくれたのかもしれない。それだと僕は必ず甘えていたはずだ!

だから、早期の回復劇は、そういう姿を家族や知人に見せることなく・甘えることもなく(できなかった?)回復への道を突き進めたことが大きいと…心から「コロナ禍」に感謝をしたい。

併せて、院内コンビニや患者図書館・コーヒーショップやおしゃれな散髪屋さん?などの魅力ある院内施設?は患者である僕にとってひとときの安らぎであったり、早く社会に復帰したいと思える場所であったり、実社会に近い空間を味わえるなど貴重な時間をもらっていた気がするな~

だから…大学病院に入院できて本当によかった!感謝の思いを忘れずにこれからを頑張っていかないと失礼になるぞ!

そんな思いに耽っていると、病室に父親がやってきた。

スーパーにある買い物用カートよりひと回り大きなものに、入院時に持ってきたバックを積んで父親に病院玄関まで運んでもらうと、既にリフトタクシーの運転手さんがドアの向こうで待機している。だからカートの動きを止めることなく玄関を出てリフトタクシーに乗り込んだ。

その時に知り合いの方(ここの警備員?)が来てくれて「大変だったね。お疲れさま!」と言ってくれた。外は冬本番の厳しい寒さだったけど、心の中はポカポカしていて意気揚々に大学病院を出発した。

わ~い、タクシーが来たぞ~
わ~い、タクシーが来たぞ~

🎯その31 ニッチモサッチモ…

「お客さ~ん、そろそろ着きますよ~」

「えっ!あっ…そうですね…」

窓ガラス越しに外を眺めると、別府特有の湯けむりが、所々でモクモクと湧き上がっている。

見慣れた風景だ!

運転手さんは、てっきり僕が寝ていると思ったんだろうけど、あれだけ病院でゆっくりさせてもらったんだから、眠気なんて一切なかった。でもね~今後のことでいろいろ考え事をしていて、大学病院を出発してからずっと無言だった…

(こんなんじゃ~疑われるのも無理がないな~)

そんなことを思っていると、再び運転手さんの声…

「着きましたよ~ここに停めて良いですか?」

「ええ、大丈夫です、お願いします」

(お~ついに帰ってきたか~)

住み慣れた我が家が目の前にある。

入院するときには、もうここに戻ってくることはできないのかもしれないと本気で思っていたから、感慨もひとしお!

玄関までは、運転手さんが荷物を運んでくれた。

お礼を言った後、鍵を開けてドアを開ける…

くっさ~
くっさ~

(えっ…?くっさ~…)

部屋に入るなり悪臭?

ま~堪えられないまではないんだけど、2週間放置していたんだから仕方がないか…

(これは、窓を開けてしばらく換気しないと…)

そう思って荷物を移動させようとした矢先の事…

(あれ?こんなに荷物が重たかったっけ?…腰が痛くてたまらないぞ!)

目的の位置まで移動させたいのに、体が悲鳴を上げて容易にできない…

入院している間で、筋肉はすっかり落ちてしまい動きの感覚?も鈍ってしまっていた僕。

これって、入院生活を送った人にとって、よくある退院後のエピソード(いわゆる、プチ廃用症候群?)だと思うんだけど、まさしく当時の僕もそんな状態だった。

そんな僕は、入院前には難なくこなせていたことが、全くといっていいほどできなくなっているのに気が付く…

料理中の僕
料理中の僕

定時に起床し、着替えて、ポットにお湯を沸かして、ご飯を炊いて、おかずを作って、弁当を準備して、買い物へ行って、食器を洗って、洗濯をして、それを干して、乾いたら取り込んで、掃除をして、ごみを分別してから出しに行って、お風呂を沸かして、エアコンなどで温度調節して…

手術を受けようと決心したのは、もちろん早期に現職場に復帰してこれまで通りの体制で働くためだけど、そのためにはまず単身生活が難なくこなせないと話にならないのに…

入院中は、僕がやらなくても時間になったら食事は配膳されてきて、お風呂は介助してくれたし、洗濯は看護助手さんがやってくれた。注意しなくても一日中適温だったし、ベッドシーツが汚れてもすぐに交換してくれた。ごみは分別しないでも、ごみ箱に入れていたら定期的に回収してくれたし、掃除は行き届いていて、床はいつもピカピカ。そういうことに費やす労力や時間を回復に充てられたから今があるわけだけど、退院後はいきなり全部自分でやらないといけなくなるからな~

入院中がどれほどパラダイスだったのか身にしみてくる。

人って、普段は平然とやってのけていることが、何かの理由で体を壊してしまうと、たちまちできないことが増えてしまう…ある意味「もろい生き物」なんだな…

体を壊す前の状態に戻すことがどれだけ大変で時間を必要とするのか…

リンゴくださ~い
リンゴくださ~い

(これからしばらく大変だな…あっ!そうだった…よかった~)

そんな中、ほっと胸をなで下ろしたことがあった。

それは、「職場復帰まで、残り2週間くらい時間的猶予があるということ!」

単身生活をこなすことに集中でできる時間が少しあるという強運はまさに恵みの雨。それがなくて、退院後すぐに職場復帰しなければならなかったら…再び体を壊して入院したり、仕事に手が回らなくて退職していたのかもしれない…


🎯その32 これならどうだ!

退院後に、まず取り掛かったのは、職場復帰するまでにクリアにしておかなければならない「見づらさと、更なる聴力低下

どちらも何らかの対応をしなければ、手術によって居眠りなどが改善されていたとしても、働き続けることは難しいだろうと、入院中に感じていた。

(急いで何か対策を練らないと…でもどうすればいい?)

迷った僕は、まずはプロの意見を聞くことだと考えた。

見づらさに関しては、以前受診したC眼科へ。

メガネで見た目が真面目になる?
メガネで見た目が真面目になる?

「うん!(手術前に診た時と)変わらず異常はないです」

(そうきたか…)

これで、眼科的にも脳神経外科的にも、嚢胞拡大や手術行為が、見づらさの原因にはならないことになる。どうしたらいいのか…

(…)

(ま~…そんなもんなんだよ!)

原因がわからないということを、クヨクヨ悩んでも仕方がない…

僕が自覚している見づらさというのは、プロから診たら治療するような状態ではないということだ!

僕はそう自分に言い聞かせて、今を受け入れることにした。

ま~僕的には、嚢胞拡大や手術行為が、少しだけあるんじゃないかなとは思うんだけどね…

だから、歯がゆい思いはあるんだけどさ~僕自身立派なオジサンなわけだし、もともと遠視で老眼で乱視の状態なんだから、年齢的な衰えから来ているって考えようじゃないか!

(そうそう…自然の摂理みたいなもんなんよ!だから必要以上に気にする必要なんて全くない!)

(よっしゃ~そこを補えるように新しく眼鏡を作ろう!)

そう思った僕は、眼科でもらった「眼鏡処方箋(僕にあったレンズの度数などが書かれてある)」を持って、眼鏡屋さんへ行って新しい眼鏡を注文した。

(そして…こっちは両刀使い作戦だ~)

更なる聴力低下に対しては、これまでの流れから、医学的に改善するのは難しそうだと感じた。そこで、耳鼻科を行った聴力検査のデータを持って補聴器販売店へ向かった。

僕は20代後半からずっと、左耳に補聴器をつけてきた。今回、更に右耳用の補聴器を作成し両耳着用にすることで、問題を解決しようと考えたわけ!

補聴器のタイプはいろいろあるよ!
補聴器のタイプはいろいろあるよ!

「それでは、右も同じタイプから選びますか)」

「ええ、そのタイプが一番使い勝手が良かったので…ただ一番安いのを…」

今までは左耳だけに、補聴器をつけていた僕
今までは左耳だけに、補聴器をつけていた僕

僕が感音難聴のために、愛用している左耳用の補聴器は、耳穴に入れるタイプ。作成時にシリコンか何かで型を取るので抜けにくいし鼓膜のほうへ入り込むことはない。それに着けていることを他人に気づかれにくいし、小型で軽量のため持ち運びに困らない。(デメリットは省略)

「わかりました。やはり慣れている形が良いと思います。ただ、あまりに安いと品質的にお勧めできかねるものもありますので…あと、今ご使用中の左とメーカーを合わせた方がよろしいですか?」

「それはどちらでもいいのですが…同じ方が便利なのかな?」

「では、一旦外して見せてもらえませんか?」

「ええ、構いませんよ~」

左耳から補聴器を外して店員に渡したところ…

「へ~6年も使っていらっしゃるんですね~」

「えっ…それって長いんですか?」

平均は3~5年のサイクルで買い換えていくようですから長いと思います。物持ちがよろしいんですね!ただ、あまり長くなると困ることがあるかもしれません」

「困ること?」

「例えば、あまりに時間が経過するとメーカーのサポートが終了してしまって修理や部品購入の面で実費が発生したりするようになります」

「へ~物持ちがいいと言われたらうれしいですが、あまり長くなるのも考えものなんですね…」

「次の補聴器を検討する時期が近づいていると思ってくださいね!そして右用なんですが…同じメーカーではお勧めするものが見当たりませんでした。申し訳ありません。メーカーが異なることになってしまいますが、これなどいかがでしょうか)」

「じゃ~…それで!」

「あっ!それと、こっちも」

聴力検査の結果から、左右ともに聴力が低下しているのは明らか…

そこで、右耳用に新しく作ったのはもちろん、現在付けている左耳用の補聴器の聞こえ方を調整してもらった。

というわけで…

眼鏡も補聴器も、新しいものを注文して職場復帰に備えた僕。

僕がとった2つの策は、今後の生活に功を奏すのか…

果たして…


🎯その33 メンテはプロに!

前回、補聴器について詳しく書いたから、今回はそれが必要になってきた20代前半から気をつけるようになった2つのことを書こうと思う。

まず1つ目が、「耳中(外耳道)の清掃をプロに委ねること

僕の耳中(外耳道)はとても狭く,、少し入り組んだ形みたいで、自分で耳垢掃除をすると傷つけてしまう恐れがあるから、定期的に耳鼻科を受診して耳垢を採ってもらっているんよ~

自分で掃除するのは苦手…
自分で掃除するのは苦手…

その時に、決まって耳鼻科医とこんな会話になる。

「先生、今日もありがとうございます。今回は(耳垢は)溜まっていましたか?」

「そうですね…いつもより溜まっていたと思います」

「暑いと耳垢も溜まりやすいのかもしれませんね!今後は1週間に1度くらいの間隔で来ようと思います」

「そうですか…もちろん受診されたら掃除をさせてもらいますが…耳垢はそんなに早く溜まるものではありませんよ!どうしてもというなら、2~4週間に一度くらい綿棒で耳穴から1センチ程度までを優しく軽く拭き取る程度で十分です。」

「ですが…耳穴が細いみたいだし…自分で掃除するのはちょっと…」

「そうですか…そもそも聞こえに影響するほど耳垢というのは溜まらない(自然に外へ排出される)ことがほとんどですよ~」

「ええ…それはわかっているんですけど…」

心のどこかで「掃除しないと聞こえなくなる」と思い込んでいる僕。プロにきれいにしてもらうと聞こえやすくなった気になるんだけどな~

そして、もう一つ…

気をつけるようになった2つ目は、「補聴器の細かい清掃をプロに委ねること

補聴器は精密機械だから、些細なことで聞こえが落ちたり故障してしまうんだけど、メンテナンスをしっかりしておけばある程度は防ぐことができる。

補聴器の弱点は「汗や皮脂・雨などの水分・湿気など」

そして、「耳垢が詰まるとただの耳栓になってしまうこと」

そうならないように、日々の自分でできる耳あな式補聴器の自己メンテナンス方法は…

・補聴器を乾いた布などで拭く
・使用しないときは乾燥剤の入った専用容器にしまう
・補聴器をブラシで清掃する
・チップを時々交換する

あっ、チップというのは、聴器が耳の穴と接するところにあるんよ~

耳あな式の補聴器が耳の穴と接するところには、調整した音を鼓膜に送る小さな穴があるんだけど、そこが耳垢が入り込んでしまうと、中の小型機械に重大な影響を及ぼしちゃうからチップで保護しているわけ!

時々交換しないと、先ほど書いたように「ただの耳栓になってしまう」

ま~でもね…

そんな自己メンテナンスには、限界がある…

どうしても、中にある小型機械に、わずかな湿気や汚れが混入してしまって、段々と聞こえの程度が落ちてくる。

そういう時に、考えられる原因を探って~できる限りの自己メンテナンスをやってみるんだけど、自分ではもう対処できないと思った時は、潔く補聴器販売店へ!

今は耳穴に入れるタイプの補聴器
今は耳穴に入れるタイプの補聴器

そこでは、機械部分と音が出る小さな穴の間の空間を掃除機みたいなので吸い取ってくれる。そして、一瞬で乾燥させることができる機械もあって、乾燥剤の入った専用容器に長時間入れておくより効果がある。

それでも改善しない場合は、メーカーへ修理依頼をしてくれるから安心だ。

えっと…こんな感じで自身の耳中や補聴器をプロに診てもらうのは、やっぱり日頃聞こえづらさで悩んでいるから!

聞こえづらさを良くすることは難しそうなんだけど、(そうであっても)少しでも日々を快適に過ごしたい…

そんな思いの現れなんだと思うな~

以前左の耳に、耳掛け式をつけていたのですが、実は…根元からジョイントを右耳用に差し替えれば右耳に付けられるんです!
以前左の耳に、耳掛け式をつけていたのですが、実は…
根元からジョイントを右耳用に差し替えれば右耳に付けられるんです!

🎯その34 結果発表~~~!

時が過ぎるのはあっという間…気がつけば退院し1週間が経過していた。

退院直後は、あれほど日々のルーティンをこなすだけでヘトヘトだったのに、ここ最近は驚異的な回復をしていて元気に満ち溢れてきた!

この調子でいけば目前に迫ってきた職場復帰も難なくいけそうな気がするんだけど、問題は仕事中に出る症状。

果たして、手術で症状は改善されているのか?

そんな渦中、退院して初めてとなる森先生の脳神経外科外来を受診した。

「先生、お久しぶりです」

「手術が上手く行って良かったですね」

「ありがとうございます。ただ、仕事中に出る症状が改善されたかはまだ分かりませんし、嚢胞の正体が一体何だったのかもまだ聞いていませんから、不安のほうがまだ勝っています」

手術で採ってもらった嚢胞の正体が何なのかによって、今後は大きく変わってしまう。

良性だったのか?それとも、悪性だったのか?

放射線壊死や髄芽腫の再発以外の何かなのか?

今が元気モリモリなのは、術後に追加で放射線治療や化学療法などを受けていないから、ある意味当然のことだとも言える。(学生の頃も、それが始まるまでは日に日に回復していた)

籾井先生は、「今後追加の治療(放射線や化学療法など)は必要ないでしょう」と、退院するときに言われた。でもそれは組織を詳しく診る専門家の意見ではないわけだし…

心配するならリンゴ食え!
心配するならリンゴ食え!

「仕事中に出る症状は、嚢胞が大きくなっていたからです。解放することによって、正常な脳は本来の位置に戻っていくわけですから心配する必要はありません。籾井先生からの報告書(お返事)を見れば一目瞭然です」

「えっ報告書って…手紙みたいなものですか?」

「ええ」

「それでは、そこに嚢胞の正体が書かれてあるとか…」

「そうです」

「えっそうなんですか?なんて書かれていたのでしょうか…」

「え~と…そうですね~異常は特になかったと…」

「え~~~本当ですか!よかった~…って、本当はあまり良くないとか?先生は優しいから、僕の気持ちを察してそう言われているとかはないですよね?」

「読んでみますか?」

疑心暗鬼な僕に、先生はその報告書を見せてくれた。

あれ?
あれ?

以下、籾井先生の報告書(一部)

手術で採った細胞の最終結果は、medulloblastomaではなくgliosisであろうとのことでした

(な~んだ、medulloblastomaじゃなくて、gliosisだったのか~…って、gliosisっていったいなんなの?)

英語?どこの言語なのかすらわからん…

日本語しか解明不能な僕には、gliosisの意味が…

嚢胞の正体は…いったい?

「えっと…先生、意味が分かりません…」

嚢胞は、髄芽腫の再発ではなくて放射線壊死だったと考えてください」

「それじゃ~今後の治療は…」

「壊死というものは、採ってしまえば追加で治療することはまずありません。今後は定期的にMRIを撮って再び拡大することがないかチェックをしていくことになります」

「そうなんですか~よかった~」

帰宅後、専門用語が入り混じっていた報告書の内容を思い出しながら、検索して僕なりにまとめてみたところ…

放射線治療など何らかの理由で、そこの血管が破れて出血。これが元になって血の塊がどんどん大きくなってしまった…嚢胞の正体は、出血した血管の瘢痕ってこと?

ということは、2000年に受けたガンマナイフが、髄芽腫の播種した場所周囲の正常な細胞にも照射されてしまい、時間の経過とともに血管が焼けただれて膨らんでいったということでいいのかな…

う~ん、完全にわかったわけでもないけど…「嚢胞が悪性腫瘍ではなかった」ことはわかったぞ~

これは、職場復帰に向けて一番うれしい朗報だ!

宝くじに当選したみたいな気分かも?
宝くじに当選したみたいな気分かも?

🎯その35 凱旋

「お久しぶりです。ただいま戻ってまいりました~これからもよろしくお願いします!」

や~や~久しいな~ワハハハ!
や~や~久しいな~ワハハハ!

1月24日、ついに僕は現職場に復帰することができた!

当初は、入院・開頭手術→自宅療養全て込みで数ヶ月~数年、もしくは復帰できないことも覚悟していたから、トータルで1ヶ月という短さは想定外の快挙!

ただ、最初はそれが信じられず、素直に受け入れきれていないのか…慣れ親しんだデスクにパソコン・部署の配置や同僚の姿を見ると、まるで現実ではないような気がして戸惑ってしまう…

(これは…まぼろし?)

(いや…そうじゃないみたいだ…)

(わ~いわ~いマジだぞ~!僕は戻ってきた…戻ってくることができたんだ!どうだ~参ったか~わははは…?

職場のパソコンも久しぶり
職場のパソコンも久しぶり

ところが…

そんな「快挙の余韻」に浸っていたのも束の間、段々と現実が見えてくるようになってきた…

(ぬぬぬ…これは…まだまだ仕事ができないぞ…)

頭で描くのは「入院前の僕」

でも今目の前に映るのは、彼じゃない…「入院後、体力の低下・感覚の鈍り・見づらさや聴力がさらに低下した別人

こんな状態では、入院前と同じように働くのは無理だ…

現実は理想通りにはいかない…
現実は理想通りにはいかない…

手術を受けた目的は達成できているのかなんて、まずはそこをクリアしてからじゃないと、真意がわかるはずもない…

そんな僕に追い打ちをかけるように同僚が一言…

「あの~…やっぱりもう少し静養された方がいいのでは?」

「えっ?ダメそうですか?」

「いえ、そういうわけではないんですけど…まだ顔が腫れているようですし…」

頭から何か生えているような…
頭から何か生えているような…

「これくらいどうってことないですよ~平気ですって!ハハハハハ~」

「それならいいんですけど…それと…頭から何かが生えてきているように見えるんですが…痛くはないんですか?あと、前額部周辺が、異常にテカテカしているのも気になります…」

「えっ…そ…そうですかね~」

実は、そこを指摘されるんじゃないかと、ある程度予想はできていた。

瘡蓋から何か出てきてない?
瘡蓋から何か出てきてない?

なぜなら、当時は、フランケンシュタインかのように、額の周辺(眉毛から手術創あたりまで)がボコっと突き出ているかのように腫れ上がっていたし、開頭した手術創4か所に赤い瘡蓋があって、そこから明らかに髪の毛ではない細いものが1~2mmくらい生えてきていたから…(土に埋まっている大根を、抜かずに葉っぱだけ根元を少し残して切ったような感じ)

そういう状態は、見慣れている僕ならまだしも、初めて見ることになる職場の方にしてみれば、ホラー映画の出演者が現れたようなものだろうから、出勤時に対策をするつもりでいた。

(どうにか隠して、恐怖のどん底に陥れないようにしないと!)

あいにく、周辺に髪の毛がほとんど生えていなかったから、髪の毛で覆い隠すことは不可能…(特にそこから前方は脱毛状態が高度で、ほぼハゲ)

実は、後頭部は学生のころからずっとハゲ
実は、後頭部は学生のころからずっとハゲ

そこで華美でない帽子を被って行こうとした…けれど、以前の苦い経験を思い出して潔くそのまま出勤。そのために起こってしまった(僕にとって)悲惨な出来事…

(トータルで考えて、まだ完全復帰には時間が必要だな…)

そう考えた僕は、まだ残っていた年次休暇時間を使って、来月15日までは時間を短縮して勤務させてもらうことにした(これで15年ほど勤務して溜めていた年次休暇時間をすべて消化…)。

プロ車いすマンになっても、後頭部はハゲ
プロ車いすマンになっても、後頭部はハゲ

そのときに、15日以降の件も相談。

「あの~それ以降はどうしたらいいでしょうか…」

「そうですね~15日以降も短縮勤務を希望される場合は、入院中・療養機関と同じ病休と欠勤扱いにするとか…勤務体制を再契約するなど方法はいくつかありますのでまた相談してください」

「わかりました。あっ!それと入院していた時に疾病手当を申請できていなくて、これからになりますが大丈夫でしょうか…」

若いころはヘアバンドで後頭部ハゲ隠し徐々にハゲ部分が狭くなったからヘアバンドも狭いものに…
若いころはヘアバンドで後頭部ハゲ隠し
徐々にハゲ部分が狭くなったからヘアバンドも狭いものに…

「疾病手当には期限があるわけではないので安心してください」

「そうですか、ありがとうございます」

(ま~なんでもそうだ。焦っても仕方がない…できるだけ早く前みたいに働けるよう体を慣らしていこう!)

そう自分に言い聞かせ、しばらくは我慢の日々を過ごしていくことになる…


🎯その36 お墨付きGET!

2022年 (令和4年) 2月 45歳

(あらら…帰りは真っ暗かもな~)

いつの間にか45歳になっていたオジサンは、退院後初めて大学病院へ向かった。

本当は朝1番に受診したかったんだけど、診察の前にMRI検査を受ける必要があって、その開始時間が16時…

仕方がなく、家を出たのはお昼をとっくに過ぎていて、大学病院に着いた時は、日が暮れて行きそうな雰囲気…冒頭のようなことを思いながらMRI検査室へ。

(そう言えば、術後は首がカチコチで顔が上がらなかったな~)

そんなことを思いながら待合室で待機していると、名前が呼ばれ撮影台へ。

(お~前みたいに横になるのも苦しくないぞ~!)

顔が真正面に難なく向けられるようになっていることに加え、平面の寝台へ横たわること・そこから起き上がることが何不自由なくできる幸せを実感!

途中に造影剤を入れられたため、一時間ほどかかって撮影は終了。

急いで、脳神経外科外来へ向かい、受付にいた看護師さんに撮影が終わったから診察をお願いしますと伝えたところ…

どういうこと?

「えっ?そんな話は聞いていませんけど…」

「えっと…この時間に来るよう言われているのですが…」

「そうなんですか?こんな時間に外来患者の診察はしていないのですがね…」

そう言って、半ば追い返そうとする看護師さんに、紋所のように再来予約票を見せる僕。

「あらっ…本当!」

看護師さんはそれを見ると奥の部屋に入っていった。籾井先生を探しに行ったのかな?

「お待たせしました、中へどうぞ!」

籾井先生が奥から出てきて声をかけてくれた。先ほどの看護師さんは隣でニコニコしている…

早速、診察室へ。

籾井先生は医療モニターに移る僕のMRI画像を診ながらこのようなことを言われた。

もう大丈夫だ~
もう大丈夫だ~

本日のMRI画像は特に問題ありません。ここまでの状態になれば、今後の定期的な検査や診察(フォロー)は、これまで通り森先生の方でお願いします」

「えっ…それじゃ~…ここは?」

今回で終診です。また何かあったら森先生と相談して受診してください」

僕はそれを聞いた後、今しかないんだと言い聞かせ、現時点の体調などを報告。また、気になる点をいくつか質問した。(どちらも以下参照ください)

①先生へ報告したこと

・(嚢胞のある前頭葉左側の)頭重感?違和感?は改善しているが完治はしていない

・「聞こえづらさの件」は、術後に悪化し今も変わりないが、補聴器を片耳から両耳着用に変更したことで、問題なく社会生活を送ることが出来ている

・「見づらさ・涙や目脂が出る件」は、術後に悪化したが今は術前の状態まで改善しているようだ。今の視力に合うように眼鏡を新調してからは問題なく社会生活を送ることが出来ている

・手術とはあまり関係性がないと言われていた顔面神経麻痺(ヨダレ、食べこぼし、下唇の使いづらさ、しゃべりにくさ、飲み込みにくさ、舌の動かしにくさなど)は良くなっていない(一部悪化しているようだ)

・顔面痙攣は少し落ち着いてきている

②先生へ質問したこと(先生の回答も)

・今日撮影したMRI画像を見ると、嚢胞が縮小しているがまだ残っているようで、すっきり良くなったと素人の僕には思えなかったが大丈夫なのか?

手術で風船のような状態の中身を取り除いたので外側が残っている状態。そのため「萎んだ風船」が画像上映っているため問題あるかのように見えるのかもしれないが心配ない。(僕が勤務中に居眠りや集中できずにボ~とするようになったのは、嚢胞が拡大して正常な脳を圧迫していたから:風船で例えたら空気をたくさん入れて膨らんだ状態)今の状態をこのまま維持(中に溜まってまた大きくならない)できれば術前のような症状は出ないから再手術の必要はない。

・開頭手術の際に縫い合わせた手術創4か所に出来た瘡蓋はまだ残っているが大丈夫なのか?

まだ瘡蓋が取れないんですけど…
まだ瘡蓋が取れないんですけど…

ダラシン(感染予防の軟膏)を定期的に塗って、瘡蓋が自然に剥がれてしまうまでは、シャンプー時にゴシゴシしすぎないなど、周辺を極力触らないようにする事が大事(通常なら2~3週間で目立たなくなるのに、僕が気にして触るため治癒に時間がかかっているのかも)

前額部にシワが出ないが大丈夫なのか?

手術で周辺の皮膚を引っ張っているので余裕がない状態。今後ずっと出ない可能性が高い

・脱毛部分(主に手術創から前方)の髪は生えてくるのか?

手術創自体は難しいが、その周囲は元通りまではいかなくとも段々と生えてくる

・聞こえづらさが更に悪化したのは手術と関係があるのか?

そもそも、嚢胞がある場所と聴覚との関係性はないので、手術との関係性は低い

・左目が術後一時的に見えづらくなったのは手術と関係があるのか?

そもそも嚢胞がある場所と視覚との関係性はないので、手術との関係性は低い。

・顔面痙攣は術後改善したようだが手術と関係があるのか?

手術との関係性は低いと思うが、痙攣があまり起きていないのならバルプロ酸ナトリウム(痙攣止めの薬)を中止して様子を見て良いだろう

・顔面麻痺の症状は術後も変わらず出て困っている。原因は?

手術前から言っていたが、手術との関係性は低い。どこかで小さな血管が梗塞した可能性も考えられるが、はっきりとしたことはわからない


僕はそれらを聞いたうえで、見づらさや聴力低下はもちろん、心配するいろいろなことを考えすぎずに、これから歩んでいこうと誓い、執刀していただいた事に深くお礼を言って診察室を出た…いやいやちょっと待てよ…まだ質問しきれていないことがあった!これだけは聞いておかないと…

「あの~もしもですけど…今後また嚢胞が大きくなったらどうすれば…ま~そんなことないですよね~?」

「それはわかりません。今後大きくなる可能性は絶対ないとは言えないため、定期的にMRI検査を受けて画像チェックをしていくことが大切です。ま~大きくなった時はなったとき!その時また考えましょう!」

(えっと…そこは…絶対ありません!じゃないのか…)

「それでは…最近になって出てきた症状ではないんですが、手術部位である前頭葉左側が、たまに(ひきつる)っていうのか…痛いんじゃないんですけど、さ〜と血の気が引く感じっていうのか、足がつったときのように(あらららら…)ってなるような状態っていうのか、かき氷を急いで食べた時のような状態というのか、落ち着くまで動きが取れないことがあるんです。それは大丈夫なのか聞いておきたくて…」

「大丈夫でしょう、問題ありません」

「そ、そうですか…それでは手術していただきありがとうございました」

なんとなく後味が悪い感じもあったけど、今後また手術にならないことを祈りながら病院を後にした。

あっ…ここまで書いてきた中で、こんな疑問を抱いた人いるんじゃないかな…

(なんで籾井先生は、森先生にフォローをお願いするんだろう?今後も自分で診てあげれば良いのに…)

その理由は、籾井先生が勤務する大学病院が急性期病院だから!

だから考え方次第だけど、籾井先生が今後のフォローを森先生に頼める(急性期病院が一般的な病院に紹介できる)ということは、僕が順調に回復している証でもあると思うんだよ~ん!


🎯その37 矛先変更か?

3月に入ったある日、先月の大学病院受診時の報告も兼ねて、森先生の脳神経外科外来を受診した。

まずは、手術創4か所に出来た赤い瘡蓋のチェック…

瘡蓋からニョキニョキがなくなったぞ~
瘡蓋からニョキニョキがなくなったぞ~

「うん…ずいぶん良くなっているから、このままダラシンを塗っていたら完治するでしょう!」

「本当ですか!よかった…」

次に、入院中(手術数日後)に撮影した昨年12月の時点と、籾井先生の外来受診時に撮影した今年2月時点のMRI画像を見せてもらった。どちらも一度見たことがあったけど、改めて2つを同時に見ると、あれだけ大きかった嚢胞構造が段階的に縮小していっていることがわかる。

ただ、完全に消えてはいない。籾井先生からは問題ないとは言われているんだけど、やはり素人には何か問題があるんじゃないかと思ってしまう…

「これは…悪いとは思えないんですが…良い傾向なんでしょうか?」

「もちろんです。今後も時間の経過とともに、嚢胞構造が更に縮小していくでしょう」

ということは、現時点では順調なペースで縮小中であり、今後もそれが続くということ(ただ消滅するわけではない)なのかな?

ま~ここまでは「良い感じ」なんだろうけど、気を抜くつもりは更々ない。

嚢胞構造が再び拡大する可能性は「0」じゃないのに、頭蓋内を目視するのは無理なんだから、今後も定期的に森先生の診察とMRI画像診断を受ける。そうすることが早期発見につながる僕の出来る唯一の方法…ま〜仕事のようなものかな。

あともう一つ!

喋りづらさも出てきた…
喋りづらさも出てきた…

「先生、経過は順調みたいですが…術後も顔面神経麻痺症状は相変わらず出ています。中には悪化傾向なのもあります。それはある程度わかっていましたが…少し残念です。ただ、痙攣だけは幾分改善したような気がします」

「わかりました。(痙攣対策で服用していた)バルプ酸ナトリウムは、(籾井先生も言われていたように)一旦中止にしてみましょう。そのほかの症状は今後の課題ということで…」

「それでは今日はこの辺で失礼しま…あっ!っ先生、最近になって出てきた症状ではないんですが、手術部位である前頭葉左側が、たまに(ひきつる)っていうのか…痛いんじゃないんですけど、さ〜と血の気が引く感じっていうのか、足がつったときのように(あらららら…)ってなるような状態っていうのか、かき氷を急いで食べた時のような状態というのか、落ち着くまで動きが取れないことがあるんです。それは大丈夫なのか聞いておきたくて…」

「問題ないでしょう。大丈夫!今回は髄芽腫の再発ではなかったのですから自信をもって、いろんなことにチャレンジしてください!」

「そうですか…(僕が症状をうまく説明できないのもあったから少し心残りがあるけど…ま~あんまり気にしすぎるのも良くないか…僕はこれまで通りの生活…僕が考える自立した生活に挑戦していこう!)わかりました。では、今後は大学病院には行かず先生に診てもらうことになりましたので、今後もよろしくお願いします」

「わかりました」

「それでは失礼します」

狙いを定め…なおしてっと

(多分だけど…今後は嚢胞よりも、顔面神経麻痺などに矛先を向ける必要があるのかもしれないな…)

もちろん、術後の経過が順調なことは嬉しいんだけど、それ以上に今後のことが気になった診察内容だったような気がするな…


🎯その38 きっかけ

4月に入った。

桜の花びら見るたびに~
桜の花びら見るたびに~

新年度を迎え、職場は新卒や異動で新たに戦力となる人材が多数加わった。

僕も、術直後に比べたら驚異的と言っていいほど体が動くようになって、見た目の変化も出てくるようになっている。

見た目の変化というのは、以下の3つが大きいと思う。

  • 術後の腫れが引いてきた点」

  • 手術創より前に髪の毛が生えてきた点」

  • 顔面が、異常にテカテカしていた額の周辺が、かなり改善している点」

フランケンだったころ
フランケンだったころ

復帰当初は、フランケンシュタインみたいに、前額部の周辺(眉毛から手術創あたりまで)がボコっと突き出ているかのように腫れ上がっていた。グロテスクとまでは行かないかもだけど、やっぱり気分がいいものではなかった。

手術創の4か所に瘡蓋があったのと、それより前に髪の毛があまり生えていなかったのも要因だろうなあ
手術創の4か所に瘡蓋があったのと、
それより前に髪の毛があまり生えていなかったのも要因だろうなあ

腫れが引いた今は、手術創の位置が真正面から見たときに上のほうへ移動したかのように見える。それは手術創周辺がスマートになったということ!

多分、今の僕を見たら「あの人フランケンシュタインみた~い…気持ちわる~」と思う人は少ないはず。(復帰当時の僕を見て、大丈夫なのか指摘してきた同僚からも、「何か表情が以前と違って良くなりましたね~」と言われるようになった!)

瘡蓋が取れて髪の毛が生えてきたら、見た目も変わるわなあ
瘡蓋が取れて髪の毛が生えてきたら、見た目も変わるわなあ

そうなんだけど…

どこか、素直に喜べない僕がいる。

「仕事はもちろん、僕が考える自立した生活にますます力を注いでいくぞ!」という気持ちになれない僕がいる。

なぜだかわかる?

それは~

手術部位である前頭葉左側が、たまに(ひきつる)っていうのか…痛いんじゃないんだけど、さ〜と血の気が引く感じっていうのか、足がつったときのように(あらららら…)ってなるような状態が、落ち着くまで動きが取れない原因が何かわかっていないから! → すいません、うまく説明できない…

それなのに、ここまでの段階で、森先生と籾井先生から(脳内嚢胞に関して)お墨付きをもらったことになってしまっいる…

僕は、これまで、その原因は嚢胞拡大・術後の状態に関係性があると思っていた。!

そうではないのなら…ひょっとして脳神経以外の問題なのかな?

嚢胞関係以外で、医学知識が乏しい僕に、考えだせる原因は…

  • 手術という行為によって、体に傷ができたわけだから、いわゆる「古傷が痛む」状態

  • 持病である強烈片頭痛

  • 脳神経以外の問題

どうなのか…?

そんなことを思い悩む僕に、参考データ?となりそうな「きっかけ」がやってきた!

それは、持病である「強烈片頭痛」が、宝くじに当選したかのように突然やってきたということ…

あっ…医学用語に強烈片頭痛って言うのはないよ!僕が、日常生活の大きな弊害になる片頭痛をそう呼んでいるだけ…

僕は「片頭痛持ち」となって20年以上になるんだけど、大半は日常生活にあまり支障をきたさない。日常が全くと言っていいほど回らなくなる「強烈レベルの片頭痛」は年に数回あるかないか

軽度の片頭痛を含めたら、月に数回は起こっているんだけど、いつ強烈なものがやってくるのかを予測するのはとても難しい

だから、年に数回しかないことに対して、「次はいつ来るのか?」と戦々恐々で年中過ごさないといけないことになる。

僕だって、なんとか手立てを打ちたいから、これまでの経験を記録に残すことで、ある程度のパターンをつかんではいるんだけど、「焼け石に水」っていうのかな…「何もわからず痛みに耐えるよりまだマシ」ていう程度。

そんなわけだから、この件に関しては、半ばお手上げ状態~

それでも、僕には明日が来る(来てしまう)!

なぜなら、「片頭痛は死なない頭痛」とはよく言ったもので、どんなに辛く苦しいピンチに見舞われても、ある一定時間を経過するとケロッと良くなってしまうから…

ごめんなさい、少し話が横道に逸れてきたから本題を…

今回の強烈片頭痛は、左のコメカミあたりにある太い血管が、脈打つようにズキンズキンと痛んだ

ということは…

今、僕が心配する痛みとは、異なる痛み方である!

心配する痛み方は、「さ〜と血の気が引く感じっていうのか、足がつったときのように(あらららら…)ってなるような状態・かき氷を急いで食べたような状態」…ズキンズキンではない。(そもそも痛いと表現するべきではないのかも)

そう言うことから、今心配している件は、強烈片頭痛ではない可能性が高そうな気がしてきた!

待てよ…そうすると、ますます心配する痛みの原因がわからなくなってきたぞ…


🎯その39 悪化している見づらさの原因

前回、片頭痛の話を書いたから思い出したんだけど、それに対して勘違いをしていたことがある。

それは「頭痛が起きる仕組み」っていうのかな?

以下、それがわかるんじゃないかと思う森先生との会話(以前、診察時にした質問)を書いてみようと思う。

「先生、先日初めて右側のコメカミあたりがズキンズキンと痛んだのですが…」

「症状は?」

「いつも左側に起きる片頭痛と同じです」

「それでしたら、片頭痛でしょう」

「でも…僕の(片頭痛)は左側ですから…」

片頭痛は左右どちらにも起きますよ。また、両側同時に起きる人もいます」

「えっ?そうなんですか…」

「それに、あなたが言うコメカミにある太い血管だけとは限りませんよ。片頭痛は脳内の血管が原因の頭痛です。細い血管が原因となって起きる片頭痛もあります

「そうなんですか~今まで片頭痛というのは、人それぞれ左右差はあるけれど、必ず決まった側のコメカミにある太い血管が原因になるものと思っていました…」

どうですか?

僕みたいなことを思っている人って、意外にいるんじゃないかと思うんですが…

強烈~~~
強烈~~~

さて、そんな片頭痛のおかげで、数年前から悪化している見づらさの原因が、わかってきたような気がする。(手術直後も感じたことかもだけど)

僕は、普段から、両方(特に左側)の眉毛が若干下がっているんだけど、片頭痛時は、通常よりも瞼が下がってしまう(痛みのせいでそう感じているだけかも)

それだけでも、視界が狭くなって見づらくなるのに、強烈片頭痛になると一層瞼が下がってきて、目の前に黒いバーコード?カーテン?が現れることが多い。

こうなっちゃうと、メッチャ見づらくなってしまう…

そんな黒いバーコード?カーテン?は、僕が勝手に推測しているだけで確かではないんだけど、まつ毛だと思う。

本来ならばもっと上の方に位置していて上向にカールしているまつ毛。瞼が下がれば下がるほど、当然それも一緒に下がってくるでしょ?

カールしているまつ毛がダラ~ンと下がって黒いバーコード?カーテン?のようになっている理由は、顔面神経麻痺のため、普段からカールが弱く若干まつ毛が下がり気味で、瞼が下がると黒いバーコード?カーテン?として視界を邪魔するんじゃないかな?(確かではなく推測)

その証拠?に、以前3か所の眼科を受診した時、視力検査時や細隙灯での顕微鏡検査時に目を大きく見開くように言われたんだけど、意識して見開くことで、一時的に瞼を上げることが可能な僕は、普段下がり気味の瞼を容易に上げることができ、黒いバーコード?カーテン?が視界を邪魔することはなかった。問題なく検査を受けることができていた。(結果、眼科的に異常を指摘されなかった)

そういうことから、僕が見づらいと感じる現象は、眼科的に問題があるからではなく、顔面神経麻痺のために瞼が下がってきている点が大きく、強烈片頭痛時や疲れがひどい時は、一層瞼が下がってきて、まつ毛が黒いバーコード?カーテン?としてさらに見づらくくさせてしまう。

そのこと自体は以前から変わっていないんだけど、数年前から顔面神経麻痺の状態が徐々に進行し、瞼の下がり具合がひどくなっているせいで、「数年前から感じるようになった見づらさの悪化」に繋がっているんじゃないかな~

なんか書いていて、意味が自分でもわからなくなってきたかも…

瞼が下がって、まつ毛がカーテンになる
瞼が下がって、まつ毛がカーテンになる

ま~そんな僕の予想が本当に的中しているのなら、眼科的に異常がなかったのは頷けるし、脳内(嚢胞など)に原因となるものはないと言われていたのも納得がいくんだけどな~

真相はいかに…


🎯その40 同棲生活、は~じめました~

「あれ?なんか糸のようなものが出てきていますよ…ここらへんです」

4月下旬ごろだったかな?

髪を切りに行った理髪店に行ったときに、理容師さんが髪を切りながらそんなことを言われた。指さす位置を前方の鏡で確認すると、手術創のデコボコ部分(右目の上あたり)みたいだ。

「えっ?白髪じゃないですか?」

「いや~髪の毛ではないです。もっとしっかりしていますし、色合いが白髪ではないです。カットしようと思えば簡単にできますが、一応何かあるかもしれないのでそのままにしておきますね!」

「ありがとうございます、あっそうだ!タブレットで写真を撮ってくれませんか?」

「もちろん、構いませんよ」

理容師さんは、器用に髪の毛をかき分けて、「それ」が映るように写真を撮ってくれた。

「ありがとうございます、帰って見てみます」

そう言って店を出た僕は、その場所が少し前から違和感があったのを思い出した!

シャンプーをしているとき指に引っかかるような感じが時々あったんだけど、位置的にも指摘された場所とほぼ一致する…

ただ、痛くも痒くもないし、血液などが出ているわけでもない。

だから、少し気にはなっていたんだけど、以前のように手術創周辺が脱毛状態ではなく、かなり髪の毛が生えてきていたから、地肌を目視することが難しくなっていたし、日ごろ気にしすぎて失敗することが多いから、あえて気にしないように努めていたところもあって、なんとしてでも確認せねばと意気込むことはなかったし、病院を受診しようと思うほどでもなかった。

そんな僕が、タブレットで撮ってもらった写真を見て驚愕する…

(な…なんだこれは~~~!)

なにこれ~?
なにこれ~?

画像には、明らかに髪の毛ではないものが写っている…

(これは…髪の毛にへばりついているんじゃないな…えっ?…頭の中からニョキニョキと生えてきているじゃないか~~~)

以前あった瘡蓋から出てきていた糸みたいなのに似ている?

薄緑色で5mmくらいの…糸みたいなフニャフニャしたものではない…釣り糸みたいなもの?

怖くてしっかり触れることはできないけど、髪の毛より張りがある素材なのか?途中で降り曲がっていて、指を軽く曲げたような形になっている。

(これは…ヤバいやろ…)

慌てて森先生の外来を受診。

「これは…今すぐ採ってしまいましょう。せっかく髪の毛が伸びてきているのですが周辺を剃りますね」

先生はそう言われると、看護師さんにいろいろと指示されている。どうやら緊急で摘出が始まるみたいだ。

「まずはこれを被せますね~」

しばらくすると看護師さんがそう言いながら何かを被せようとする。

「えっ?ちょっと待ってください。このまま(車いすに座ったまま)ですか?」

「ええ、先生がそのままで良いと…」

頭上にブルーシートみたいなのを被せられた後は、行こう全く見えなかったんだけど推測で実況中継…

まずはハサミで周辺の髪の毛を切れるところまで切った後、メスか何かでジョリジョリと削ってツルツルに消毒液をまんべんなく縫って、ピンセットのようなもので頭から出てきている物体を慎重に摘出。

「意外と簡単に採れましたよ」

「えっ、もうですか?}

数分で摘出は終わったみたいで、ブルーシートみたいなのを外してもらい、その怪しい物体を見せてもらった。

確認すると、長さは2~3cmで…ワイヤー(金属)のように見える。

ナイロン糸…
ナイロン糸…

「先生、これは何ですか?」

ナイロン製の融合糸です」

「あ~融合糸だったのですか~(ってことは表面に出てきていたのはその一部だったってことか…)」

そう言いながら一点を見つめ呆然とする僕。

その縫合糸が、手術創の内側に端から端までいくつもあるんですよ」

「えっそうなんですか?だったら、10本とかでは済まないでしょうね…」

最初は、頭に何本の融合糸が埋まっているのか?考えるだけでゾッとしたんだけど、冷静になって考えてみると、開頭したんだからしっかり傷が繋げるために縫い合わせるのは当然だし、そのためには端から端まで縫い合わせる必要があるわけで…怖いけどそれは致し方ないこと!それに、頭に入っているのなんて一時的に決まっている!…いつかは体からなくなるものなんだから今は我慢だぞ…」

そう自分に言い聞かせてから、先生に再び質問をした。

「それじゃ~いつかまた手術を受けないといけないと思うのですが…まだあれから5ヶ月くらいですから…もう少し先でしょうか?」

「いえ、しませんよ」

「えっ…融合糸を摘出しないといけませんよね?あっ…わかりました!溶けてなくなるのですよね?」

「いえ、なくなりません。今後一生そのままです」

当然のようにそう言われる先生。

「えっ…摘出もしないし、溶けてなくなるものでもないんですか…(マジか…こんなものが無数に、一生頭の中にあるのか…)」

縫合糸を見つめながら途方に暮れる僕。

「ナイロン糸が出ていた場所は、手持ちのダラシンを塗っていれば塞がります。次回の外来受診時に状態を診ますので、それまでは忘れず塗るようにしてください」

「わかりました。あっ…それじゃ~抜けてしまったこの融合糸は?…埋め込み手術ですか?」

「いえ…(術後)もうずいぶん時間が経過しているので、1本くらいなくても平気ですから…記念に持って帰りますか?」

「は…はい…」

僕は看護師さんがガーゼに包んでくれた融合糸を受け取ると、苦虫を噛み潰したかのような…なんともスッキリとしない表情で診察室を後にした。


🎯その41 リスペクト

5月下旬、縫合糸摘出痕の確認・MRI画像診断(数日前に撮影済み)・顔面神経麻痺などの近況報告を兼ねて、森先生の脳神経外科外来を受診した。

摘出痕は、グラシンを欠かさず塗っていたのもあってか?すっかり塞がっていると言われ―安心。

「そういえば…手術から丸5か月になります」

「そうですか。これを見てください」

医療モニターに、今回撮影したMRIだけではなく、昨年11月の手術前・12月の手術直後・2月の時点…合計4枚の画像を順番に見せてくれる。3月の受診時に、嚢胞構造が段階的に縮小していっていると書いたけど、今回の画像は(素人の僕が見る限りでは)更に状態が良くなっているみたい…だけど、やっぱり早く先生の見解を聞きたい…

2021年11月 手術直前のMRI画像
2021年11月 手術直前のMRI画像

「先生、今回はどうですか?」

「2月時点より嚢胞構造は更に縮小し、周辺の浮腫はわからないほどになってきています。今のところ順調に回復していると思いますよ」

「よかったです!一時はどうなることかと思いましたから素直に嬉しいです」

2021年12月 手術直後のMRI画像
2021年12月 手術直後のMRI画像

ただ、(何度も書いてきたけど)再び嚢胞構造が拡大する可能性はあるから、ここで気を緩めず今後も定期的にMRIや診察を受けて行く必要はある。

それに、手術部位である前頭葉左側は、強烈片頭痛が起きる場所に近いし、心配する違和感?(たまに、ひきつる?)があって、手術前よりも症状を自己分析するのが難しくなっている。だから、これまで以上に自分で判断しないよう注意しないと痛い目に合う。

「あとは何かありますか?」

「ええ、顔面神経麻痺についてです」

「症状に、変わりはありますか?」

「いえ、これまでと変わらず、良くも悪くもなっていないと思います」

「わかりました」

2022年2月 経過観察時のMRI画像
2022年2月 経過観察時のMRI画像

正直に言うと、一部は若干悪化傾向なのかもしれない。ただ、それを先生に事細かく報告することは、これまでの繰り返しのようなものだと思った僕。

だから、今回は「やんわり」と報告するに留めることにした。

ま~これに関しては、(これも何度か書いてきたけど)何としてでも治してみせると意地を張るよりも、うまく対応して共に生きていくような姿勢で向き合った方がいいだろうな…

「それでは、また次回受診しますのでよろしくお願いします」

2022年5月 経過観察時のMRI画像
2022年5月 経過観察時のMRI画像

そう言って診察室を出た僕は、頭の中にいろんなことがモクモクと湧いてくるのに気が付いた。

それは、「今後も敵との戦い?は続くから気を緩めちゃダメだぞ!」っていう「神からのお告げ?」もだけど、(僕の都合が良い捉え方になりますが…)これまで先生と共に歩んできた道のり…

始めて先生とお会いした当時は、スポーツに打ち込んで真っ黒に日焼けしていた僕。卓球で国体選手でもあった先生だから、そんな僕と馬が合ったのかな~

学生時代に受けた開頭手術直後の病棟回診時、観察室へ入ってきた大勢の医療スタッフの後ろのほうで、(手術は成功したから、あとは君次第だよ!)と言わんばかり、白衣でビシっと決めてハツラツとした表情で僕を見つめてくださった先生…

術後2~3週間後の病棟回診時、未だベッドから起き上がれない状態の僕を見て「おかしいな~」と言われながら一緒に廊下を歩いて、「やっぱり大丈夫!もう歩いていいから、どんどん歩いてね!」と励ましてくださった先生…

無菌状態の部屋にいた(隔離?)時期は、よく病室のドア越しに顔を見せてくださった先生…

免許を取得して初めて病院まで運転していったときは、駐車場まで見にきてくださった先生…

20代前半だったか…外来受診時に「先生、今日が最後でいいですか?(定期受診は終わりにして何かあったときだけ来ればいいか?)」と聞いたとき、「この病気は簡単ではないから…私とは今後一生の付き合いになると思ってください」と、真顔で言ってくださった先生…

(すでにプロ車いすマンになっていて入院した)ある病棟回診時、入院したことで落ちごみ気味の僕を見て、「彼は車いすマラソンで活躍する有名人で多くの人が期待しているから、早く良くなって退院してまた元気に活動してほしいですね!」と、(もちろん活躍などしていないし、有名でもなく期待もされていなかった)大勢の医療スタッフに宣伝するかのように励ましてくださった先生…

一時なぜか脚光を浴びてしまい、精神的にナーバスになっていた時は、「あなたは聖人君子ではないのだから、人の模範になるような生き方をしなければならないわけではないし、人の目を気にしすぎて発言や行動を(すごい人って感じに?)作る・演じる必要などありません。自分らしくあればいいのです」と言ってくださった先生…

初めて髄芽腫が播種したことを告げられ涙を流し診察室を出ていった僕に、「あなたは私の息子です、全身全霊で守ってみせます」というようなメッセージをくださった先生…

医療には関係のないような話(仕事や日常生活・人間関係や家庭の問題など)にも、嫌な顔一つ見せず相談に乗ってくださった先生…

今の僕があるのは、そんな先生と出会い、人として成長できた(救われた)ところが大きい

先生と出会えたから、ここまでこれた!
先生と出会えたから、ここまでこれた!

あれから25年以上の月日が流れ…

まだ学生だった僕が、当時の先生と同じくらいの年齢になった。

そんな今の僕が、当時の先生みたいに誰かを救えるのかと言えば…恥ずかしながら自分自身も救えないような状態で…まさに高嶺の花。ただ、今後も逃げることなく真正面から現実と向き合っていくつもり!

正直それは怖く不安であるけれど、今の僕ならきっとできると思う。なぜなら、今の僕は「ただのヨワヨワマン」ではないのだから…

幸運にも学生時代に体を壊したことで、先生をはじめ多くの方に出会い支えられて、健常であればおそらく体験できないことを、たくさんしてくることができた…

そうそう…

ベースがヨワヨワマンだけど、今の僕は「プロ車いすマン」!

だからできる…

それを胸に、強くあれるはず…

強い意志を持ち続け、今と向き合えるはず…

それは、誰もが簡単にできることではないのかもしれないけれど…

僕にはあの言葉もある!負けそうになったら、いつも背中を押してくれる…

だから…

今の僕なら…現状を乗り越えていける!

僕は、これからもこれまで通り!

周りを気にしすぎず・流されず、笑顔を絶やさず明るく元気で…後ろは振り返らずに前を向いて…

それは、これまで出会った様々な障がいのある人や、支えてくれた方、力をくれる言葉に対する感謝の形にも繋がるはず!

そして、もしかしたら…その姿が誰かの力になれるのかもしれない!

よし!

これからも頑張るぞ~!

ー 「僕と脳内嚢胞」 おしまい ー


🎯病歴(脳内嚢胞)

病歴については、本作終了時点以降に進展があった場合、続編を作成できなかったとしても更新していきます。

・2000年(平成12年) 23歳 9月ごろ
「永富脳神経外科病院」 入院
外来受診播種した髄芽腫に対して、ガンマナイフ治療を受ける

・2006年(平成18年) 29歳 9月ごろ
「西別府病院 脳神経外科」 外来受診
定期受診時のMRI検査時に嚢胞らしきものが現れる

・2015年(平成18年) 29歳 7月ごろ
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 日帰り入院
メチオニンでのPET検査を受ける

・2016年8月ごろ
「西別府病院 脳神経外科」 外来受診
MRI検査から、嚢胞構造が悪化傾向のため大学病院へ紹介される

・2016年(平成28年)39歳 9月ごろ
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 外来受診
籾井先生の外来を初めて受診。今後も経過を診ていくことが決まる

・2019年(令和1年) 42歳 5月ごろ
「西別府病院 脳神経外科」 外来受診
MRI検査から、嚢胞構造が悪化傾向のため大学病院へ紹介される

・2019年(令和1年) 42歳 6月ごろ
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 外来受診
籾井先生の外来を受診。大きさなどから手術は適応外と言われる(ただし、このまま大きくなればいずれその必要性が出てくるかも・その時手術を受けるかを決めるのは僕次第と)

・2020年(令和2年) 43歳 4月ごろ
「西別府病院 脳神経外科」 外来受診
MRI検査から、嚢胞構造が悪化傾向のため大学病院へ紹介される

・2020年(令和2年) 43歳 5月ごろ
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 外来受診
籾井先生の外来を受診。大きさなどから手術は適応外と言われる(ただし、このまま大きくなればいずれその必要性が出てくるかも・その時手術を受けるかを決めるのは僕次第と)

・2020年(令和2年) 43歳 6月ごろ
「大分先端医療センター」 外来受診
FDGでのPET検査を受ける

・2021年(令和3年) 44歳 4月ごろ
「西別府病院 脳神経外科」 外来受診
MRI検査から、嚢胞構造が悪化傾向のため大学病院へ紹介される

・2021年(令和3年) 44歳 5月ごろ
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 外来受診
籾井先生の外来を受診。嚢胞構造が拡大傾向なので、今すぐ手術は必要ないが、やんわりと手術を進められる(ただし、手術を受けるかを決めるのは僕次第とも)
 

・2021年(令和3年) 44歳 10月ごろ
「西別府病院 脳神経外科」 外来受診
MRI検査から、嚢胞構造が悪化傾向のため大学病院へ紹介される

・2021年(令和3年) 44歳 11月ごろ
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 外来受診
籾井先生の外来を受診。年内の手術が決まる

・2021年(令和3年) 44歳 12月21日
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 入院
24日に、前頭葉左側に出来た嚢胞構造に対して開頭での解放手術を受ける(退院は1月7日)

・2022年(令和4年) 45歳 2月10日
「大分大学医学部附属病院 脳神経外科」 外来受診
籾井先生の外来を受診。今後のフォローは西別府病院でと言われる

2022年(令和4年)5月下旬 45歳
「西別府病院 脳神経外科」 外来受診
手術創4か所に出来た瘡蓋は剥がれて綺麗になり、取れてしまったナイロン糸痕も綺麗に塞がった

※その後は、西別府病院や大学病院でMRI検査を定期的に受けており経過は順調である



僕が書くすべての記事(手紙)は、長い時間かけて継続して書いてきた記録や、そうでなかれば得られないであろう考え方や貴重な体験を基にしています。いただいたサポートは、その評価だと捉えさせていただき、それを糧に今後も多くの記事を書いていきますので、どうかよろしくお願いします。