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心情に関する意見陳述

およそ1年前、この陳述書をフリーになって初めての確定申告シーズンのなか書き上げた。
昨年の3月14日、法廷で加害者の正面に立ち陳述を読み上げた。
後に分かった事だが、加害者はこの陳述内容を一切聞いてなかった。
だから、もちろん内容も理解していなかった。

令和4年3月14日。2年前の全く同じ日に自分が起こしてしまった事。
その事に目を伏せるだけで、脳みそを何も使っていなかった。
魯鈍であると言う事はある意味、無敵だと言う事だろう。


心情に関する意見陳述

 

                 令和4年3月14日

                 被害者参加人 波多野暁生

 

1 長女の耀子について

  私達夫婦にとって、この世で最も大切に思い、愛していたのが、一人娘の耀子でした。耀子も私達両親の事をとても愛してくれていたと思います。

  耀子は幼い頃から、のんびり屋でマイペースな子でしたが、「継続は力なり」を地でいく子で、何事にも根気強く取り組む子でした。

  水泳、ピアノ、お囃子、英語と色々な習い事をしました。どれも出来る様になるまでには時間がかかりましたが、出来る様になるまで、諦めることを嫌う子でした。

  その、ひた向きな姿と、持ち前のマイペース屋さんからくるほんわかした様子が相まってか、習い事の先生方にもとても可愛がっていただきました。親の欲目かもしれませんが、多くの人から愛されるキャラクターを持った子でした。

  小学校3年生から中学受験のための塾に通い始め、夜の8時又は9時まで塾で勉強をしていました。当初は慣れるまでに少し時間がかかりましたが、習い事で培ってきた継続する力を発揮して、徐々に学力を付けていきました。その甲斐あって塾でも最上位のクラスに所属していました。私に似て国語が得意だったので、やっぱり親子なのだなと嬉しく思った事をよく覚えています。小学5年生になってからは受験勉強を楽しみにするまでに成長し、志望校を決めるために色々な学校の見学会にも行きました。見学の際は在校生から声をかけられると照れくさそうにしていましたが、後でこっそり、「この学校は気に入った」とか「この学校はイマイチだった」などと感想を教えてくれて、志望校を真剣に考えている姿に大きな成長を感じ、微笑ましく思いました。

  耀子の部屋には、勉強のメモや私達両親が作った勉強のスケジュール表などが至る所に貼ってありました。正にこれから6年生になって、いよいよ受験勉強本番となる矢先に、今回の事件に遭いました。

 

2 事件当日の事

  事件当日は19時から私の美容室の予約が入っていました。当初は耀子を連れて行く予定はありませんでしたが、丁度、妻が外出しており、耀子を一人で留守番にさせておくのも可哀そうに思い、「美容室についてくるか?」と聞くと、彼女は「ついてくる」と言いました。

  私は、耀子と2人で近所のスーパーに出かけたり、ちょっとした散歩がてらの外出をするのが、プチデートの様で楽しみでした。ですから、その日の美容室もそんな気持ちで一緒に出掛ける事にしました。

  この時に、一緒に連れて行かずにおけば、耀子は事件に巻き込まれなかったのだと、今は悔やんでも悔やみきれない思いです。

  美容室に着くと耀子は持ってきたゲーム機でゲームをしながら、私を待っていました。私の前の予約のお客さんの立ち話が長引いて、19時からの予約でしたが、私が髪を切り始めたのは19時15分くらいでした。それでも、耀子は大人しく待ちながら、時々妻とメールで状況報告のやり取りをしている様でした。

美容室の鏡越しに耀子の様子を見ていましたが、お店の方に話しかけられて世間話をする様子などは、もはや幼児ではなく、しっかりとした少女になっていました。馴染みがない大人ともにこやかに話せるようになり、随分と成長したものだなと、思ったのを覚えています。

  美容室は予定より遅くに終わり、20時30分頃に店を出発しました。どこかで妻も合流して外食でもしようかと言う話にもなりましたが、耀子と妻は携帯電話のメールで連絡を取り合っており、妻が家で夕食を用意して待っているとの事だったので、家に帰る事にしました。

  その日はホワイトデーだったので、まだお返しを渡していなかった私は、帰りにコンビニで何でも好きなものを買ってあげようかなどと、呑気に考えながら、耀子と他愛もない会話をし、歩いて家に向かいました。雨は降っていなかったと思います。

  あともう少しで家に着く場所にある、事件現場の四つ木5丁目交差点に差し掛かりました。歩行者の信号は赤だったので、青に変わるのを2人で待ちました。

  水戸街道は車が結構な速度を出して走っていました。金町方面から向島方面への上り車線を走る車が、信号待ちをしている私達からみて右から左へと走り抜けるので、私は敢えて、私の体が盾になる様に耀子の右側に立って信号が青になるのを待ちました。後でこの事が耀子を左側からの車の衝突から守る上で仇になるとは、この時は思いもしませんでした。

  程なくして、信号は青に変わりました。しかし私は耀子に「まだ渡るな」と言いました。向島方面から金町方面への下り車線を暴走族風のバイクが信号を無視してわざとエンジン音を唸らせながら低速で横断歩道を横切って行ったのです。私達はそのバイクが走り去るのを待ち、横断歩道から離れて行ったのを確認して、耀子に「どうしようもない奴らだな、渡ろう」と一言言ってから、青になった横断歩道を渡り始めました。それが、耀子と私との最後の会話になりました。

  耀子は私と並んで、私の左側を歩いていました。横断歩道中ほどの中央分離帯を越えたあたりで、私は我々の右側を走り抜けて、同じく横断歩道を渡る自転車を目視しました。

  そこで、私の記憶はぷつりと飛んでいます。気が付いた時は、救急車に乗せられているらしい事が分かりました。車に轢かれた衝撃で気を失ったようで、轢かれた瞬間の事は全く覚えていません。

  訳が分からなかった私は、何か言葉を発しようとしたと思いますが、会話をする力がありませんでした。救急隊員が大声で「車に轢かれたんだ」と叫ぶようにして教えてくれました。私は状況がよく呑み込めませんでしたが、何とか力を振り絞って、「娘は?」と救急隊員に尋ねました。救急隊員は「別の救急車で運ばれている。それ以上の状況はわからない」と言いました。そして、サイレンを鳴らしながら激しく揺れる救急車の中で、私は酸素マスクをつけられ、自力では全く体を動かす事が出来ず、左足に激痛を感じながら意識が途切れ途切れになっていきました。

  次に覚えているのは、病院らしきところで、強いライトの下で沢山の医者に囲まれている光景でした。私は「娘は?」と聞きました。医者は、「娘さんの状況は分からない。手術する事を了解して欲しい」と言いました。意識が朦朧とするなか、耀子はきっと別の病院で処置を受けているのだ、多分軽傷だろうと思い、医者に手術を了解する旨を伝えました。この時私は、なぜ車に轢かれたのか全く見当もつきませんでした。このまま自分は死ぬのかもしれないと思いました。麻酔をされて、また記憶はそこでぷつりと飛びました。

  

3 耀子との対面

  次に気が付いた時には、私は集中治療室にいました。恐らく事件当日の2日後だったと思います。体は相変わらず殆ど動かず、意識も朦朧としていました。左足には手術した形跡がありましたが、足の感覚はありませんでした。

  徐々に意識がはっきりとしてくる中、病院の看護師や医者に耀子の事を聞いても、みな一様に、娘さんは別の病院に運ばれていて状況は分からないと言いました。

  病室には妻と私の両親も来ていました。妻に耀子の様子を聞きましたが、妻は苦しそうに口籠るだけで何も言いませんでした。私は何か皆が隠していると思い、父に「耀子はどうした」と聞きました。すると、父から「耀ちゃんはダメだったよ」と伝えられました。

  にわかには信じられませんでした。あの耀子が死んでしまった?なんで?

  状況が理解できず混乱した私は、妻を呼びました。妻も当然取り乱していて「一緒に私達も耀子の後を追おう」と涙ながらに言いました。何を馬鹿な事を言っているんだと思いましたが、憔悴しきっている妻にかける言葉は見つかりませんでした。

  その瞬間を境に、私の人生は終わったも同然になりました。

  耀子の死を伝えられても、私は依然としてその事が信じられませんでした。なぜこんな事になってしまったのか?その事ばかりを頭の中でグルグルと考えていました。

  その後、病院の計らいで耀子の遺体を、墨東病院から私が入院している日本医科大学付属病院に移送してもらい、私が耀子と対面する機会を作ってもらいました。

  耀子の遺体が安置されている場所に車いすで行きました。そして、横たわる耀子を見た瞬間私は、「ごめんな耀子」と声をあげてしまいました。余りのショックに号泣する事も出来ませんでした。耀子の体は信じられないほど冷たく、硬くなっていました。大事な大事な一人娘がこんな事になるなんて、私は冷たい耀子の体を撫でながら、二度と元気な耀子に会う事が出来なくなってしまった事に、底知れぬ絶望を感じました。

  耀子との対面を終え病室に戻ると、医師から今後の事について説明がありました。出来る限りの事はするが、今の容態では通夜と葬儀に参列するのは難しいという説明でした。私は、参列しない事はあり得ないと伝え、何とか葬儀だけは参列する事を許してもらいました。

  葬儀の前日、病室で喪主の挨拶を考え、メモにしたためました。

  車椅子で介護タクシーに乗って、葬儀場に着くと、耀子は棺の中にいました。私は改めて耀子の冷たく硬い体に触れ、号泣しました。棺の中で花に埋もれるわが子の姿を見て、一体これは何なのだ、なぜこんな光景を目にしなくてはいけないのかと、悲しみと怒りと絶望が入り混じった気持ちになりました。

  葬儀には300人を超す方々が参列してくださいました。

 

4 事件後の事

  葬儀を終えた翌週に、病室に警察の方が来ました。私は、明らかに青信号を横断していたのに、こんな事になるのは全く意味が分からないと話しました。警察の方は、加害者の車が赤信号を無視していて、我々に全く落ち度はない、極めて悪質な事件だと言っていました。後々聞いた話では、耀子は車と私の体に挟まれる形になってしまったため、ダメージが大きかったそうです。私はそれを聞いて、何故、耀子を救う事が出来なかったのか、私と耀子が左右逆に並んでいれば耀子は助かったかもしれないと思いました。今でもそれが苦しくて仕方がありません。

  令和2年4月10日に退院しました。自宅に戻り、耀子の部屋で、彼女がもうこの世にいない事を改めて突き付けられ号泣しました。

  それからは、地獄の様な日々でした。何故こんな事に巻き込まれてしまったのか、何故、耀子は死んでしまったのか、毎日、毎日、考えても考えても、救いは無く、また今日も耀子が居ない1日が始まるのかと苦しくなるばかりでした。

  当時、唯一の外出はリハビリでした。松葉杖での歩行訓練のために自宅近くの整形外科に通いました。病院では、耀子と同じ年頃の女の子がリハビリに励む姿を目にする機会がありました。耀子も骨折程度で済めばせめてもの救いだったのに、なぜ死んでしまうほどの事件に巻き込まれたのかと、ここでも苦しくて堪らなくなりました。

  リハビリを続け、松葉杖から杖1本で歩けるようになったので、6月から仕事に復帰しました。復帰後は、事件で暗転してしまった自分の人生と、今まで通り何も変わることなく回っていく職場との落差に大変苦しみました。同僚の変わらぬ日常の話題や、お子さんのイベントの話が耳に入ってくる度に涙が溢れ、トイレなどでこっそり泣きました。それでも、顧客の前では何事もなかったかのように笑顔で話さなくてはなりませんでした。

  そんな毎日を過ごす中で、明らかに精神的に異常をきたしていると感じたので、被害者支援都民センターのカウンセリングの際に相談すると、重い抑うつ状態にあると思われるので直ちに精神科へ行くように薦められ、紹介状を書いてもらいました。心療内科での診断は抑うつとPTSDでした。私は、睡眠導入剤や抗うつ剤を服用しながら何とか仕事を続けましたが、その年の年末頃から限界を感じ、令和3年4月末で会社を退職しました。本当に人生が滅茶苦茶になりました。

 

5 加害者に対して

  加害者からは事件から2ヶ月近く経っても謝罪の連絡等も一切ありませんでした。信号無視をして、耀子を轢き殺し、私に重傷を負わせながら、何の謝罪もしてこない加害者と、その家族はまともな人間ではないと思いました。

  加害者側の保険会社の担当は加害者と連絡をとっていたので、一体どんな様子で、どの様に事件を捉えているのかと聞いてみました。すると、連絡の窓口は加害者の息子であること、その息子は加害者が「人が出てくるのが見えなかったみたいだ」と、さも、やむを得ない事故であったかの様な発言をしている事を教えてくれました。

  私は、はらわたが煮えくり返る思いでした。加害者は赤信号を無視して、時速57キロで横断歩道を渡る我々に突っ込んで来ています。それを、人が出てくるのが見えなかったとは何をふざけた事を言っているのだと思いました。私は身長が190センチあります。見えなかったのではなくて、見ていなかったのだとあきれ返る思いでした。しかも、保険会社とのやり取りも息子任せにし、当事者意識が全く無いのだなと思いました。

  私は前任の弁護士に、令和2年4月30日、こんなふざけた話は無いと思うと伝え、5月8日に加害者の代理人弁護士宛に抗議書面を発送してもらいました。すると、6月2日にようやく加害者の謝罪文が前任弁護士に届きました。メールで時系列を確認したので間違いありません。謝罪文は手本を書き写したかのような内容で、何が何でも誠心誠意謝罪したいという気持ちは全く感じられませんでした。これを最後に、加害者から我々には何の接触もありませんでした。結局、加害者は自分が起こした取り返しのつかない事の重大さを全く理解しておらず、心から謝罪する気持ちが微塵も無いのだと思っています。加害者は公判で、自分から謝罪文を出したのだと主張していましたが、私たちが前任の弁護士に頼んで抗議した流れからすると、私たちの求めに応じただけであることは明らかで、自分に都合が悪い部分は忘れているか、嘘をついているのだと思います。

  私も事件の現場交差点を何度も運転して通った事がありますが、あれだけ大きな交差点で、赤信号を無視して、横断中の歩行者を全く意に介さずにアクセルを踏み続けるなどと言う運転はあり得ません。ましてや、加害者はあの交差点を40年も前から通り馴れている職業ドライバーです。魔が差したなどとふざけた事を言っているようですが、加害者の信号無視は無差別殺人に匹敵する行為で、絶対に許せません。

 今回の裁判で初めて加害者を目にしましたが、その姿は想像とは異なりました。事故当時の写真とは別人に様にでっぷりと太っており、裁判初日も2日目も一切、私と妻の方は見ませんでした。

当初、裁判は昨年の11月に予定されていました。しかし、事件発生から1年半近く経った10月になって、加害者が、赤信号を見た位置が実況見分当時の供述とは違うと、突然、言い分を変えました。1年半経って、突然記憶が蘇ったとでも言うのでしょうか?この不可思議な主張により、結局、裁判は今年の3月まで延期されました。

私は、加害者が10月になって裁判が近づき、自分の身がどうなるかと言う恐怖心から、この様な主張をしてきたのだと思いました。私たちは11月の裁判に向けて心の準備をしていましたので、加害者の身勝手な言動に怒り、呆れ、暴れたくなるような気持ちを無理やり抑えながら、今回の裁判まで心をつないできました。

今回の裁判初日、加害者は開口一番、「赤信号を見た位置が違います。」と言いました。いたずらがバレた子供が何とか言い逃れをするかの様に私の目には映りました。その後はまさに子供の様に、何を聞かれてもわかりません、覚えていませんの繰り返しでした。

 ルールを無視して、今回の様な重大な事態を招いた大人が、2年という時を経て法廷で絞り出した言葉が「わかりません」「覚えていません」「申し訳ないです」だけでした。どの様に反省し、どの様に我々被害者に責任をとるのか、何ら具体的な説明はできない男でした。

 一方で昨年の9月には弁護士を伴って、何の客観性もない自己流の実況見分もどきを行い、耀子を殺した現場で自らの逃げ口上を練る事には必死だったのです。事故を思い出すのが怖くて刑事事件の記録は見られないと言う一方で、自分の保身のためには耀子を殺した現場には行ける、その神経が理解できません。

 私は裁判初日から加害者の挙動をつぶさに観察していました。検察から提出された証拠をどの様に見るのかと思ったら、通りすがりに野球中継でも見ているかのような様子で、野次馬の様にモニターを見ていました。自分が起こしたことがモニターに映っているとは全く理解して居ない様子でした。

 その証拠に、私が被告人質問で、耀子の死因の図説を見てどう思ったか?と尋ねても、「聞いてませんでした。」と答えました。自分がしてしまった事とその結果にそもそも関心がなく、口では申し訳無いなどと言いながら、肝心なことは、怖い怖いと誤魔化して、向き合わない人間だと思いました。

 耀子は悔しがっている事でしょう。「パパ、このおじさん口でごめんなさいと言っているだけで、自分がどんなに悪いことをして、それでどうなったのか全然わかっていないから、反省もしていないし、謝ってもいないから、許しちゃだめだよ。耀子はこのおじさんのせいで未来を全部消されてしまったんだよ。納得できるわけがないよ。」きっとこの様に言う事でしょう。

 では、加害者の家族は彼を監督する事が出来るのでしょうか?加害者の裁判初日の態度を見て、推して知るべしと思いましたが、案の定、情状証人に来た息子は、「謝り方が分からなかった」「遺族がどう感じるかまでは考えていなかった」などと、我々遺族の感情を逆撫でる様な事ばかりを言いました。そして、証言を終えるとそそくさと帰ってしまいました。この様な人達に監督責任が果たせるかどうかは、もはや私が言うまでも無いことだと思います。

 

6 裁判官と裁判員の皆さまへのお願い

  私達親子は慎重に青信号を横断していただけで何の落ち度もありません。

  娘の耀子は、6年生に進級する事を楽しみに、中学受験に向けて正に本腰を入れようとしている真っ最中でした。

  「大学生になったらピアスをしてもいい?」

「テレビが大好きだから将来はテレビ関係の仕事をしてみたいな」

  「なるべく早く結婚して、子供は4人ぐらい産みたいな」

  そんな事をよく話していました。様々な可能性を持った未来が沢山ある娘でした。私達夫婦にとって、ただ一人の子供であり、両祖父母にとってもただ一人の孫でした。そんな大事な娘が、このように理不尽な形で大切な命を奪われました。

  初公判の前日、妻が検察官との打ち合わせで不在の時に、私一人で過去に撮った耀子のビデオを見ました。

  事件以来、耀子が映ったビデオをきちんと見るのは初めてでした。それまでは、辛すぎて映像を見ることが難しかったのです。しかし、裁判に臨むにあたって、きちんと耀子の動く姿と声を目と耳に焼き付けなくてはいけないと思い、意を決して見ました。動く耀子の姿を目にし、声を耳にして、ただただ、失ったものの大きさに、一人で震えながら大声で泣きました。

  この苦しみと悲しみが、少しでも加害者にわかるだろうか。微かな希望を抱いていましたが、分かるはずがない人間でした。すいません、すいませんと言って、見ざる聞かざるを決め込んでいます。

  加害者は事件から今日に至るまで、自発的な謝罪は何もせず、事件から20日後に釈放されて以後は何の制約も受けずに普段通りに暮らしてきた事がその姿や言動でわかりました。

  万が一、裁判での一連の加害者の挙動を、反省している、謝罪している等と認定され、刑が軽くなるような事があったら、悔しくて、この先、我々は生きていくことができません。

  自分が起こした事故や我々遺族の事が恐ろしくても、自らの罪に向き合い、誠心誠意の謝罪をするのが真っ当な人間だと思いますが、加害者は1ミリたりともその様な姿勢を見せていません。このような人間に情状酌量の余地は全くないと思います。

  当たり前ですが、耀子は生きたかったと思います。本当に悔しがっていると思います。一番怖かったのは耀子です。青信号を守っていたのに、赤信号無視の大きな車に時速57キロで衝突され、どれほど怖かったか、痛かったか。それを、70歳近い加害者が「怖い」と言って向き合おうともしないことに、底知れない絶望を感じます。

  加害者の愚かな運転により、命を奪われた娘の無念さ、苦しさ、そして我々遺族の悲しみと絶望をご想像頂き、今後、この様な事件を再発させてはならない、という予防的な意味も込めて、過去の判例や量刑相場に捕らわれることなく、現行法上の最大限の刑罰、すなわち懲役20年に処して頂きます様にお願いいたします。

以上

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