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はじめに

照明のデザインに真剣に向き合ったのは、皇居周辺道路景観整備事業の委員会が初めてだった。それまでに、いくつかの橋のデザインに関わっていたものの、橋上の照明や高欄のデザインはコンサルタントの担当者任せだった。何回目の委員会であったのかは憶えていないが、車道用と歩道用の照明柱の案が手書きのスケッチでA3の用紙の上に載っていた。説明に立った男はやたらに背の高い男で、各三案それぞれの特徴をボソボソと喋った。説明が終っても誰も何も言わなかった。その空気に堪り兼ねた司会者は、「どうですか」と幹事長である僕に発言を促した。どうと言われても、照明のデザインに真剣に向き合った事のない僕に客観的な判断が下せる訳もなかった。どの案にしても、今までに見てきた照明柱に比べれば抜群に洒落ているように見えた。「どの案でもいけると思います」。僕は正直にそう言った。これが南雲勝志との出会いだった。ただしそのデザイナーの名前を知ったのは後日の事である。
本格的に付き合い出したのは、本文にもあるように浦安の境川である。ある日のこと、広場や護岸のデザインを担当していた小野寺康と、施工中の現場を見にいった。中程の橋の袂に至ると、幼児の頭を洗う時に使う「シャンプーハット」のような照明柱が目に飛び込んで来た。「これ何?」と聞くと、「僕のデザインです」と小野寺君が言う。後で分かったのだが、当時はどうもデンマーク流のデザインに凝っていたらしい。どう考えても下町的な境川の風景には合わない。「南雲君にやってもらおうよ」。こうして境川の照明と転落防止柵は南雲の担当となった。そして、ここから延々と続く事になる「ONコンビ」たる小野寺、南雲のコラボレーションがスタートしたのだった。
以降近年の行幸通りに至るまで、南雲との付き合いは長い。僕がなんらかのプロジェクトに引っ張り出されると、最後の仕上げである最も人に近い照明やベンチ、サイン、シェルター、柵、ボラードのデザインに他の人間を充てる気にならないからである。それ程、南雲のデザインは突出しているのだ。しかしある時、もう大分前の事になるが、南雲のデザインは南雲一人でやっているわけではない事に気づかされる。当たりまえの事だ。南雲がいかに良いアイデアを出したところで、それを実現にまで持っていく、実力のある構造設計と製作の部隊が不可欠なのである。それがヨシモトポールだった。ヨシモトポールは、本文にもあるように、成否の定かではないデザインポールの開発に果敢に挑戦したのだった。冒険とも思えるこの試みを、当時の業界がどのように見ていたのかは知らない。そして南雲がヨシモトポールではなく、他のメーカーと組んでいたなら、今頃どうなっていたのだろうかと時々想う事がある。
車などの工業製品や、建築の世界ではデザイン(意匠)の人間の名前ばかりが、世に喧伝される。そのデザインを実現にまで持っていく製作部隊はいつも裏方である。名は出ない。突出した南雲のデザインを可能にしたヨシモトポールとその協力者達の、時に無茶とも言える南雲の要求を受け止めて苦闘したエンジニア、営業マンの仕事を記録として残しておく。これは南雲やヨシモトポールグループと付き合いの深い僕の責務だろうと考えた。そして、その記録はヨシモトポールの若手のみならず、広く照明柱やシェルターの仕事に関わる人間にも貴重なヒントとなるはずである。
記録を残し、後世に伝えようという僕の発案はヨシモトポールの幹部の承認を得て、めでたくここに実現する事となった。会議に参加してくれた諸兄に感謝するとともに、編集に携わった鈴木幸男、北村仁司、丸山浩二の諸氏にお礼を申し上げる。

                          平成26年5月吉日
                             篠原  修


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