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鶴見俊輔についてのメモ

鶴見俊輔というと、大衆を持ち上げて大衆の行いは全て良いというような評価があるようにも思われるが(早くは粕谷一希なんかもよく似た議論を行なっている)、しかし、鶴見の著作を少し注意深く読んでいけばそうではないことは明らかだ。

60年代の吉本隆明の大衆をめぐる論争を取り上げてみると、吉本は大衆の原像と言いながら実感として大衆を捉えている。鶴見はむしろそれをカテゴリーとして考えているところがある。穿った見方だと、鶴見はアメリカでプラグマティズムから分析哲学にも触れていたのではないかと思われる。

この論争で鶴見を擁護した高畠通敏は、大衆という役割を機能として捉えているし(高畠はダールの元で研究していたのでアメリカ社会科学に触れているはず)、小田実はサルトル流の世界認識から吉本を批判していた、というようなことを博士論文の一部で書いて、この研究姿勢は学生の頃からずっと考えていたが具体的には書けなかったことだった。社会学者としての鶴見俊輔についても、同志社大学社会学科の教授であったということも含めて改めて考えていきたいところ。

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