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毎日クロスワード。5月7日,今日は何の日?デイヴィッド・ヒュームの生まれた日!

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概要 このページでは「今日は何の日?」にちなんだクロスワードパズルを毎日提供しています。昔のことを思い出し,それを題材に周りのひとと会話するきっかけづくりにお使いください。毎日提供!(たぶん)

クロスワードにチャレンジ!

今日は何の日(ヒント)

5月7日は,デイヴィッド・ヒュームの生まれた日です。

ヒュームはスコットランドの哲学者です。ヒュームの考え方はとても興味深いものです。

一般的な科学では因果(いんが)関係というものを想定して実験や議論をしています。自然のなかや私たちの社会にはさまざまなな因果関係があって,それを探るのがいわゆる科学だったり社会科学だったりすると私たちは考えており,因果関係という関係もやはり「ある」と想定してい私たちは考えています。

しかし,ヒュームはそのような因果関係は人間が作り出したものだと考えています。A -> B という因果関係があると人間が考えているとします。たしかに A は起きたでしょう。そして,A が起きたあとに B が起きることが多いかもしれない。ただ,ここで言えることは,A が起き,B が起きたということだけであり,A が起きるならば,B も起きるなければいけないと考えるのは,私たち人間がそう思っているだけだとヒュームはいいます。私たちが考えている因果関係というものは蓋然性を基礎とした経験的なものであって,別にそういうものが私たち人間と関係なく存在するわけではないということだと思います。

ヒュームのおもしろいところは,私たちのしていることの基本になにか理知的で先験的な何かがあるわけでなく,ただただ私たちの経験,感覚からの印象から作られていると主張しているところです。

またヒュームは倫理(りんり)についても面白いことを言っています。私たちの感覚では倫理は理性により導かれるように思いますが,ヒュームは倫理は感情から導かれると言っています。よい悪いの判断が感情にあるというわけです。

ヒュームのこのような考えは,主流とは言えない期間がありましたが,心理学でいえば,20世紀の終わり頃からは同様の考え方をする人たちも出てきました。

トロリー課題という思考実験のための問題があります。この問題は,多数者を救うために少数者を犠牲にするのは許されるかを問うものです。図1をみながら,下の問題文を読んで最後の問いに答えてみてください。

図1. トロッコ問題

今,暴走する電車のまえに5人の作業員がいます。このままでは5人は電車に轢き殺されてしまいます。太郎さんは電車の進路を切り替える分岐器のそばにたっています。太郎さんが分岐器を操作すれば,電車の進路は変わり5人の命は救われます。しかし,進路を変えた先には別の1人の作業員がいます。太郎さんは分岐器を操作しました。太郎さんの判断は正しいですか,それとも間違っていますか。

トロリー問題

このように尋ねられたとき,大半のひとは太郎さんの判断を「正しい」とします。多数者を救うために少数者を犠牲にすることは正しいと判断するわけです。これを功利主義的判断といいます。頭で考えて判断しているわけです。

では別のファットマン課題をみてみましょう。図2をみながら,下の問題文を読んで最後の問いに答えてみてください。

図2. ファットマン課題

今,暴走する電車のまえに5人の作業員がいます。このままでは5人は電車に轢き殺されてしまいます。太郎さんは線路をまたぐ陸橋のうえにいます。隣には太った男がいます。太郎さんが太った男を線路上に突き落とせば,電車はとまり5人の命は救われます。しかし,月とされた太った男は死んでしまいます。太郎さんは太った男をつきおとして電車をとめました。太郎さんの判断は正しいですか,それとも間違っていますか。

ファットマン課題

この問いでは多くのひとが太郎さんの判断が「間違っている」といいます。しかし,このファットマン課題は先のトロッコ課題と課題構造はまったく同じです。多数者を救うために少数者を犠牲にしてよいのか。ファットマン課題では犠牲にしてはいけないという判断をします。このような判断を義務論的判断といいます。

なぜ判断が変わるのか。それは情動が大きな役割をしていると考えられています。ひとを突き落とすという行為はひとに非常な嫌悪感を引き起こします。この強い情動が義務論的判断とむすびつき,突き落とす行為を「間違っている」と判断します。一方,分岐器を操作するという行為には,突き落とすという行為に比べて,それほど大きな嫌悪感はありません。そのため,情動ではなく,理性的に思考し,結果,頭で考えた結果の功利主義的判断をすると説明されています。

20世紀まで心理学でも倫理は理知的に構成されるものだと考えられていました。しかし,現在では,いや,まてよ,情動によって規定されることがけっこうあるぞというふうになりました。

わたしたちのしていること考えていること,判断していることに何か理性的なきちんとした理由や先験的ななにか法則的なものがあるわけではなく,情動や習慣といった,全く理性的でないものによって基礎付けられているのではないか?

ヒューム的な考えが正しいのでしょう。ところで,ヒューム的な考えが正しいとすると,自由(じゆう)はあるのか,人間の自由意志というものがあるのかないのかという議論に結論がつくように思います。それについてまた別に記事で書けたらいいなと思っています。


5月6日の答え

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