NYに引っ越した話#4

同居人のカップルの彼氏の方と私が家にいて、私は起きたばかりだった午後3時頃に地震が起こった。古いマンションのだったので、今までに体験したことないほどの大きい揺れがかなり長く続き、普段お世辞にも頼り甲斐があるとは言えない彼だったが、その時ばかりは、私に外に出るようにと促してくれた。3階の部屋から下に降りている間にさらに揺れが大きくなり、恐怖を感じ足がもつれた。かなり長い間揺れていて、マンションを出た後もまだ揺れていて、電柱が大きく揺れていた光景は目に焼き付いている。

その後すぐ彼女も仕事を切り上げ帰って来た。彼女は仙台出身で、地震直後の電話が一回あった以降、ご家族と連絡が取れなくなっていた。もちろん皆心配はしていたが、まだ何となく楽観的な空気だったが、原発事故があり、津波の衝撃的な映像をニュースで見て、皆ただ事ではないと気づき始めた。

電車が動いていない状況だったので、渋谷から徒歩圏内の私たちの部屋にその日は何人か泊りに来た。ニュースをつけながら、狭い部屋で雑魚寝で過ごした。

次の日、皆各々に帰ったいき、その後どんどんと街が閉まっていき、テレビは放射能に関するニュースばかりになり、皆マスクをして出歩くようになった。私たちもそれと並行して危機感が増長していき、友人のご家族の情報を新聞やツイッター、ラジオなどで必死で探した。

結局、ご家族から再度連絡が来たのは、地震から5日後くらいだったと思う。友人にとっては本当に辛い5日間だったと思う。私たちも泣きじゃくり、日に日に憔悴していく友人を励ましながらも、正直最悪の事も想像していた。どんどんふさぎ込んでいく友人と狭いアパートでクラスのは辛かったし、自分達にしてあげられる事がなく、歯がゆい思いをしていた。やっと連絡が来た時は本当に本当にほっとした。連絡が取れてすぐに深夜バスで仙台に物資を持って帰省して行った。ご家族は間一髪で車で逃げられたが、電話が全く通じず、連絡ができなかったそう。電話よりインターネットの方が頼りになるかもと思い、この後すぐ私は母のツイッターのアカウントを作った。

それから1週間ほど経ち、色々少し落ち着いた頃、ゴーストタウンのようになった新宿の夜の深夜バスに友人に見送られ実家に一旦帰った。その後又2人の同棲生活になった後の数年後2人は別れてしまい、彼女は仙台に帰ったけれど、今でも彼らのことは家族の様な特別な感情を持っている。

実家に帰った後はNYに経つ最終的な準備をし、両親と時間を過ごした。


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