両立不可能論の論証について(1)

決定論(物理的決定論)と行為の自由とは矛盾するという考えは両立不可能論と呼ばれる。物理的決定論とは「自然法則全体の集合Lと、ある時点における世界の状態Sとが与えられれば、その後の世界の推移は一意的に決まる」というものだ。よって未来のある時点tにおけるこの世界の状態S'はすでに一意的に決まっていることになる。(LとSは変えられないと仮定している)
「自由」(行為の自由)をどのように定義するかは難しい。その定義の仕方そのものが、論点を先取りしがちだからだ。
両立不可能論に登場する他方の、我々が日常持っている否定しがたい「自由」の根拠には、代表的に2つがあるように思う。
一つは「別行為可能性」(現実に起こること[起こったこと]と別様に行為することもあり得る[あり得た])という概念、もう一つは「予言破りの自由」(告げられた予言と別様に行為することができる)というものだ。

この問題に対する私の予想を先に書いておこう:

「決定論と自由との両立不可能論で使われる議論は、トリビアルに論理的に正しいか、または、自己言及的パラドックスの一つに陥る」

というものだ。
まずは初めのものを説明しよう。
決定論が「未来の状態は一意的に決まる」と主張するのに対し、「別行為可能性」は、別様にも行為することが可能だ(可能だった)と主張する。「一意的」は他のあり方はないということだから、矛盾はほぼ明白に思われる。

簡潔な決定論の表現は次のようになるだろう。(ちなみに物理的決定論と宿命論は結果的に同じになる)

(1) ⃞(◇A→⃞A)

「<Aが起こることが可能なら、Aは必然的に起こる>は必然に真である」

(例えば「未来の時点tにおいて私が右手を挙げる」という事態を想像しよう)。可能世界意味論的に読むと「<Aが起こる可能世界がここから一つでも到達可能なら、ここから到達可能なすべての可能世界においてAは起こる>ということは常に正しい」というものだ。
これに対し「別行為可能性」は次のように表現できる。

(2) ◇(◇A&◇~A)

「<Aを行為することができる、と、Aを行為しないこともできる>は両立する」

可能世界意味論的に読むと「<ここから、Aが起こる可能世界の一つに到達できるということと、ここから、Aが起こらない(つまり非Aが起こる)可能世界の一つに到達できる>の両方が正しいことは可能である」

(1)と(2)は矛盾する。

証明:
 ⃞(◇A→⃞A)   (1)
 ◇(◇A&◇~A)  (2)
~⃞~(◇A&~⃞A) (2)、◇、⃞、~の関係より
~⃞(◇A→~~⃞A)    ~(P&Q) から P→~Q
~⃞(◇A→⃞A)   ~~除去。(1)と矛盾

つまり、「決定論」と「別行為可能性としての自由」は(トリビアルに)論理的に矛盾する。

(ひとまずここまで)

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