(再)誕プレは、現ナマで。

40になった。

「尿酸値」の話じゃなくてよかった。


んでは「体重」の話ならよかったのか。
否、流石に、マラソン選手でもないぐうたらな中年男性の体重がこの数値というのは、逆に何らかの重大な病気である可能性が高い。

よって、体重の話じゃなくてよかった。

年々微妙に下がり続けている「視力」の話ならよかったのに。

待てよ。そうとも言い切れない。
世の中には「見るべき美しいモノ」はたくさんあるが、その700倍くらい「見えなくていい汚らわしいモノ」もたくさんある。

2.4km先のちゃんねーのスカートが春風でめくれる様は4,300億画素でしっかりと鑑賞、海馬に記録すべきであるが、同時に、その隣にいるおっさんの突き出した鼻毛が風に揺られている様までも鮮明に視界に捉えてしまうかもしれない。

いやはや、何の数字であれ、素直には喜べない。

ともあれ、実際何の数字かというと、「年齢」の話である。

齢、よわい、40。
心も体もすこぶるよわい。
30代後半から感じてきてはきたが、20代のころとはまるで違う。
40になった今、如実に感じる。

先月の大腸カメラでは、検査中に「ああ~、キレイな腸ですね~、とてもキレイですよ~」とイケメンの若い男性医師に連呼され「うるせ」と思ったが、幸いにも異常なし。

が、先週ちょうど病院で「鼠経ヘルニア」の診断を食らったところだ。
体はどこかしら地味に常に調子が悪い。

芸人の「ヒロシ」がキャンプ動画で、

「40代は季節でいうと『秋』」

とか言っていた。
今は50代前半のヒロシが、確か、40代後半で言っていたことだ。
多分。よく覚えてないけど。

このように最近、色々と記憶も曖昧になってきている。

20代~30代中盤くらいまでであれば、覚えていただろう。
あるいは、覚えていなくとも、甘プラで「ヒロシのぼっちキャンプ」を見直して調べなおすくらいの「気力」があった。

このnoteもなんとか1年続けてこられただけ、まだそういう「気力」が残っていないわけではない。
が、読み返してみるとなんだか、病気の話とか、若い子にはもうついていけないとか、健康のために酒を辞めたとか、辞めるのを辞めたとか、そういう話ばかりではないか。
ちなみに、酒は飲んでいる。

さみしさとわびしさと、いとしさとせつなさと、でもこころづよくはない、微妙な感じ。

一方、「気力」がなくなると同時に、色んな意味で「力が抜けてきた」ので毎日それなりにぬる~くラクで楽しくはあるのだけど。
ほとんど何も感じなくなったということだが、それだけにあやまちはおそれずに進めているとは思う。
そんな俺を、涙をみせずに今後とも見つめてほしい。

なんとも言えないお年頃、まさに「人生の秋」。

いと、あはれ、なり。
なんとも、チョベリエモい。

と、感傷に浸っている矢先にくしゃみが出た。
4連荘。

あいつが、花粉が、キている。
2月の中旬からとっくにキている。

こちとら「人生の秋」の到来を感慨深くセンチメンタル・バスしていたところだというのに。
「現実の春」は、そんなことおかまいなしに、プレイボール、プレイゲーム。毎年容赦なく「せーの」で走り出す。
まったくどうなっているんだ。とろけそうだ。勘弁してほしい。

くしゃみだけじゃない。
鼻から垂れる、「洟」もだ。

「洟」。はな。

このじゅるじゅる垂れるみっともない液体。
なぜにこれに、こんなにもイカす漢字をあてがったのだろうか。無駄に。
もしかして「氵」の漢字で一番カッコよくないか、これ。

いやはや中国4,000年の歴史はわからん。

無理もない。
4,000年どころか、昨今、10年ぽっち下の世代とすら解り合うのすら難しい。

この話をしても後輩たちは「いや、まじウケるんすけど、そもそも、『イカす』ってどういう意味っすか?ウケるわ~ガチで。」とほざくだろう。
そういうイカしていない不勉強なやつにはババチョップを食らわしてやるに限る。
が、もし本当にやったらこのご時世すぐさまパワハラないし暴行の罪で訴えられる。逆に、俺がもっと強力な「社会的ババチョップ」を食らうことになる。だからやめとこ。

ところで、このイカしまくる「洟」を通じて、俺たちを元気づけてくれるイカし倒しているパイセンがいる。

かの、「渋沢栄一」パイセンだ。
親しみを込めて「栄ちゃん」と呼ぼう。

何をした人かはよく知らんが、何年か前の大河の主人公にもなった栄ちゃん。
そして今年、新万札のフェイスにもなるらしいじゃないか。

長らくあのポジションで不動だった諭吉のおっさんを退けて、だ。
今年は花粉以上に、栄ちゃんがキそうな予感だ。

さて、その栄ちゃん。俺たちにこう言っている。

「四十、五十は洟垂れ小僧」

いま、これを書きながらも、普通に垂れそうだ。
相変わらず、むずむず、じゅるじゅると、いい気分ではない。

が、栄ちゃんにいわせれば、これが59歳まで続くというのだから、もうあきらめるしかない。
「オトナになる」とは「あきらめる」ということだ。

40歳といえば、世間的には、いいオトナ。
紛れもなく中年である。
当然「しっかり」していないと、「ちゃんと」していないと、いけない。

しかし栄ちゃんに言わせれば、40歳なんぞ、ほんの「洟垂れ小僧」のスタートラインに立ったに過ぎないのだ。
痛快ではないか。俺はまだ若い、どころか、幼い。

しかも栄ちゃんが加えて言うに、「六十、七十は働き盛り」らしい。
ということは裏を返せば、あと丸20年間、仕事も大してせず呑気に何も考えずに洟だけ垂らしときゃいい、ということになる。
よかった、まだ全然、本気出さなくていいのね、俺。

ところで、30代までの今までの人生はなんだったのか。

少なくとも俺の知る限り、栄ちゃんは何も語っていない。
何も語っていないということはつまり、30代までは、「洟垂れ小僧」にすらなっていない、名前すら与えられていない何か、ということである。

だのに、なんで俺は20代、30代とあんなにも必死に「何者かにならねばならない。立派な、まっとうな、ちゃんとした何某かに」と、力んで生き急いでいたのか。

それは今も昔も、「洟垂れ小僧」にすらなっていない若者にこそ、社会や世間、そして「大人」たちが厳しいからだろう。

あ、俺もさっき「ババチョップを食らわしてやる」とか言う老害になり下がっていた。

まったく、自分含め、嘆かわしい。堕ちたものだ。

栄ちゃんに触れ、そういうことに気づかされる。
自戒も含め、なんだか少しだけラクになる。

「お前は、まだまだ洟垂れ小僧になったばかり。焦らず、急がず、楽しくやれ。何者でもなく自由だった今までと同じように。」


栄ちゃんがこういう風に言ってくれているような気がする。
気がするだけだが。いや、そうに違いない。きっと。

なんともイカす、救いの思想だ。さすが、栄ちゃん。
「永ちゃん」なんかよりも断然ロックだと俺は思う。

さて、花粉はひどいがもうじき新年度だ。
「洟垂れ小僧のルーキー」として、のらりくらりとやり過ごそう。

あ、昨年同様、誕プレは現ナマで。
よろ。

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