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テレビ離れ?

Twitterのトレンドに『テレビ離れ』というキーワードが上がっておりました。
該当すると思われる記事を読んでました。

しかしながら…記事中のタイトルや見出し以外に『テレビ離れ』って言葉が見つからず、割愛されているだけかもしれませんが…議論の中に『テレビ離れ』の話題って出てきてないのでは?と感じました。

ぼく自身は『テレビ離れ』と聞くと…単純に”テレビ”から離れているわけじゃないと感じています。

▼テレビを見る、見ない

ぼくはテレビをあまり見る方ではありません。
しかしながら、まったく見ないと言うわけでもありませんし、一緒に暮らしている父は1日中テレビを見ています。
父が高齢ということもあるかもしれませんが…それでも毎日の楽しみとして見ていると感じています。

ただ、ぼくが小さい頃に比べて『テレビ番組』が話題にのぼる事が少なくなったとは感じます。

家族や仲間、同僚やお客様と話題になる『ニュース』はあったとしても、『テレビ番組』そのものが話題にのぼることは非常に少なくって来ていると思いますし、また、その『ニュース』を得た媒体は現在、多種多様な種類が存在すると理解しています。

考えてみますと…ぼくがテレビをあまり見なくなったのは、仕事を始めてからのような気がしています。
仕事をしている時はもちろん、通勤などの時間、帰宅してからも自分のやりたいことをしていたのでテレビを見ている暇がなかったというのが見なくなったきっかけであろうと思います。

とはいえ、ビデオをはじめとした録画装置もありますし、「見たい」と思った番組は見る事は比較的容易ではありますし、また休日などは見ることもありました。
ただ…段々見なくなっていたのは確かなことです。

これが『テレビ離れ』ということであればそうなのかもしれませんが…ぼくは単純に『テレビに魅力がなくなった』とは感じてはいません。

▼見る自由がなくなった

この話題をTwitterでつぶやいたところ、フォロワーさんから

夜勤から帰ってテレビなにやってるかと見れば、買い物番組か買い物番組か買い物番組かワイドショー、たまーに時代劇で選択肢がないに等しいんですよ。
「観る自由」をテレビ自ら否定しているように感じます。

というリプライを頂きました。
ぼくは「確かにそうだ!」とこのリプライを拝見して感じました。

時間もそうですが、内容についても、現状のテレビ番組は非常に選択肢が狭く、「観る自由」が極端にないものだと感じています。

つまり、どこのチャンネルに合わせても似たような番組ばかり。ニュース、情報番組、バラエティー…どこか見た事があるような形式のもので・・・ぼくが小さかった時に観ていたような印象深い番組が少なくなっているような気がしてなりません。

今までは気に入らなければ『チャンネルを回せ』ば済むことでしたが…インターネットを含めて色々な媒体が存在する現在、『テレビを見ない』という選択肢が出てきていると考えています。

とはいえ、ドラマやアニメといった番組はやはりテレビでしか見られないものも多いですし、制作会社のノウハウがなければできないものも多いと感じています。
無論、バラエティー番組や報道番組、情報番組もそういったノウハウがなければ成り立ちません。
しかしながら、こうした番組ごとの違いはどこにあるのかぼくなりに考えてみました。

▼双方向の時代に

今、時代はインターネットがなくてはならなくなっています。
インターネットはとにかくスピードが命といっても過言ではないくらい、情報が次々に出てきます。しかも、一昔前とは違い、誰でもが情報を発信できます。

ですのでインターネットで発信される情報は、送り手と受け手が交互に入れ替わるような双方向での発信・受信になっていると感じています。

つまり、一つの事象についてあらゆる人が送り手にも受け手にもなり、情報が拡散していく状況だと感じています。

一方テレビは、基本的には送り手と受け手がはっきりと分かれており、受け手の意見も送り手に送ることはできますが、仕組み上、反映はされないことが多いか、一定の時間が必要となるのではないでしょうか。

こうした大きな違いがいわゆる『テレビ離れ』の原因ではないかとも感じています。

例えば、ニュース番組などでニュースをアナウンサーが伝えてくれるのはとても分かりやすく、時には映像も交えられていますので理解がしやすいです。
と同時にそのニュースが発せられるかどうかを含めて受け手は『待』たなくてはなりません。
反対に、インターネットのニュースは受け手が見たいニュースを検索することができますし、自分が欲しい部分だけを選択する事も可能ですし『待つ必要』は基本的にはありません。

バラエティーや情報番組に関して言えば、番組の作り方にもよるとは思いますが…『この後、衝撃の展開が!』というようなナレーションでCMを見て待っていると…衝撃でもなんでもない展開になっていて肩透かしを食らうこともあります。Youtubeなどではそうした『煽り』がないわけではありませんが、やはり受け手が『先に』進めることができたりもします。

また、ドラマやアニメ、演芸番組などにはこうした『双方向』については比較的影響はないのではないかと考えています。
つまり、ドラマやアニメを見ている時に、登場人物やストーリーに感情移入したり、集中したりして『見終わって』からの感想や意見などは発するにしても、番組進行中に双方向である必要があまりないのではないかと思っています。

(もちろん技術が進んで、見ているぼくらの拍手や笑いが発信側に届く事ができればさらに出来る事も広がると思っています)

▼オールドメディアとニューメディア

こうした『双方向』の意識が今、インターネットが無くてはならない時代では必要なのだと考えいて、情報番組・報道・バラエティー・ドラマやアニメとの違いになっているのではないかと感じています。

ただ、だからと言って『テレビに魅力がなくなった』とは感じていません。

1,2年くらい前からでしょうか。
インターネットを中心としたメディアを『ニューメディア』、テレビや新聞と言った媒体を『オールドメディア』と言った分け方の言葉が出てきたと理解しています。

ただ、ぼくはニューメディアだから良い、オールドメディアだから悪いとも思っていませんし、双方に魅力があると考えています。

ただ、そこにはやっぱり『双方向』というような意識がないとどちらのメディアも廃れて行ってしまうのではないか、魅力がなくなってしまうのではないかと思っています。

例えば、Youtubeなどに有名芸能人の方が進出したとしても、再生数や登録者数が伸びないということもあると聞きます。
逆にテレビのニュース番組の情報源がネット動画ということもあることも今では珍しくありません。

どちらが良い悪いというわけではなく、受け手と送り手がそれぞれ瞬時に入れ替わる事が実現されてしまった現在においてはこの『双方向』という意識をもったコンテンツが見やすく人に支持されるのではないかと感じています。

とはいえ、ぼくがつくれるか、と言えば作れませんが…それでも、『双方向』の意識を持つことで色々な番組がより素敵な番組になり、『観る自由』が増え、テレビをはじめ、ラジオ、新聞、インターネットもさらに進化するのではないかと思っています。

別に、テレビのニュース番組に視聴者の生の声を入れる事が『双方向』とは思っていませんし、より多くのSNSなどの声を拾い、反映させることでもないと思っています。

このコロナ禍において、健康や安心・安全なことについては色々な意見や情報があります。どれが正しくてどれが間違ているかなんて誰にもわかりません。
また、政府や自治体が『悪』であり、野党が『正義』であるというような意見(反対の立場の意見も)一色ではやはり見る人へ意識が向いているとか言い難いと感じています。

今、視聴者、いや、ぼく自身が求めているのは、テレビ局やコメンテーターや識者の意見ではなく、事実のみの報道です。
また、バラエティー番組やドラマ、アニメについては人の好みで大きく左右されると思っていますが、やはり特定の趣向だけだと飽きられてしまうのではないかと個人的には考えています。

▼フィクションかノンフィクション、ドキュメンタリーか

個人的には今、情報番組を含めて、少しのリアルを入れた『ドキュメンタリー風』の番組が増えているような気がしています。

昨年、プロレスラーの木村花さんが自ら命を絶った事も記憶に新しいですが…こうした『ドキュメンタリー風』があたかも『リアル』のように錯覚してしまう事で純粋にテレビを楽しめなくなったようにも感じています。

もちろん、技術が進み、より『リアル』を求められる風潮ではあります。しかし、そこにも『双方向』の意識があれば、別のコンテンツとして認識されるのではないでしょうか。

情報番組やこうした『ドキュメンタリー風』の番組は『フィクション』であって、多くの演者、スタッフの方がかかっていると思っています。
しかし、その意識の向け先が『広告主』であったり、なんらかの『結論』であったりしたら、やはりその『双方向』の意識というのはなくなってしまうのではないでしょうか。

物語、フィクションにはどうしても『結論』があります。その『結論』に向くために突拍子もない道程をたどることは往々にしてあると思っています。
そこに『リアル』がないのだとしたら…それは仕方ないことですし、見せ方の工夫も必要だと思っています。

ぼくが考える『双方向』の意識とは…受け手も送り手も『どちらが正しい』とか『これが良いのだ』ということではなく、伝えたいものを伝え、受けたいものを受ける為に考える意識だと思っています。

とてもとても難しいことだと考えています。
どうしても製作費や状況を考えると単純に受け手だけのことを考えることはできません。
さらに、受け手の意見だかが尊重されてもそれはやはり廃れる原因になってしまうと思っています。

ただ、どんな媒体でも。
送り手と受け手がいる、ということが基本ではないのか、と思っています。
この他の要素が入ることは珍しい事ではありませんし、この他の要素を入れずに作成することはまず不可能だと思っています。
しかしながら、それでも。送り手と受け手の双方向の意識というのは技術がどんなに進んでも変るものではないと考えています。

▼テレビの可能性

先ほど申しました、オールドメディア、ニューメディアに限らず…
こうした『双方向の意識』がなくなってしまうと、人はどんどん離れて行ってしまうとぼくは感じています。

それはテレビに限らず、新聞、ラジオ、雑誌、インターネットなどなど。媒体が何であれ、発信する送り手と受信する受け手のバランスが崩れれば成り立ちませんし、重なりますが、今の時代はこの受け手と送り手が交互に変わる時代です。

そうした中で、映像の綺麗さ、音の綺麗さ、ネット通信の技術、映像や音楽作成の技術は日々進歩し、手軽さも増してきました。
ぼくは今でこそテレビをあまり見ませんが…それでもテレビが嫌いなわけではありません。テレビを見る時があります。

技術革新と共に、ある一定の『結論』や『広告主』という要素よりも『受け手と送り手』という関係を見直す事こそで、テレビもそうですし、ラジオ、新聞、雑誌・・・もちろんぼくがやっている舞台も。無限の可能性があるのではないかと感じています。

『テレビ離れ』ではなくどんな媒体でも『送り手離れ』は起り得ることだと思いますし、今、起きている事は『送り手離れ』ではないのか、と個人的には考えています。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!