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真剣に、真面目に。

お芝居をやっている人の多くは真剣に真面目に取り組んでいると思います。
不肖ぼくもそうですし、劇団新和座も真剣に真面目に取り組んでいます。

しかし。
「果たして、ぼくたちは今、この時、本当に真剣に真面目に取り組んでいるのか」
そんな疑問を持つことがあります。

▼腹式呼吸という嘘

お芝居を始めるにあたって、「発声」について習う事が多いのではないでしょうか。
またその際、「腹式呼吸がお芝居においての呼吸法だ」とどこか刷り込まれているような気がしています。

もちろん、腹式呼吸が不必要だ、とは言っていません。
腹式呼吸も胸式呼吸も大事ですし、使い分けることが必要だと思っています。

声をよく響かせる場合は腹式呼吸の方が向いていると思いますし、場合によっては胸式呼吸でセリフを喋った方が良い場面もあります。

何故、こうしたことを書いたかと言うと・・・
「芝居は腹式呼吸」という先入観があると、それに固執するあまり、お芝居、表現を狭めるものになってしまうのではないかと感じているからです。

腹式呼吸だけでは表現できない事はたくさんありますし、腹式呼吸と胸式呼吸の切り替えの仕方、お芝居をしている時に意識せずにできればもっともっと表現は広がります。

▼真面目な人ほど

こうした腹式呼吸の例もあるように、真面目な人ほど、先生や先輩の言ったことを”疑わず”そのまま実行し、いつのまにか「芝居は腹式呼吸で行う」という先入観になってしまうような気がします。

誤解のないように書いておきますが、自分が師事している先生や先輩のいう事が間違っているわけではありませんし、教えてもらっている「基本」はしらなければいけません。
さらに、その基本を理解し、練習を繰り返していく事は非常に重要です。

この記事で言いたいのは、「教えてもらった事が全てではない」ということなのです。

▼真剣に考えれば考えるほど・・・

腹式呼吸の例に留まらず、「お芝居」というものを真剣に考えれば考えるほど・・・今まで培ってきたやり方や考え方に矛盾が生じる場合があります。

その時に大事にするものは一体なんでしょうか。
先生・師匠、先輩の教え、なのか。
より多くの人が言っていること、なのか。
著名人が言っていること、なのか・・・。

ぼくは、「自分自身が試した結果」こそが大事だと考えています。
それは間違っているかもしれませんし、とっても奇異な方法かもしれません。
もちろん、先生や先輩、著名人などが言っている事と同じ方法や考え方の場合もあると思います。

しかし、「自分が実現できる」方法や考え方というのは自分自身が試してみないとわからないのではないでしょうか。

▼師事した先生を信じぬく

先ほども述べましたように、先生や先輩が教えてくれることはとても大事ですし、蔑ろにできません。
更に言えば、そうした何世代にもわたり蓄積された方法や考え方がすぐに覆されることはありません。

しかしながら・・・それだけではないはずなのです。

「守破離」の記事でも申しましたが、先生の教えを守り、それを試し、自分なりに改善し、変化させ、新しい技を磨いていくためには・・・
ある種「疑う」事もでてくるのです。

先生や先輩は多くの場合「嘘」は言わないでしょう。
しかし、先生や先輩は「全て」を限られた時間で教えるのは不可能です。
一緒に寝食を共にして、四六時中一緒に居れば話は別かもしれませんが・・・それでも「全て」を伝えられるかどうか…

先生方がお伝えになるのは「エッセンス」「基本」「基礎」であり、それを発展させていくのは自分であるわけです。

ぼくもそうですが・・・師事した先生の教えというのは自分の「基盤」になっていることが多いと思います。
しかし、それをそのままやっている事もあればそうでないこともあるはずです。

先生の教えを信じぬくからこそ、自分がぶち当たっている矛盾に真剣に向かい合えることができると思っています。

疑うだけではもちろん真剣ではありませんし、先生の教えからはみ出さないようにするというのも真剣ではないような気がします。

▼他の業種にもヒントが隠れている

これはお芝居に限った事ではありませんが・・・
もちろん、「餅は餅屋」ですので、専門知識はその道の人に習うのが一番です。

しかし、時には他業種の人の考え方がヒントになることは往々にしてあります。

自分が取り組んでいる「芝居」に対して、色々なところ、様々な職業からヒントを得る事はけして邪道でも間違いでもありませんし、むしろ、ぼくにはその方が真剣に取り組んでいるように感じます。

例えば、物語上の職業については、その職種の人を参考にすることは当然ですが、発声も・・・演劇畑の人だけではなく、アナウンサー、声楽家、音楽家の方々から教えを頂いた方が自分にあっているかもしれないですし、全く別の―――例えば市場の魚屋さんやお寺の住職―――仕事の人の発声も参考になるかもしれません。

役と作品に向かい合えばあうほど、疑問がわいてくると思いますし、真剣に、真面目にということを突き詰めると・・・もっともっと広い視野と見聞、試行が大切になってくると考えています。

ぼくは、お芝居をしている人の多くが不真面目ややっつけでやっているとは思っていません。しかし、「真剣になる」という事は態度や取り組み方もそうですが・・・目標を達成するために自分自身の考えややり方を時には捨て、時には変えることも必要ではないかと考えています。

▼演出者として

ぼくは、演出者として作品に向かい合う際、俳優さんたちと稽古する際、「はたして本当に真剣に向かい合っているか」とふと思う時があります。

俳優に何かを与える、とか、このシーンはこれが正解だ、という思い上がりがあるのではないかと自省する時があります。

もちろん、「演出目標」から逸脱しない、ということを常に考えていますが・・・どうしても「思い込み」や「これでいっか」という事が心の中であたまをもたげてきます。

「本当にこれがこの作品、この役に必要なことなのか」
「俳優さんを言いなりにさせているだけではないのか」
「このシーンを稽古方法はこれでいいのか」

などなど、自分の基盤と今までの考え方、そして目の前の作品に対して疑いを持つことがあります。

もちろんぼくも、ある程度の経験はありますので、「これで行ける」という自負もありますし、自信もあります。
かといってすべてにおいて―――稽古中は特に、自分の方法が正しいのかと言えばそうではない時があります。

目的がはっきりしていれば、方法はいくらでもある。
ぼくの師匠の言葉の一つです。
ぼくのやり方や考え方で目標、目的に達することができないのであれば、そこにこそ、「変えるべき何か」があり、その「何か」について真剣に、真面目に取り組むことを忘れてはいけない、と舞台演出家として考えています。

▼この「真剣に、真面目に」は・・・

実はこの記事の「真剣に、真面目に」はぼくが尊敬する元海上自衛隊の伊藤祐靖さんのご著書「国のために死ねるか」を改めて読んで、改めて感じた事です。

ご興味のある方は是非、伊藤さんのご本も読んでみてください。
危険思想ではなく、「真剣に、真面目に」ということが心に響きます。

舞台演出家の武藤と申します。お気に召しましたら、サポートのほど、よろしくお願いいたします!