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『タロウのバカ』を見て感じたこと。


『タロウのバカ』

たまたま親友に誘われた映画だった。新宿テアトルのレイトショー。この映画の存在もその時に知ってどんな映画かもわからずに見たが、見られてよかったと思っている。昨日観た映画のくせに生憎記憶力が悪いので詳細は覚えていないし、あくまで私が感じたことだから、その解釈は違うとかいう粗さがしは求めてない。

主人公は、タロウ、エージ、スギオの三人。この三人が人を殴りまくったり殴られたりする暴力映画ともみられるかもしれない。印象は予告編から受け取ってほしい。

この三人といわゆる「普通の人たち」や社会の対比が描かれていると思った。印象的なのはこの三人、とくにタロウとエージの狂気じみた笑い声と笑顔を全然見せない「普通の人たち」。この作品の中に出てくる人の中に幸せな人は感じられない。素敵な笑顔なんて出てこない。

みんながこの世に絶望しているような常に重く暗い闇のような印象。タロウの足取りだけが軽やかだ。ケガで柔道をやめてしまったエージを詰める顧問の冷酷な声や暴力、他の部員からの暴力。スギオが愛するヨーコの売春、ヨーコの汚れていく身体、交友関係への父親の介入。社会と関連した息苦しい出来事が連なって目を覆いたくなる描写がたくさんある。

笑顔もない、冷酷な社会こそがエージとスギオに見えている社会なのだろう。

タロウは学校にもいったことがない少年。倫理観も秩序も常識も彼にはない。価値観や概念からわからない。漢字も読めない。「なんで学校にいくの?」「好きってなに?」「わかんない、教えてよ」。エージやスギオにはわかることがわからないし、彼らが知る苦しみを知らない。

でもタロウはバカじゃない。少なくともこの映画の中ではバカと描かれていない。いや、バカだ。バカだけどバカだから、何も知らなくて目の前のことしかわからない。だからタロウは救世主のような、神的存在のような雰囲気を醸し出しているんだ。エージやスギオにはタロウがすべてだし、タロウにはエージとスギオがすべてだった。親がくれた名前はあるけど、名前がないやつはタロウだから、俺はタロウ。タロウの常識は3人の常識。


半グレの吉岡からとった拳銃がこの映画の中で死を象徴している。エージの仕返しに吉岡を襲った三人が手にした拳銃は、人なんてこんなもので死ぬ、人なんて簡単に死ぬ、という印象を彼らに植え付ける。拳銃を怖がる人間たちも彼らにしたら滑稽だ。拳銃なんてものを作ったのは大人や社会なのに社会は拳銃を、死を恐れている。自分に対して偉そうなやつも拳銃を向ければすぐビビる。だせえ。

吉岡を殺すシーンでスギオとエージは鉄棒で殴りかかりに行く。殴りかかったところで相手にもぼこぼこにされるが、タロウが少し離れたところから吉岡を撃ち殺す。その姿は社会の誰からも介入されずに自分を生きるタロウの存在を強調しているように見えた。ぼこぼこにされたエージは結局次の日に死ぬ。スギオはヨーコに好きと言われて拳銃で自殺。

タロウは自分の仲間たちが死んで、はじめて涙する。はじめて感情が見える。この人は、サイコパスじゃなくてよかったと思うと同時に、彼が悲しいという感情を知ったことをうれしいと思った。

ラストシーンでタロウがサッカーをする子供たちのところに走りこんで、叫ぶ。その姿は希望のような絶望のような印象を得た。タロウにはなにもない。コミュニケーションもとり方がわからない。エージとスギオとはずっと叫んでた、ずっと叫んで走り回ってた。でも「普通」は違うことを知らない。叫んでもエージとスギオのような仲間はいない。

タロウは普通にはなれない。エージのような仲間はもうできないかもしれない。だけどアウトサイダーとして社会に疑問をもっていく素直な心はなくならない。俗世界になじむことのない色をまとって、タロウが小さい世界から少しずつ邪悪なものを取っ払ってくれるんじゃないかという希望を含ませ、物語は終わる。タロウのバカ。タロウの、バカ。

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