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わたしが就職先を決めるまで

私は小さいころから父親に厳しく育てられてきた。ゲームなし、マンガなし、新しい洋服なし、などなどみんながもっているものは持ってなかったし、お金に厳しい家庭だったから物心ついたころにはうちは貧乏なんだと思っていた。でも習い事はやらせてもらっていてピアノ、習字、英会話、サッカー、バドミントンなどゲームがない代わりに毎日暇つぶしはできる環境があった。父親が家にいると勉強しろとか言われるからなるべく家にいないように無駄に多く習字教室に通ったり友達と遊びに行ったりしていた記憶がある。でも厳しい父に反発することはできなくて、常にいい子ちゃんでいることに気を付けていた。なるべく、怒られないように。。

小学高学年になると悪口をずっといっている女の子たちと一緒にいるのが嫌になって、クラスで孤立し始めた。群れから外れて一人で本をひたすらに読む生活をしながら、なんだかさみしいけど、周りに合わせるより自分がしたいことをするほうがましだと思う感覚もあった。その時の担任の先生は私の孤立を見て、いじめだと思わずにそっとしておいてくれたのだが、これには本当に感謝している。

一方で小学4年の頃から毎年参加していた夏休みに東京の大学生が英語を教えてくれるプログラムがあって、そこでであったおねえちゃんと毎月文通をしていたから、そこが唯一の救い、唯一の味方のような気持ちもしていた。英語が好きになって、海外に憧れるようになったのはそのおねえちゃんがきっかけだ。

中学に入ったらバドミントン一筋でずーっと部活ばかりしている子だった。部活の監督が北海道で少し有名な人だったから、期待もされている部活だったし、先輩たちも実績をのこしていたから私も最初から気を引き締めてもっと強くなりたい一心だった。中学一年のうちに、その監督から「2年になったらお前をキャプテンにする」と伝えられ、自分が予想以上に監督に期待されていることを認識した。それからはずっと監督の期待に応え続けるために、全治3か月のけがをしてプレーができなくても毎日部活に通って監督から他の部員へのアドバイスを盗み聞いたりしていたし、ライバルの弱点を観察してたりした。2年には部長になって、プレーだけじゃなくて、人間的な部分やマネジメントの部分も鍛えてもらっていた。同時にバドミントンを楽しむことからバドミントンを頑張ることが義務のようになってきた感覚もあった。

中学2年のとき、市のプログラムで学校から1人アメリカに2週間行けるものがあった。そのプログラムのことは昔からよく知っていて英語が好きになってから絶対に行きたいと思っていた。だけどもう私にはその時部活という責任があって、ちょうど新人戦と日程がかぶっていて、そのプログラムに応募すらできなかった。それがとても悔しくて、バドミントンが足かせのように感じてきた。

ここまで私はずっとだれかの期待のために生きてきた。

期待をしてくれた人が悪いとかでは全くないけど、自分からやりたくてやったことなんかは全然記憶になくて、頑張った記憶、しんどかった記憶、泣いた記憶ばかりでてくる。自分って本当はなにがしたいんだっけ?

地元の進?学校に進学して、すごく残念だった。部活は中学のころよりぬるいし、ずる休みするやつはいるし、監督は初心者だし、授業は受験を意識したものばかり、無駄な小テストのオンパレード。なんとなくバドミントンはつづけていたけれど、気がのらなかった。正直高校の部活の記憶はほとんどないし、先輩後輩のフルネームも正直自信がない。

そうなんとなく過ごしていた時に、転機が訪れた。たまたまお会いした母のママ友に留学を勧められた。私が海外に興味があるから、大学で留学したいといったら、瞬殺で「今いっちゃいなさいよ」と。田舎で生まれ育った私や親や学校には、高校留学という選択肢はないものだと思っていた。その場でいろいろなエージェントを教えてくださり、その半年後に私は1年間留学へ行くことになった。あっけなく、バドミントンを捨てて。学校からの反対もあったけど勢いで押し切った。何が受験だ。次はお前らの期待に応えろって?

この時のわくわく感は半端じゃなかった。自分がやりたい!っていったことを実現できる幸せさを感じ、自分が責任に感じていたもの、義務だと思っていたこと、期待に応えようとしていたことは全部、全部いったん忘れることができた。

帰国してからは上京を決めて、一般入試で大学に入った。そして海外と関われるアイセックという学生団体に入会。アイセックは海外インターンシップ事業をとおして平和で人々の可能性が最大限発揮された社会の実現を目指している。この団体でしばらく活動していくうちに、「海外」というのはイチ手段でしかないのではないかと考えるようになり、海外にいくことが大切なのではなく、海外という環境をつかってどうなるか、なにをするかのほうが大切だと気づくようになる。それからはもっと、人のライフスタイルやキャリアなどに興味をもつようになり、たまたま授業で女性として働いて家庭をもつことの大変さを知ることになり、そこから今の自分のフェミニズムの考えが生まれたりしている。

そんな考えをもちならが始めた就職活動。最初は適当に就活していたけど、自分は本当になにがやりたいんだ、という問いにぶち当たる。

今までの人生をよく思い返してみると、誰かに流されずに自分らしい生き方をしているときが一番幸せだったと思った。留学をしたとき、上京をしたとき。周りの誰がどういおうと自分はこうしたいといえる強さがあった。だけれども他人のその意思を抑制してしまう価値観がこの世に多く存在している。例えば、誰かの期待に応えなきゃいけないプレッシャーや、ジェンダー視点でいうと、「女らしくあれ、男らしくあれ」という考え方や、「結婚はいつするんだ」という結婚前提のプレッシャー。それ以外にも私が経験した、「今は受験に集中しろ」という盲目的な受験強制や「勉強をしないといけない」という学校の勉強をしない=バカと決めつける考え方など。。こんな人の意志を抑制する価値観をどうにかなくせないか、もっと自分らしい生き方ができる人を増やすにはどうしたらいいのか、と考え、そんなところに向き合いたいなと思っている。

人が価値観をもつところはたくさんある。テレビなどのメディア、学校、友達、家庭環境などなど、その中でもこれからもっと私たちの生活に大きくかかわってくるところはやはりインターネットであり、デジタルの領域だと思った。

そんな時に出会ったのが、インクルーシブ株式会社である。インターネットメディアコンサルやPRコンサルなどを主に担う会社であるが、ノウハウを教えるだけではなく、クライアントとともに事業を作っていくのが特徴の会社だ。例としてPRのコンサル案件で、冷蔵庫を売れるようにするためにAIを導入したというものがあるように、クライアントと一緒に新しい領域を開拓していく力をもった会社である。

ここだったら、インターネットメディアに関わり様々な市場を捉えながら日本社会のデジタル化に貢献できるのではないか、デジタル化した先のもっと個人を重視した自分らしい社会の実現になにか手を加えられるのではないかと思っている。「20歳女性」というカテゴライズから「しょうじゆうき」として見られる社会へ。「女だから」こう、から「あなたらしく」という社会へ。


自分が思っているよりロジカルに意思決定をしたと思っている。なんで自分が働いているのかわからなくなったときに、自分の過去からこの意思決定を見て振り返れるようにまとめた。3000字以上書いたのはレポート以来だ。

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