藤圭子の自死の真の動機と宇多田ヒカルの復活の端緒についての考察

(1)元夫の宇多田照實氏との出会い
 藤圭子(以下「圭子さん」)は、1979年10月頃、怨歌(えんか)歌手を脱ぎ捨て、新しい音楽の道、それがロックなのか何なのかも分からないまま、ひとりもがいていました。アメリカへ行きたい。新しい音楽を求めたい。まずは英語が話せるようになりたい。そんな思いが歌手引退という結論を出すことになります。

 圭子さん(当時28歳)が引退を宣言したのは「1979年10月17日。記者会見で藤は「やめる理由はあくまでも私の内面の問題」と説明して、「まったく歌をやめます。間違ってもカムバックすることはありません」と決意を語っています。
 そして圭子さんは「とりあえずハワイへ行きたい。ハワイでのんびり自分の気持ちを落ち着けたい」、最後のコンサートを終えると、その年(1979年)の暮にハワイに発ちます。
 資金はこれまで圭子さんのギャラを母澄子の貯金通帳振り込んでいたので、そこから3000万円引き出し「第二の人生」を踏みだしたのです。しかし、「ハワイの滞在は極僅かで、1980年の春にはアメリカの西海岸に渡って、カリフォルニア州のバークレーで英語学校に入っています。「彼女は日本に帰る意思のないことを示し、米国の大学に入るために勉強している」とのこと(ワイドショー関係者)。

 沢木耕太郎著の「流星ひとつ」の「後記」に「(1980年)七月、私のもとに、藤圭子から次の内容の手紙が届いた」とあり「私は8月15日に学校が終わったら、16日の(カルフォルニアの)Berkeleyでのボズ・スキャグスのショーを見て、それからニューヨークに行くつもりです。最初は一人で旅をしようと思っていたのですが、クラスメートのまなぶさんという人が友達と車でボストンまで行くというので、一緒に行こうと思っています。車で行く方が、飛行機で行くより、違ったアメリカも見られると思うし、8月30日頃までにニューヨークに着けばいいのですから……。体に気をつけてください。あまり無理をしないように。沢木耕太郎様 竹山純子 追伸「流星ひとつ」のあとがき、大好きです」と書かれています。

 残間里江子氏(出版・映像・文化イベントなどのプロデューサー)のブログで、「純ちゃん(圭子さんのこと)」について、こんなことを書いています。「渡米の目的は語学留学で、はじめは、カリフォルニアに行き、学校に通っていた。現地で友人も出来、それなりに楽しい日々を、過ごしてはいたのだが、いろいろあって、「いつまでこうしていても、仕方がないのではないか」と、思いはじめ、ある日友人たちと、ソルトレイクシティに行った時、「空港に行って、最初に来た飛行機に乗って、どこかに行ってみようと思ったの」と、友人たちと別れて、単身ニューヨークに行ったと、聞いた時も驚いたが、「ニューヨークの空港に着いたら、もう夜になっていたんだけど、たまたま通りかかった、トラックの運転手さんに頼んで、マンハッタン(アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の地区名で、ハドソン川河口部の中州であるマンハッタン島 (Manhattan Island)、あるいは、マンハッタン島が大部分を占めるマンハッタン区 )まで、連れて行って貰ったのよ」と、聞いて、その大胆さに、二度ビックリする私に、「黒人のいい運転手さんだったわよ。人は信じればそう簡単に、悪いことなんてしないものよ」と、ニコニコ笑いながら言ったのに、三度ビックリした」といいます。ですから、もうその頃には、ある程度の英会話ができていた思われます。

 ライターの田家正子さんはこう話している。「私が「なぜ、ニューヨークに来たの?」と彼女(圭子さん)に尋ねると、「実は、沢木耕太郎氏を待っています」と、答えたんです…当時(沢木耕太郎氏)新聞の連載が終わったら「コロンビア大学(米国ニューヨーク市に本部を置く私立総合大学)のジャーナリズム科に通う予定だった」そうで、このアパートで一緒に暮らすために待ち続けていたようです」と話しています。 しかし、沢木氏が圭子さんの前に現れることはありませんでした。

 圭子さんは、1980年の8月30日頃には、沢木耕太郎氏を待つためニューヨークにいました。しかし沢木耕太郎氏と会うことは叶わず、後の夫となる宇多田照實氏と出会い、恋仲になっています。当時の照實氏は長身でアメリカナイズされた「高倉健」を思わせる青年で、当時のニューヨークの音楽事情に詳しい人であったようです。同時期、藤圭子の熱烈なファンだった実業家(藤原成郷氏)から芸能界復帰を打診されていました。

 1981年7月藤圭子の芸能界復帰報道が突然日本に流れます。藤原成郷氏は、圭子さんの芸能界復帰の為に「ニュージャパンプロダクション」を立ち上げ、再デビューさるため奔走し、芸名を「藤圭似子」と改名させ復帰させます。「藤圭似子」の名は、復帰直後のドラマ「新海峡物語」の主人公で五木寛之氏の書き下ろしであり、圭子さんの再デビューへの演出でもあったのです。1981年10月1日圭子さんは、「螢火/恋狂い」のシングル、同年11月LP「螢火-右・左-」をリリースしています。
 これほにまでに熱心なプロモーションだったにもかかわらず、翌1982年1月、藤圭子と宇多田照實氏が東京のテレビ朝日の前にあったアパートでの同棲が発覚すると、事務所の社長である藤原成郷氏と「契約違反」を巡り対立することになります。1982年8月発行の週刊平凡から引用します。「今年1月、夫の宇多田照實さんとの同棲が発覚した時、「好きな男女が一緒になって、どこが悪いんですか。古いですね」と、同棲をめぐって(藤原成郷氏の)事務所(ニュージャパンプロダクション)と対立した」とあり、同棲をめぐり圭子さんと事務所との間で裁判にまで発展してしまいます。

(2)結婚・妊娠・出産
 残間里江子氏のブログによると「臨月の時には、(1982年の暮れ、残間里江子さんが)ニューヨークの家を訪ね、大きなお腹で手料理を作ってくれたり、1983年に私が雑誌の編集長になった時には、創刊号でニューヨーク特集をしたのだが、取材にも協力してくれて、照實さんが乳母車を引いて、親子3人がセントラルパークで散歩している写真を雑誌に掲載させて貰ったのだが、この時は、いかにも幸福そうに、「宇多田純子」としての人生を、堪能していた」と書かれています。美川憲一さんが妊娠中の圭子さんから、米国で子供を生んで歌手にするんだと聞かされ、「どういうふうな歌手? あなた演歌でしょ」と質問すると圭子さんは、美川憲一の前でマイケル・ジャクソンみたいなリズムでダンスを踊ったので、目が点になるほど驚いたと言っていたのは、1982年の後半頃と思われます。

 かくして宇多田ヒカルは、1983年〈昭和58年〉1月19日にニューヨークで誕生します。1985年5月- ヒカルさんが2歳4か月のときですが、早くも圭子さんはヒカルに歌を教えています。それも「七つの子」「おててつないで」と「女のブルース」をです。 童謡を教えているのと同時に、自らの持ち歌である「女のブルース」も教えているということは、ヒカルを歌手にしようとする意図が感じられます。

(3)夢の第一歩
 1983年6月に圭子さんは夫とともにヒカルさんを抱いて一時帰国(住まいはニューヨーク)をします。目的は圭子さんの前事務所「ニュージャパンプロダクション」の藤原成郷氏との裁判で、東京地方裁判所に出廷するためでした。同年10月5日に日本に帰国(住まいを日本に移す)します。親子3人でニューヨークから東京へ引っ越ししています(ヒカルさんは6か月でした)。はじめは、広尾のマンションに圭子さんの実母澄子さんと同居していたようです。圭子さんと結婚した当時の照實氏は決して裕福とはいえない状況でした。照實氏は、借金も抱えており、圭子さんの実母澄子さんに「金をくれ。ないんだったら、マンションを売って手配してくれ」と迫ったこともあったといいいます。
 当然、澄子さんは難色を示しめしましたが、「マンションだって圭子が稼いだ金で買ったんだろ!」と怒鳴り、口論に発展。結局は(広尾マンションを)を売却して、3000万円ほどの金を照實氏に渡すことになった」と言います(圭子さんの実兄の話)。それにより、母澄子さんは綾瀬のマンションに移ります。そして、圭子さん一家は、杉並のマンションに住むことになります。宇多田照實氏は藤圭子の所属事務所がなくなってしまったために杉並のマンションで個人事務所(テックス)を設立し、自ら社長になり圭子さんと二人三脚で営業を始めます。 (後の有限会社ユースリー・ミュージックの事務所兼自宅)

 「事務所といっても所属タレントは藤圭子ひとりだけ。無理矢理地方営業をさせて、それで食いつないできたようです。しかも、照實はシロウトのくせにあれこれと口を出し、いろんなところでトラブルを引き起こしていたようですね。圭子さんが元の所属事務所やレコード会社と揉めて、レコードを出せなくなったのも照實氏が原因なんです」(前出・芸能関係者)。 圭子さんもこうした照實氏の態度にはほとほと困り、1986年10月に1回目の離婚をしますが、17日後には「ヒカルの幸せのために」と再婚しています。
 またこの年の1月に、「ニュージャパンプロダクション」の社長である藤原成郷氏との裁判で判決が下されました。内容は、圭子さんは受け取った契約金のうち2,000万円をプロダクションに返し、プロダクションは圭子さんに未払いの給料200万円を支払え、というものでした。 ※圭子さんがアメリカから帰って、娘の「宇多田ヒカル」がデビューする前だが、「会うと、必ず「無口な男性」がついて来る。取材が一段落して、新宿のバーで飲んだ時、部屋の隅に黙っている男性を指し「あの人は誰ですか?」と聞いたら「マネジャーよ」と言っていたが……後になって知ったのだが、その人物が「宇多田ヒカルさんの父」。何度も、結婚、離婚を繰り返した「お相手」だった」とある(藤圭子さんのことBy 牧 太郎2013年8月23日)。ここから読み取れるのは、照實氏は、あるときは事務所の「社長」、またあるときは「マネジャー」として扱われていたと思われる。照實氏もまた、この困難の状況下で「社長業」、「プロデューサー」、「マネージャー」のイロハを学び、宇多田ヒカルのデビューに貢献しています。ひいき目ですが考えて見れば、圭子さんがみんな育てたとも言えます。

 圭子さんはレコード会社を転々としながら、ロリーポップ(圭子名義)1984頃「あいつが悪い」※ 、1984年10月リバースター(藤圭子名義)で「蝶よ花よと」、1986年6月ポリドール(藤圭子名義)「東京迷路」(1986年に自主製作盤として発売され、のちにポリドールから発売されました)、1987年2月に「新宿挽歌」、1988年3月に「旅路」、1989年2月には、桂三枝(現文枝)と「新地の雨」、センチュリーレコード(藤圭子名義)1994年4月「酒に酔うほどに」、最後にはクラウンレコードから「藤圭子名義」で1996年8月「天国」、1996年9月「冷たい月〜泣かないで」、1996年10月「千年のかがり火」、1997年10月「男と女」、1999年5月「Golden ERA」と細々ですが歌手活動にしがみつく生活が続きます。
 ※ シングル盤「あいつが悪い」は、藤圭子が1981年シングル「蛍火」で早くもカムバックするも、その後泣かず飛ばずでレコード会社を転々とする時期の1984年、ロリーポップ音楽出版から単発で出されたものです。しかし、インディーズからのリリースということもあってか、拙の手元にある盤には価格がどこにも見当たらず、ジャケット裏とレーベルを見るとプロモ盤の体裁をとっています。さらに、名字なしの「圭子」名義になっており、そんなところからも通常のレコード店では流通していなかったことが想像されます。ということで、残念ながらCD化がされていないレア盤の一枚となってしまっております。
 ※1983年8月21日(ヒカルさんは8ヶ月目)、キャンペーンのため大阪に来たときのこと、圭子さんは、愛の巣づくりと育児に専念の3年間だったが「やっと子供を母に預けても大丈夫になったし、私にとってはごく自然な歌手活動の再開です」、「ねっ!見て。かわいいでしょ」とハンドバッグの中から、1歳10カ月になった長女・光ちゃんの写真を何枚も取りだして見せる。「お父さん似だ」と言うと「そうなのよねェー」と、かたわらのご主人で、所属会社テックスの社長宇多田照實さんを見上げて、なんともうれしげにニッコリ。決して平たんではなかった人生を歩いて、いつもどこか鋭く暗いものが漂っていた藤圭子は、すっかりマイルドな雰囲気になっている。ヘアスタイルも、トレードマークだった長いお下げ髪をばっさり切ってライトなショートに。デビューから15年、一人の人間に変化を刻むには十分な歳月で、33歳になった彼女は、口ずさむように軽い調子で「蝶よ花よと」を歌っています。

 宇多田ヒカルさんに藤圭子さんが本格的に歌の稽古をはじめたのは、ヒカルさんが4歳の頃(1987年)で、5歳の頃には自宅マンションの一室に宇多田ヒカル専用のレッスン用の業務用の鏡を取り付けたいいます。八代亜紀さんの話しでは「「アメリカに行って、ロックを歌うんだ」(1979年に引退する前)…、そう言って圭子ちゃんが日本を離れたとき、とても驚いたものです。当時の歌謡界はいま以上にイメージが重視されていたし、勇気があるなあって、いまでこそ私(八代亜紀さん)もジャズやヘビメタを歌っていますが、彼女の柔軟な感覚は、時代の先をいっていたのかもしれませんね。渡米を機に交流はしばらく途絶えてしまったけど、向こうで彼女が結婚・出産をして日本に戻ってきた後、また歌番組などで何度か会う機会がありました。ヒカルちゃんがまだ幼いころに、スタジオに連れてきたことがあったんです。リハーサルのときにヒカルちゃんがトコトコとスタジオを駆けまわったら、「こら、いけません」なんて叱っていました。「ああ、ママをやってるんだな」って、ほほ笑ましく思ったものです。」とあります。
 この時期、圭子さんはヒカルさんを渋谷区松濤にある「青葉インターナショナルキンダーガーテン」というアメリカンスクールの幼稚園に入園させています。この頃のときのことを、宇多田ヒカルさんは、「5才くらいまでは、ゲームに負けたりピアノがうまく弾けなかったりした時、根っからの負けず嫌いなために悔しくて悔しくてその度に泣いた記憶がある。それがだんだん、悔しい時も悲しい時も、泣かない子になった。母の前で泣くと、ひどく怒られたから。悲しくて泣いてるのは私なのに、なぜか彼女(母の藤圭子さん)の方が傷ついて、泣いて、私を責めた。すると私は泣く気が失せた。泣くよりももっと深い悲しみを知った。彼女に悪気は無いんだ、って分かってしまう自分が、体の芯からひんやりしていくようで、こわかった」と書いています。

(4)夢のニューヨーク生活
 圭子さんは、娘のヒカルさんにR&Bのリズムを体から染み込ませ、ネイティブな英語を身につけさせようと、1990年頃(ヒカル7歳のときに)一家でニューヨークに移住します。圭子さんは、娘のヒカルさんにR&Bのリズムを叩き込み、家族3人で世界を目指そうと考えていて、7歳のヒカル、母藤圭子と父宇多田照實と音楽ユニット(キュービックU(U³))を組んでいます。ヒカルさんは、インタビューで「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」と言われたことを記憶しています。かくしてヒカルさんは、小学校(ニューヨークのThe Hewitt School)に入学します。ヒカルが2年生の時(1993年)、はじめて飛び級し4年生となっています。

 しかしながら、1989-1996(1989-1990.3までは日本)の間、宇多田一家は、経済的には決して楽な生活ではなかったようです。ニューヨークでの生活は、資金が底をつけば日本に帰国して日本各地を巡り、歌をうたう生活。それでも、家族3人で愛車の「ミニ」に乗って地方を旅した7年間(1989-1996)は藤さんにとって幸せな時間だった。「裕福な生活ではありませんでしたが、以前のようにトラブルのもとになるようなお金もないですし、周囲の目を気にする必要もない。純粋に心から信じ合える家族とずっと一緒にいられることが彼女にはこの上ない幸せだったんだと思います」(宇多田家の知人)とあります。

 そのような生活の中で、1993年ヒカルさん10歳のときに、夫の照實とともに有限会社ユースリー・ミュージックを資本金300万円で東京都杉並区に設立し、取締役社長に照實氏、圭子さんも自らも取締役になっています。そして、ヒカルさんを中心にファミリーで新しい音楽を作って世界で勝負しょうとしています。※ユースリー・ミュージックの名称は、本来「U³」(キュービック・ユウ)であったのですが3乗を意味する「U³」はタイプライターだと打ちにくいため、やむなくU3とし、ユースリーになったと言います。
  夫・照實と娘・光の3人(藤圭子(RA U.)、宇多田照實(SKING U.)、宇多田ヒカル(H。IKASO U.))の家族3人ユニット「U³」(キュービック・ユー)の名前で、センチュリーレコードと契約し、アルバム「STAR」を発表。ヒカルが12歳になった1995年、宇多田ヒカルが母親(圭子さん)の代わりに家族ユニット「U³」(キュービック・ユウ)のメインボーカルとなり、「cubic U」(Uが大文字に)名義としてインディーズのレコードレーベル(EMI USA)から作品をヨーロッパやアメリカ合衆国で発売し、翌1996年にかけて合計3枚のレコードと1枚のマキシシングルを発表しています。

 この頃の様子を宇多田ヒカルは「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」。また2、3年経って「明日、東京に帰るわよ」って。家の中が険悪と思ったら、「もう二度と会えないよ、お父さんと。離婚しちゃった」とかそんなのばっかりでした」と言っている。

(5)宇多田ヒカルのデビュー
 宇多田ヒカルは、「一番音楽を聴きだした11歳〜12歳(1994〜1995年)の時期、母親が近所のヒップホップダンス教室に通い始めたんですね。見に行ったら超真剣で(踊っていて)。すごく時代を先取りする人だったんですよ。「この曲のキックドラムが凄い」とか「ノリが、グルーヴがどうだ」とか語ってて。で、家でそれまで目立ってたSadeとかThe BeatlesとかT-REXとかのCDより、もうCDプレーヤーの近くにDr.Dreの『The Chronic』とSnoop Doggy Doggの『Doggystyle』が並んで、それがめちゃくちゃ流れてて私も好きで聴いてました」と話しています。

 1997年にCubic U「U³」(宇多田ヒカルがメインボーカル)としてソロシングル「Close To You」とアルバム「Precious」を発表。1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目(東芝EMI(当時)のプロデューサー)にとまり 日本デビューを持ち掛けられるが、アメリカでCubic Uとしてソロデビューを控えていたが説得により1998年1月28日に「Precious」を日本で発売し12月に「宇多田ヒカル」としてデビューすることになります。

 ここまでのことを物語っている映像がYouTubeに残っています。 ヒカルさんが12歳の時の1995年、トーク番組で司会のブラザー・トムさんは、圭子さんを若くなったといい、これは旦那さんのせいかと問います。「たぶん」と答え、圭子さんは照實氏をハズバンドですと紹介しています。トムさんは、そのなかでメインボーカルになったヒカルさんのレコードを紹介し、同席していた安室奈美恵さんに、歳下が出てきてるといい、安室さんは「私、おばさん?」とおどけてみせています。そして圭子さんは、この新しい音楽について、夫の照實氏の影響があったことを述べています。

 その内容として、ラップが流行っていて、ヒップポップなどリズム主体の黒人文化にハマった圭子さんは、「有限会社ユースリー・ミュージック」を立ち上げたと述べています。※ラップ (rap) は、音楽手法、歌唱法の一つ。「韻律、リズミカルな演説、ストリートの言葉」 を組み込み、バックビートや伴奏など様々な方法で唱えられる。※ヒップポップなどリズム主体の黒人文化とは、1970年代にニューヨークのブロンクス地区で開かれたブロックパーティ(英語: Block Party:1つの街区の住民たちが大切な行事を執り行うために集まる大きな地域のお祝い、祭。)にルーツのある、音楽・ダンス・ファッションを中心とする音楽文化です。

 このような状況下で育った宇多田ヒカルの歌の特徴は、リズム、速さがデビュー時から一貫した特徴として、楽曲の中で歌とリズムがもっとも引き立つようにしてあることが挙げられ、 その二つがガッチリかみ合い、バスドラのキック音を強めにすることでグルーヴを出し、伴奏は極力控えめな印象です。※グルーヴとは、語源は(アナログ)レコード盤の音楽を記録した溝を指す言葉で、波、うねりの感じからジャズ、ファンク、ソウル、R&Bなどブラックミュージックの音楽・演奏に関する表現に転じた言葉である。 現在は、素晴らしい演奏を表す言葉の1つとして、ポピュラー音楽全般で用いられています。

 これこそが圭子さんが夫照實氏と追及した「新しい音楽」であり、それを楽曲として歌う家族ユニットこそがCubic U「U³」(キュービック・ユウ)であり、その音楽の制作に係る事務所こそが「有限会社ユースリー・ミュージック」だったのです。付言しますと、収入源として営業するときは「藤圭子」名義で、Cubic U「U³」(キュービック・ユウ)として活動するときは、「Ra U.」名義で「新しい音楽」の旗頭だったのです。※後にヒカルさんのプロデュースから排除されようとしたとき、圭子さんは、こう思ったに違いないと考えています。「宇多田ヒカルの音楽は、Cubic U「U³」(キュービック・ユウ)の活動から生まれ、Cubic U「U³」(キュービック・ユウ)の旗頭は「藤圭子」ではなく「Ra U.」なのだから、当然宇多田ヒカルのプロデュースに参加できるはずなのに、「藤圭子」を理由に宇多田ヒカルのプロデュースから排除するのは理屈に合わない」と。このことが「藤圭子」の産みの親である石坂まさを氏と実母澄子さんを憎む最大の理由になるのです。

 圭子さんは、1998年11月8日放送の「乾杯トークソング」の番組の中で「はしご酒」を上機嫌で歌っています。これには理由があります。これまで10年近くに渡り、日本に戻ってきてはドサまわりをしたり、懐メロ番組には欠かさず出たりしてお金を稼ぎ、そのお金で娘の光を米国に連れて行き音楽の才能を磨かせた、その苦労がもう間もなく宇多田ヒカルの歌手デビューとして報われようとしているのですから。※ヒカルさんの活動:1998年10月4日 - 1999年3月28日 Hikki's Sweet&Sour InterFM 再放送2014年2月1日 - 3月29日、1998年10月8日 - 1999年3月 WARNING HIKKI ATTACK!! FM NORTH WAVE CROSS FM

 1999年に宇多田ヒカルが「Automatic」で鮮烈なデビューを飾り、あっという間にミリオンセラーを記録、続くセカンドシングル「Movin'on without you」も大ヒットするのです。圭子さんの最後のシングルである1999年5月「Golden ERA」はまさしく「黄金期」であったに違いありません。※ヒカルさんの活動:ライブ:1999年4月1日・2日 LUV LIVE、1999年7月29日 宇多田ヒカル LUV LIVE REMIX 〜hello from new york、1999年8月24日 爽健美茶 Natural Breeze Concert '99 WWFチャリティーコンサート、 歌: Movin' on without you 日産自動車「テラノ」CMソング、First Love TBS系ドラマ『魔女の条件』主題歌、Never Let Go TBS系ドラマ『魔女の条件』挿入歌、Addicted To Youなど

 この頃在学していた清泉インターナショナルスクールは、芸能活動が厳禁のため、宇多田ヒカルはさん、やむなく芸能活動を認めるアメリカンスクール・イン・ジャパン(ASIJ)に転校します。この学校は名門中の名門で、多くの著名人を輩出し進学率はほぼ100%で外国の退学へ進学します。(学費も高額で年間200万円程度係りましたが、宇多田ヒカルは、ほとんどの科目でA+(最高評価)で飛び級し、2000年の5月に17歳で卒業しています。ヒカルさんが「Automatic」で鮮烈なデビューを飾り続くセカンドシングル「Movin'on without you」も大ヒットで生み出された莫大なお金(所謂「ヒカル・マネー」)が、照實氏が社長を務める「有限会社ユースリー・ミュージック」に入り始めます。そして、照實氏はベンツに乗り、宇多田は仕事でワゴン車を使うようになっていました。いつしか地方巡業の時期に使った「ミニ」はホコリまみれで忘れ去られていました。

 宇多田ヒカルの鮮烈なデビューと2曲続けての大ヒットは、圭子さんの「夢」がついに実現した一瞬でもありました。そんな1999年のある日、藤圭子はある地方の街で歌謡ショーに出演しています。当時、藤はヒカルと入れ替わるように表舞台から姿を消し、地方公演などの芸能活動も一切休止していいましたが、突如としてステージに姿を現しただけでも驚きでした。びっくりしたのは、藤圭子のパフォーマンスでした。最初は演歌歌手の地方営業のパターンで持ち歌を歌っていたのだが、途中、MCでヒカルのことをうれしそうに語りだし、そのままカラオケに乗せて「Automatic」を歌い始め、しかも「娘とそっくりの振り付け、ダンスつきで、丸々1曲を歌い上げた」とあります。なんとも微笑ましいエピソードですが、このステージについては、奇妙な後日談があります。この様子を書いた「女性セブン」は発売直前、編集部に圧力がかかり、なんと輪転機が止められ、刷り直しになり、内容的には差し障りのない記事だったのになり、藤のくだりはすべて削除されたそうです」(週刊誌記者)。

 何故か?恐らく藤圭子が「娘とそっくりの振り付け、ダンスつきで、丸々1曲を歌い上げた」ため、宇多田ヒカルの鮮烈なデビューの裏に、藤圭子のプロデュースがあったと思われるのを(宇多田ヒカルを無名の帰国子女ととして売り出そうしていたレコード会社「東芝EMI」及び演歌とは無縁な米国育ちの娘・宇多田ヒカルとして売り込んだ父・宇多田照實氏側が)恐れたものと思われます。このことが、「藤圭子が歌手封印」になった最大の原因だったのではと思われます。

(6)宇多田純子の受難〜藤圭子とRa U.との狭間で〜
 圭子さんは、ヒカルさんのデビューと活躍を喜ぶのですが、当時、宇多田ヒカルを無名の帰国子女として売り出そうしていたレコード会社「東芝EMI」と父・宇多田照實氏が、演歌歌手の母藤圭子が表に出るとアメリカン・ポップスの宇多田ヒカルの価値に傷をつけることなると恐れ、家族ユニット「U³」の解消と藤圭子の歌手封印を断行してしまいます。さらには宇多田ヒカルのプロデュースからも圭子さんを締め出し、圭子さんは、歌うことも歌う場も失い、音楽活動そのものも奪われてしまいます。※ヒカルさんの活動:1999年10月1日 - 2000年9月22日 宇多田ヒカルのトレビアン・ボヘミアン J-WAVE FM 等、ライブ:2000年6月26日 BOHEMIAN SUMMER extra 〜宇多田ヒカル SECRET LIVE〜 in SHIBUYA、2000年7月1日 - 8月29日 BOHEMIAN SUMMER 2000

 そしてこの頃に、宇多田照實氏の浮気騒動が起こります。圭子さんは照實氏さんの収入配分にも不信を持ち始めます。2000年1月末、「私は東芝EMIに行って全部調べた。一番わからないのが、歌唱印税だ」と藤圭子は言う。宇多田ヒカルの歌唱印税を巡って、新人歌手の場合ヒットするかどうかわからないから、歌唱印税は、けっこうアバウトに決められるらしいんですね。これは事務所宛に振り込まれるのですが、これもどうなっているかわからない。「絶対おかしいわ」となる。それが数日間続」き、事務所の社長であり夫の照實氏との仲が険悪になり、2月以降にヒカルさんと圭子さんは、「事務所兼自宅のU3 MUSIC」の事務所からM子(照實氏の浮気相手)さんが住むマンションに引っ越ししたようだと言います。

 当時圭子さんは照實氏の浮気騒動の中でしたが、こんな言葉を残しています。「梨元さん(芸能リポーターの故梨元勝氏)、今日は私は本当に嬉しかった。ヒカルの卒業式だったんですよ」。ヒカルさんの卒業式に圭子さんも参加したし、宇多田さんも来てくれたと。その頃照實氏は事務所に泊まっているなどと言いながら、藤圭子とヒカルが生活するホテルには帰っていない。仕事の時にヒカルを迎えに来るだけだったと言います。ところが、「宇多田さんもとても喜んでくれた。家族の絆って本当に素晴らしいと、今日は実感しました。私たちは幸せなんです」と圭子さんは言っています。
 またこうも言っています。「私は、人が誰かを好きになるのは止められないと思っている。その人の気持なんだから、彼女(M子)と別れてくれとは言えない。でも、結婚していれば誰かが苦しむ。当然、私が苦しめられる。これは嫌だから、私と別れてほしい。私を解放してほしいんです」。圭子さんは照實氏の浮気でストレスフルな状況だったのでしょう。感情が不安定になっています。照實氏の浮気問題の渦中で、ある日には照實氏を非難していたのに、別のある日には照實氏を称賛しています。

 「音楽評論家の小西良太郎氏は2000年頃、圭子さんから電話をもらったという。「会うと彼女は「私、事務所の副社長なのに、方向性を断片しか知らされていない。ヒカルと夫だけで話が進んでいって、仲間外れにされている」と愚痴る。 「しかも、お金を(役員報酬も)一銭ももらっていない」と言っていますので、照實氏の「所謂ヒカル・マネー」の使途にも疑問を持っていたようです。「ロス(アンジェルス)に借りていた超高級マンションの家賃の振り込みも滞ることがあり」、「知人には“今はもう2000万円くらいしか持っていない”と話していた」と言います。 

 報道によると「このころ(2000年頃)、圭子さんは照實さんと娘のヒカルさんのプロデュースをめぐって何度も揉めていました。夫婦としてはもう修復できない関係になっていて、ことあるごとに、圭子さんが「ヒカルをここまで成長させたのは私よ!」と言い出す母の姿を見て、宇多田ヒカルとの関係も悪くなっていきました。ヒカルさんは照實氏と行動を共にし、母を避けるようになったと言われています。

 2000年7月の週刊文春に宇多田家をよく知る知人が圭子さんから聞いた話が掲載されています。「知人」に藤はこんな秘話まで打ち明けていました。「杉並の自宅で生活している頃、ヒカルが何度も涙を流しながら、「私、ノイローゼになりそう。もう、どっちの言い分も聞きたくない」と、大きな声で訴えたことがあったんです。ホテルに移ってからも、3月初旬にバスルームで壁を叩きながら大声で泣いたことがありました。これは私達のことだけでなく、レコーディングなど、いろいろなストレスが溜まっていたのだと思います。(中略)ヒカルは「苦しいけど、自分のため、ファンのためにやっているんだ」と、外向けには明るく振る舞っていたんです。ヒカルのためにも、私は一刻も早く、落ち着いた生活を取り戻したいんです」。 ヒカルのためにも離婚騒動にケリをつけたいという母親としての藤圭子の思いがうかがえます。

 2000年9月にヒカルさんはコロンビア大学バーナードカレッジへ進学します。しかし翌2001年18歳のヒカルさんは、直筆の本に書いてましたけれど、もともと大学を受験した理由は「難しい授業や、面白い人たちと接する可能性を楽しみにしてた。高校で経験し損ねた青春的なものへの憧れもあったかもしれない」とのことですが実際に通ってみると、講義も他の生徒達もそこまで期待してるほどのものではなかったそうです。そして悩んだ末に、“今は”音楽に専念することを決め半年で大学を中退します。

 2001年と言えば、前年の2000年、宇多田照實氏の浮気が話題となり、藤圭子の離婚問題が話題になっています。翌2001年に宇多田照實氏の元愛人と騒がれた事務所の元社員のMさん(当時27歳)が、実は人気AV女優鏡樹里亜だったことが発覚しています。※ヒカルさんの活動: 歌 Can You Keep A Secret? フジテレビ系ドラマ『HERO』主題歌、FINAL DISTANCE NTTドコモ「M-stage」CMソング、travelingなど

 当時「宇多田照實氏は、ヒカルの威光をカサに愛人を作る。所属の東芝EMIには無理難題を押し付ける」ことを見かねて、芸能界の実力者が、圭子さんに音楽出版社を作ろうと提案。 “宇多田パパ外し”を画策しているという話しがでたのです。(2001年、東スポの記事 )また、東芝EMI関係者のコメントとして「愛人を作るのは勝手だが、 愛人の「お手当て」をレコード製作費でまかなうのはやめてほしい」、 照實氏はヒカルのシングルCDが出るたびに、5000~6000万円を要求するそうで 「曲が売れるのでメーカーは何も言えないのが実情。レコード製作費の一部が私物化している」と言い、この横暴を止めるべく、「不倫夫 宇多田照實外し」で圭子さんに音楽事務所を設立をもちかけ、まわりもその動きに賛同しているという話さえあった頃です。さらに圭子さんは、所謂「ヒカル・マネー」を照實氏に全て委ねることに不安を持ちはじめ、宇多田ヒカルのコンサートを開く権利を無断で第三者に売ろうとしたことが発覚します。これは、ヒカルさんの「お金」を照實氏が独占しないよう圭子さんのヒカルさんに対する精一杯の気配りでした。しかしこれさえ、報道によると「宇多田ヒカルさんのコンサート開催権利を他人に譲渡し(藤圭子の利得にし)ようとして」いたと思い、ヒカルや照實氏と対立していたと言うのです。

 そして圭子さんは、「2001年でした。ヒカルさんは藤さんに、もうこの場所にはいないで!と言い放ったことから、娘ヒカルの突然の「絶縁宣言」に、藤さんは動揺したのでしょう。当時付き合いのあった関係者に、もうヒカルとは会わないと漏らしていました」とあります。(https://anaenta.com/fujikeiko/)

 2002年年4月ヒカルさんに卵巣嚢腫が見つかります。そして手術後の9月に宇多田ヒカルさんは照實氏が2000年に宇多田の新曲ジャケット写真を依頼し、その打ち合わせで知り合った映像作家の紀里谷和明さんとの結婚を正式に発表しています。宇多田ヒカルさんは当時19歳でしたので紀里谷和明さんとの年の差15歳差の電撃入籍でした。※ヒカルさんの活動:歌: 光 スクウェアゲームソフト『KINGDOM HEARTS』テーマソング、アサヒ飲料「三ツ矢サイダーキングダムハーツデザイン」CMソング、SAKURAドロップス TBS系ドラマ『First Love』主題歌、Letters NTTドコモ「FOMA」CMソング、Simple And Cleanなど

 ヒカルさんは、所謂「ヒカル・マネー」が両親の争いを生む元凶と思い、ヒカル夫婦自ら「所謂ヒカル・マネー」を管理をしようと、夫の紀里谷氏から圭子さんに「役員を外れてほしい」と申し入れをしましたが、結局、圭子さんは、役員は外れなかったと言っています。「家族からそんなこといわれると思わなかった。それから人間が信じられなくなった」、「ときには少し涙ぐむ様子で「ヒカルは冷たい」と何度も何度もいって...家族からもう完全に孤立しているという感じでした」といいます。(芸能関係者)この頃から「ヒカルは本当は話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だった」という状況が続くのです。

 このころから、圭子さんの(自死後の平成25(2013)年8月26日づけの「ご報告と謝辞」で照實氏の言う)「直近の12年間は、好きな旅に思い立ったら出かけるという生活を送ってい」ます。つまり、2002年頃の「夜の新宿2丁目ウリ専バー通い」とカジノでの「ギャンブルの旅」、そして「若いマネージャーとの同棲」を中心とした生活を指しているようです。

(7)バラバラになったコラージュ 捨てられないのは 何も繋げない手
 圭子さんが、「ギャンブルの旅」へ旅立った直接の理由については、1999年4月発行の週刊文春に、ヒカルデビュー後に圭子さんが姿を見せなくなったことについて、ベテラン芸能記者の話が掲載されています。「歌番組などを筆頭に、宇多田ヒカルの争奪戦は熾烈を極めているのですが、彼女は大手プロダクションに所属しているわけではなく、両親がレコード会社と相談してスケジュールを決めている。母親の藤圭子が表に出ると、昔世話になった人(暴力団)に口説かれ、断れなくなる。それで姿を隠しているのではないか」と書かれています。※多田ヒカルがデビューする直前の1998年11月13日こと、極悪ヤミ金業者として社会的批判を浴びていた日本百貨通信販売の杉浦治夫社長から "おひねり”(1万円札5枚)をもらっている写真が報道され、圭子さんの隣に映っていた男性が広域指定暴力団・極東会の松山眞一会長だったことがわかり(もっとも藤圭子は、亡くなった浪曲の玉川良一先生とおつきあいさせて頂いただいていたことから、先生のお弟子さんの岡崎二朗さんが開いたパーティーに呼ばれて参加しただけでしたが)、宇多田ヒカルがデビュー直前のことでしたから色々と宇多田照實氏との間で争いが生じていました。

 結局2003年、圭子さんの了解のないまま、ヒカルのプロデュースに口を挟まないことを条件に支払われています。実際、2004年の納税額は5966万円からの推定年収は1億6800万円であったと言います。※ヒカルさんの活動:歌: COLORS

 2004年(圭子さん53歳、ヒカルさん21歳、照實さん57歳)、宇多田ヒカルさんは「誰かの願いが叶うころ」をリリースします。映画『CASSHERN』のテーマソングでした。その歌詞には「小さなことで大事なものを失った 冷たい指輪が私に光ってみせた 「今さえあればいい」と言ったけど そうじゃなかった あなたへ続くドアが音も無く消えた あなたの幸せ願うほど わがままが増えてくよ それでもあなたを引き止めたい いつだってそう 誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ そのまま扉の音は鳴らない… 誰かの願いが叶うころ あの子が泣いてるよ みんなの願いは同時には叶わない」と書かれています。※ヒカルさんの活動:ライブ:2004年2月3日 - 2月10日 Utada Hikaru in BudoKan 2004 「ヒカルの5」、歌: 誰かの願いが叶うころ 松竹映画『CASSHERN』主題歌、Easy Breezy 任天堂「ニンテンドーDS」CMソングなど

 2005年(圭子さん54歳、ヒカルさん22歳、照實さん58歳)、宇多田ヒカル 「Be My Last」をリリースします。映画『春の雪』の主題歌でした。その歌詞にはもっと素直に「母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日がくるの? バラバラになったコラージュ 捨てられないのは 何も繋げない手 君の手つないだ時だって」と書かれています。そしてこの年、「有限会社ユースリー・ミュージック」から藤圭子の名前が消えるのです。※ヒカルさんの活動:歌: Be My Last 東宝系映画『春の雪』主題歌、Passionなど

 圭子さんが「ギャンブルの旅」に出るのは、少なくとも宇多田ヒカルさんが紀里谷和明氏と結婚した2002年9月以降で、紀里谷氏から圭子さんに「役員を外れてほしい」と申し入れをされた時期だと思われます。行き先は、モナコ、フランス、オランダ、オーストラリア、イギリス、カナダ、香港、及び日本で、主にカジノへの「ギャンブルの旅」と思われます。一方で、圭子さんは別の顔も見せています。スポニチの阿部公輔は、藤圭子さんからこんな話も聞いている。「阿部(公輔)は、圭子さんが宇多田家からつまはじきとなった後も、呼び出しを食らっては熱弁を聞かされる。「二言目には「娘は天才だから」ですよ。デビュー前の売り込みの時期ではなく、大ブレイクした後も変わらなかった。ただ、そばにいない娘に向かってのアドバイスを忘れない。今のままではダメって、いつも口にしていました」阿部が舌を巻いたのは、音楽に対する膨大な知識である。もともと聡明な人だとは思っていたが、アメリカのプロデューサーや一流ミュージシャンの名前が次々と出てくる。ドラムやベースは誰々がヒカルに合っているというように」と。つまり、筆者が思うに、ギャンブル三昧の旅だけではなく、世界の音楽の最新情報を収集していたように見受けられます。

 やがて藤圭子さんに大きな転機がやって来ます。2006年3月の「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」です。ここで藤圭子の「音楽の道」を自ら閉ざすことになります。

(8)「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」と行方不明の時期
 「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」とは、所持していた42万ドル(当時のレートで約4,900万円)を没収された事件で、犯罪にかかわる現金かもしれれないと判断した当局がは圭子さんへの事情聴取のあと、麻薬探知犬による検査を行った。するとこの現金に反応したというものです。※ヒカルさんの活動:ライブ:2006年7月1日 - 9月10日 UTADA UNITED 2006、7月28日 One Night Magic。歌:Keep Tryin' KDDI・沖縄セルラー電話「LISMO! au LISTEN MOBILE SERVICE」CMソング、This Is Love日清食品カップヌードル「FREEDOM-PROJECT」CMソングOVA『FREEDOM』テーマソング、ぼくはくま  NHK『みんなのうた』2006年10月〜11月
    
 圭子さんは当初簡単に嫌疑が晴れると思っていたようです。現地関係者らによると、麻薬取締局の事情聴取に、圭子さんは「現金はギャンブルなどで得たもの。ラスベガスの慈善団体に寄付しようと考えていた」と説明したのですが、あまりに巨額のため一時差し押さえられたと言うのです。しかし、当時のアメリカでは「日本のポップクイーン(宇多田ヒカル)の母が麻薬取締局と戦闘中」という見出しの記事とともに没収手続きの書類をネットで公開されてしまいす。実は、圭子さんは散財するだけでなく、ちゃんとギャンブルなどで得た「お金」もかなりあったと考えられます。

 恐らく圭子さんは宇多田照實氏に連絡をしたと思われます。2006年3月29日ごろ、藤圭子の所属する有限会社ユースリー・ミュージックの宇多田照實代表は「差し押さえは確かだが、金額など詳細は調査している。不法な薬物の取引に関係したものでは100パーセントない」とコメントしていることです。さらに、藤圭子は同年10月違法な麻薬がらみの事件でないことを明らかにするため、テレビインタビューで釈明しますとあります。

 圭子さんが、日本に戻った2006年9月のテレビ朝日のインタビューでは、「私はもう藤圭子でもなんでもない。(藤圭子は)お金もうけのために、人からもらった歌を歌って、喜びも悲しみもわかちあって、10年で幕を閉じた」、「私はもう藤圭子でもなんでもない。封印した」と本名の「純子」で取材に応じたが、音楽への熱い思いを語る音楽への熱い思いを語る一方で、「原因不明ですけど、この20年間(1987-2006)、吐きまくりの人生です。週に3回は吐いてる。今でもそう。だからどっか悪いと思うんだけど」と説明しました。

 また同年10月には、フジテレビ関係者によると「テレビ局の代表電話に「藤圭子ですが、話したいことがある」と電話が入」り、スタッフが話すと本当に本人だったので急遽ロケバスの中でインタビュー」がなされます。藤(圭子さん)は「麻薬とは一切関係がない」と完全否定しほか、大金を所持していた理由について「世界中を旅している。パリ、モナコ、アムステルダム、メルボルン、シドニー、コネチカット、ニュージャージー、ネバダ、カリフォルニア…。 ファーストクラスの飛行機代、ホテル代などで5年間で5億円は使った」。さらに「カジノでは現金所持が当たり前」と説明しました。さらに「私はもう藤圭子でもなんでもない。(藤圭子は)お金もうけのために、人からもらった歌を歌って、喜びも悲しみもわかちあって、10年で幕を閉じた」と説明しています。

 「ギャンブルの旅」の理由として、テレビインタービューでは、「今回の件はすべて家族のせいだ」、「旦那も冷たいし、家族とも疎遠になって、ほとんど一緒にいない」、「寂しいし、ほかにもいろいろあって人間不信になっている。だから現金を持って、好き なギャンブルをして歩いている」と説明しています。

 もはやこの時点で「藤圭子」は封印され、宇多田純子でもなく本名の「純子」でインタビューを受けているのです。(もちろん、テレビ局は宇多田ヒカルの母である藤圭子としてインタビューをしているのですが…)
 ですから「この世で一番憎んでいるのは母親と石坂まさを」と言っているのは、只の「純子」でも「藤圭子」とされる原因をつくったのが「母親と石坂まさを」であり、「純子」がしでかした「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」であるが、「日本のポップクイーン(宇多田ヒカル)の母が麻薬取締局と戦闘中」、つまり宇多田ヒカルの母である藤圭子が起こした事件の記事として没収手続きの書類をネットで公開されことへの「藤圭子本人への怨み」であり、「藤圭子」であるが故に、愛する娘である宇多田ヒカルの音楽活動にも参加できなかった「藤圭子本人への憎しみ」を言い表した言葉と解釈するのが適当と考えています。
 さらに「阿部家のお墓には絶対に入りたくない」と言っているのは絶縁した父の家のお墓には入れない意味であり、同様に母の家の「竹山家」のお墓にも、また宇多田家のお墓にも藤圭子であった以上入れないからこそ、「海への散骨」をこの当時から藤圭子が考えていたと思うのは筆者の独断でしょうか。

 このインタビュー後、また圭子さんの行方が分からなくなるのです。インタビュー後、一時「6年ほど前(2007年頃)までは港区のホテル「X」の1泊数十万円もするスイートルームに住んでいました。ここには宇多田ヒカルさんも別の部屋を借りて、創作活動をしていました」。ただ、そこで目撃された藤さんの姿は異様なものだった。目撃者は「キレイとは言い難いラフな格好というんですかね。スイートルームに宿泊する人とはとても思えない服装で、ロビーを徘徊していたんです」と話す。藤さんは「X」だけでなく、目黒区にある高級ホテル「Y」にも部屋をキープしていた。2013年08月24日東スポWeb

 圭子さんも夫の照實氏も、宇多田ヒカルが同じホテルに藤圭子がいるという状況を早く解消したかったのではないでしょうか。そこで、圭子さんは別の定宿を転々としながら安住の場所を夫の照實氏に探してもらい、かくして、圭子さんは、2007年に自殺した新宿のマンションに同居人とともに暮らしはじめます。なぜ同居人と暮らしていたかというと、2006年のインタビュー映像で見る限りは、「早口で一方的に話し、目の焦点があっていない。誰が見ても「危ない」状態」に見え、麻薬がらみの事件ゆえ圭子さん自身も薬物中毒ではないかと言う好奇の目で見られてし」まいますが、藤は「私はラッキーだと思っている。神様に助けられて。目は治らないけどね」と目の障害を告白しています。何がラッキーだったのか、目はについては、ヒカルさんを出産すると同時に網膜色素変性症を発症していますが、ヒカルさんがデビューさせるまで不自由ではなかったことを指し、「神様に助けられ」と述べているのではないでしょうか。(参考:フジテレビ「スタ☆メン」https://www.youtube.com/watch?v=OH4fd5vXCkk)

 新宿のマンションの購入費については圭子さん自身だったと考え直しています。何故かと言うと、このマンションの名義人が同居人になっており、夫の照實氏ないしユースリーミュージックだったとは考えにくいのです。もし夫の照實氏ないしユースリーミュージックだったとすれば、何らかの方法で同居人ではなく不用になったとき経費が回収できる方法を考えるはずと思ったからです。
 もし圭子さん自身のお金なら納得できるからです。何故かと言うと、「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」の押収品の中に他人名義(同居人名義)の小切手も含まれていました。「その小切手の名義人がA氏だとささやかれているんです。A氏は彼女にとって家族同然の大事な相手であることは間違いないです」と報道され、「藤は周囲に、…最近交際している男性とは、関係は順調で「ラスベガスのカジノにも同行してもらっている」と。そしてその理由を聞くと、単なる交際相手という以外に、「自分1人でお金を持ってカジノに行くと、全て使い切ってしまう。だから彼に現金を持たせて使いすぎないようにしている」と言っています。このA氏こそが、圭子さんが自死したマンションの同居人でした。2013.9.3Asagei+

 このA氏ですが、照實氏は「照實さんもヒカルさんも藤さんを心配し….もともと藤さんのマネージャーをしていた男性にお願いし、6年前から彼女の行動を見ていてもらうようにしたんです。」と話しています。(女性セブン2013年9月12日号から)
 このように考えると、圭子さんは当然にこのA氏についても照實氏に伝えていたと思われます。(同居していたM氏(A氏と同じ)を知る芸能関係者は、「M氏は三十代後半で体格はいいけれど物静かな人間です。元々は藤圭子担当のマネージャーでした。藤さんは目を患っていて、一人では歩行が困難で付き添いが必要だった。彼女に気に入られていたM氏が付き人として一緒に暮らすようになった。藤さんの自殺の一報を聞いて、M氏は泣きじゃくっていたそうです」と報道しています。)
 
 そして同じ年の2007年に夫の照實氏と離婚が成立します。週刊誌デスクいわく「財産分与で娘の宇多田が稼いだ数百億円の財産の一部を手にしたそうだ。(日刊サイゾー2013.3.18より)また、週刊文春 2013年9月5日号に「ベテラン芸能記者」 の話として、2007年に照實氏との「最後の離婚」で、宇多田ヒカルの利権(と親権)を照實氏が手にし、藤圭子はまとまったお金だけを受け取ったとあります。( 週刊文春 2013年9月5日号の「ベテラン芸能記者」 の話より)これとは別に「恐らく100億円は受け取っている」との情報もありますが真偽はわかりません。何故なら、圭子さんの自死後、一切遺産相続の話しはありませんが、宇多田ヒカルさんは、伯父の藤三郎氏に対して、 2013年10月11日のツイッターで「身内の者が世間をお騒がせしております。お恥ずかしい限りです。度々小遣い稼ぎに利用され傷ついた母が長年絶縁していた相手とはいえ、身内を悪くは言いたくないのでこれまで静観していました。彼が本当に母のためを思うならば公の場で醜態をさらさずに私に直接訴えればよいことです」、「テレビや雑誌に出る度にギャラをもらっている人の発言・動機を鵜呑みにするような人達にどう思われようが構いませんが、汚い嘘に傷つき追いつめられる父を見て黙っていてはいけないと思いました。四十九日も過ぎました。母が安らかに眠れるように、この騒ぎが一刻も早く終息を迎えることを切に願います」と述べ、暗に遺産相続の問題に触れている気がします。

 同時期、「三郎さんは、ヒカルの名で、『散骨の報告の手紙が届いたが、ワープロで書かれていて誰が書いたかわからない』と説明。さらに『照實氏の弁護士から警告文が届いた』とも明かしました」とも報道されています。このことが事実だとすると、遺産相続の問題だけではなく、誰が宇多田家族をバラバラにしたかについても、三郎氏の照實氏が家族をバラバラしたとと言うのに対して、照實氏とヒカル氏は藤圭子が家族をバラバラにした主犯と言いたかったのかもしれません。

 2007年に照實氏との「最後の離婚」と時期を同じくして、ヒカルさんも、「結局、彼女は若すぎた。俺は未熟だった」と紀里谷氏と語り離婚をします。※ヒカルさんの活動:歌: Flavor Of Life -Ballad Version- TBS系ドラマ『花より男子2(リターンズ)』イメージソング、Sanctuary スクウェア・エニックスゲームソフト『KINGDOM HEARTS II FINAL MIX+』テーマソング、Kiss & Cry 日清食品カップヌードル「FREEDOM-PROJECT」CMソング、Fly Me To The Moon (In Other Words) -2007 MIX- カラー映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』予告編テーマソング、Beautiful World クロックワークス/カラー映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』テーマソング、Stay Goldなどこの「事件」の影響もなく順調に進めています。

(9)母(圭子さん)は娘(ヒカルさん)である私だけでなく、父(照實氏)とも連絡を取り合っていた
 「週刊文春」2013年9月5日号によると、2008年に「長野県安曇野の山麓にある、自然治癒力を高めることを目的とした施設」に訪れた宇多田さんが、スタッフとしてマッサージなどを行っていた福田天人さんと出会い、交際に発展したと報じた。福田さんはこの施設の代表の息子だという。現在ロンドンで同棲しているとも書かれています。
 もし事実としたら、紀里谷氏と離婚の本当の理由は、夫婦で「所謂ヒカル・マネー」を自ら管理をしよう考えていたのに、「紀里谷さんがスタッフに指示を出したそばから、照實さんが全く反対の意見を口出しするようになってトラブルになることも増えたようです。ヒカルさんは夫と父親の間で板挟み状態でした」(芸能関係者)と言う状況があって、これに嫌気がさした気もします。

この施設とは、福田俊作氏という人物が代表を務める「穂高養生園(ほたかようじょうえん)」です。公式サイトでは、「・体に優しい食事・ヨーガや散歩などの適度な運動・心身の深いリラックス この3つのアプローチにより誰にでも備わっている自然治癒力を高めることを目的とした宿泊施設」と説明されています。散歩とヨーガ、オーガニックな食事で心身をケアする宿泊プログラムや、野菜・米作りを学ぶワークショップなどを開催しているといいます。その後宇多田ヒカルは2009年全米第2弾アルバム「This Is The One」に触れた際「私は浮気したことあります」と衝撃発言しています。しかし、宇多田ヒカルさんが「私は浮気したことあります」という浮気相手が福田天人氏かどうかは不明です。

 ただ事実として、福田天人さんの実家周辺では、ヒカルさんが目撃され、近くのそば店には、宇多田のサインが飾られていて、日付けは2008年10月22日だった。そのほか、近くの神社で福田天人氏と宇多田ヒカルさんお名前が併記された絵馬が奉納されていて「健康で暮らせますように福田天人 光」と書かれていました。
 しかしこの二人は最終的に破局しています。圭子さんの死後、宇多田ヒカルさんは2014年にイタリア人バーテンダーと結婚しています。イタリア人男性がヒカルにプロポーズされた時期は、「宇多田は昨年(2013年)の夏に15日間、(イタリア人)男性の出身地のプーリア州ファザーノ市に滞在していた。同所をとても気に入り、「ここで結婚しよう」とリクエストしたという( 2014年2月6日スポニチ)」報道もあり、2013年の夏にプロポーズされているようです。

 一方、2013年1月頃には、福田氏とは、普段は別々に暮らしていたそうです。別居かと思いきや、平日はロンドン近郊にある健康施設に住み込みで働き、土日は宇多田のところに帰る生活が続き、ヒカルさんからプロポーズも、大スターだけに「ヒモ」と見られるのが嫌だったのかも知れません。宇多田ヒカルさんは、2016.8.29づけのツイッターで「経済力のある男性が優しくてかわいくて自分を一番に思ってくれる女性(経済力低め)を選んだってなんの不思議にも思われないのに、性別が逆になると問題があるかのように思うのは非常に非理論的だ。男の子って大変ね」と述べています。※ヒカルさんの活動:歌: HEART STATION レーベルモバイル「レコード会社直営♪」CMソング、Fight The Blues EMIミュージック・ジャパン「モバえみ」CMソング TBS系『報道特集NEXT』テーマソング、Prisoner Of Love フジテレビ系ドラマ『ラスト・フレンズ』主題歌、Prisoner Of Love -Quiet Version- フジテレビ系ドラマ『ラスト・フレンズ』挿入歌、Eternally -Drama Mix- フジテレビ系ドラマ『イノセント・ラヴ』主題歌など

 さてヒカルさんは、2013年9月5日づけの「宇多田ヒカル・オフィシャル・サイト」で、「一連の記事で母の本名が誤って報道されていました。阿部純子ではなく、宇多田純子です。父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした。夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた2人でした。亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の1人です。遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です。その遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精いっぱいの弔いをしています」とコメントしています。

 では、ヒカルさんは、いつ頃から「母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合ってい」たのでしょう。圭子さんは、元夫の照實氏とは、「連絡を取り合っていた」兆候は多く見受けられます。「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」でも、すぐさま、藤圭子の所属する有限会社ユースリー・ミュージックの宇多田照實代表はコメントを出してます。また、同居人についても、「照實さんもヒカルさんも藤さんを心配し….もともと藤さんのマネージャーをしていた男性にお願いし、6年前から彼女の行動を見ていてもらうようにしたんです。」と話していますという報道を見てもわかります。(女性セブン2013年9月12日号から)
 しかしながら、宇多田ヒカルさんは、「本当は話しかけたくても、母親のほうから頑なに没交渉だった」と報道されていますので、いつから「連絡を取り合っていた」たかが気になります。

 このことについてのヒントは、「娘・ヒカルも結婚・離婚を経験し、3年前(2010年頃)に母親同様、突然無期限の音楽活動休止を宣言し、今は8歳年上の福田天人氏とロンドンに暮らしているという。「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。当然、福田氏は驚いた。そんな困惑をよそに、こう藤は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」。これだけ言うと、藤は帰っていった。」と2013年08月29日づけの「藤圭子・実兄の恨み「宇多田君(元夫)は生きてるときも死んでからも利用。もう妹を返して」とのタイトルで「元木昌彦の深読み週刊誌」で報道されていることです。https://www.j-cast.com/tv/2013/08/29182511.html?p=all
 時期を同じくして、圭子さんの実の母親澄子さんと金銭トラブルで疎遠になっいましたが、実兄の藤三郎氏は「三年前(2010年頃)、十数年来会っていなかったおふくろのところに圭子が来たそうです。同居していた男性に付き添われて。三千万円を出して「いままで親不孝してごめんなさい。これからちゃんと親孝行するから」って謝っていたそうです。」との記事も載っています。※ヒカルさんの活動:歌: Passion スクウェア・エニックスゲームソフト『KINGDOM HEARTS 358/2 Days』テーマソング、Beautiful World -PLANiTb Acoustica Mix- クロックワークス/カラー映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』テーマソングなどあいかわらず順調です。

 宇多田ヒカルさんが、福田天人さんとの交際が報じられたのは、2009年9月のことでした。しかし、すでに述べたように、2008年10月22日の時にはすでに交際は始まっていました。ですから、藤圭子が「娘を、よろしくお願いします」と告げに行くには「結婚を前提」に「娘を、よろしくお願いします」と言う意味で、少なくとも母親として娘のヒカルさんの話を聞き、確信のもと挨拶に行かれたと解釈するのが妥当で、少なくとも2008年末から2009年の前半頃までに、藤圭子と宇多田ヒカルの電話での「連絡を取り合」う状況に至ったものと筆者は考えています。

 敢えて時期を絞ると2009年1月以降と思っています。何故なら、圭子さんの元所属事務所「ユースリー・ミュージック」は2009年1月28日、圭子さんが2006年、米ニューヨークのケネディ国際空港で米国側に差し押さえられた現金約42万ドル(約3800万円)について、米国側が藤さんに全額返還することで両者が合意したと発表したからです。2006年3月の「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」ですが、圭子さんが所持していた多額の現金から、麻薬犬による検査で、微量の規制薬物が検出されたことから、米国司法省麻薬取締局は、現金が麻薬取引のためにすでに使われたか、あるいは使われる意図があったと結論付け、全額を没収されていました。 圭子さんは、差し押さえられた米ドルなど現金計約4900万円相当がギャンブルの資金で、「違法なカネではなく、麻薬への関与は一切ない」と話し、「現金はギャンブルなどで得たもの」とも言っています。この説明を元に捜査した結果、圭子さんの供述が認められ起訴されず、「現金」のみが差し押さえられたのでした。
 このことについて、「彼女の金遣いの荒さは業界でも有名。海外ではカジノ三昧だし、東京・新宿のホストクラブでは目が飛び出る額の高級シャンパンやワインをどんどん開けていたという噂も聞いた。近年はロスに借りていた超高級マンションの家賃の振り込みも滞ることがあり、東京に戻ってきていたらしい。ある知人には“今はもう2000万円くらいしか持っていない”と話していたようだ。カネが尽きるのは時間の問題だった」と言う「週刊ポスト2013年9月6日号」の記事は時期が前後し正しくありません。前半は2002年以降ことで、後半は2000年頃ことの内容でした。

 しかし、日本に戻りインタビューで経緯を説明しても、当時のアメリカでは「日本のポップクイーン(宇多田ヒカル)の母が麻薬取締局と戦闘中」という見出しの記事とともに没収手続きの書類もネットで公開されていたことから、インタビュー映像で見る限りは、「早口で一方的に話し、目の焦点があっていない。誰が見ても「危ない」状態」に見え、麻薬がらみの事件ゆえ圭子さん自身も薬物中毒ではないかと言う好奇の目で見られてし」まいます。目はについては、ヒカルさんを出産すると同時に網膜色素変性症を発症して、事件当時は悪化し、付き添い役の「同居人」(マネージャー)がいて、後に新宿のマンションで同居しています。

 没収されていた「現金」が返還されない以上、日本では麻薬取引の嫌疑はグレーのままで、世間に隠れて過ごすほかありませんでしたが、「2009年1月28日、藤さんが2006年、米ニューヨークのケネディ国際空港で米国側に差し押さえられた現金約42万ドル(約3800万円)について、米国側が藤さんに全額返還することで両者が合意したと発表」したことから、ようやく「無罪」だったことが証明されます。しかしながら「誰が見ても「危ない」状態」のままとの認識は残ったままでした。
 このような状況下で、ヒカルさんから父照實氏への働きかけで、母親である圭子さんとの「電話連絡」が認められたものと考えています。ヒカルさんは2007年に両親の最後の離婚を知らされていましたが、恐らく父親である照實氏からは、圭子さんが若いマネージャーと暮らすことになったので離婚したことや、今後のヒカルさんとの関係も圭子さんが親権も放棄したので、これまでどおり照實氏とヒカルさんの二人三脚で進めることも「報道」で知らされていたものと思います。
 ヒカルさんと母親の圭子さんとの「電話連絡」の話題は、福田天人さんとの交際がメインになっていたものと推察します。何故、対面での話しあいができなかった理由としては、同居しているマネージャーは、目が不自由になっていた圭子さんの補助者としての役割が知らされていなかったので、「男女の仲」であると考えていたヒカルさんは、ロンドンという遠距離にいたことよりも、マネージャーに遠慮し、「電話」での連絡になったものと考えています。

(10)疑問が残る「報道」について
 疑問が残る「報道」としては、ふたつあります。それは、2007年の圭子さんと離婚報道です。もうひとつは、2009年の奇行報道です。
 前者は、「最後の離婚」報道だけでよいのに照實氏は、圭子さんがヒカルさんの「親権」を放棄して、圭子さんの元に「財産分与で娘の宇多田が稼いだ数百億円の財産の一部を手にしたそうだ。(日刊サイゾー2013.3.18より)としています。
 また、2009年に、圭子さんがケネディ国際空港で米国側に差し押さえられた現金約42万ドル(約3800万円)について、米国側が圭子さんに全額返還することで両者が合意したことの報道とともに、この時期、「圭子さんの携帯電話がつながらなくなり、奇行が始まった」、「携帯電話は勝手に解約しちゃうし、誰も連絡が取れない。北海道のすすきのや、四国の山中で目撃されたこともあった。娘の宇多田も母親の所在を把握しておらず、心配していた」(芸能プロ関係者)と報道されています。(日刊サイゾー 2010年8月16日より)

 前者の2007年段階での報道は、ケネディ国際空港で米国に差押さえられた「現金」の返還前のことで、返還されず麻薬関連の「現金」として捜査されている状況下で、どうのような判断が下されても、宇多田ヒカルの歌手活動に影響を与えないよう圭子さんと照實氏の「話しあい」によって、圭子さんがヒカルさんの「親権」を放棄して、圭子さんの元に「財産分与で娘の宇多田が稼いだ数百億円の財産の一部を手にしたように「偽報道」を行ったようにも見えます。圭子さんの死後、圭子さん戸籍は照實氏の戸籍にあり、事実として「離婚」をしていなことからも同様なことが見えてきます。

 また後者の2009年の報道については、ケネディ国際空港で米国に差押さえられた「現金」が全額返還されることをコメントしていながら、奇行報道がなされたのも、どうしても圭子さんがマンションから出て行動をしなくてはならない場合を考慮して報道した「偽報道」と考えた方がよいような気がします。当然ながら「現金」の返還手続きに圭子さん本人が出向かなければならない場合のもので、もしかすると照實氏もヒカルさんの圭子さんが「日の当たる場所」に現れることも計算に入れていたのかもしれません。

 ここで2006年から2009年までの藤圭子さんの心情の推移を、情報が少なく難しいのですが、仮説的に述べてみたいと思います。「ギャンブルの旅」をはじめた初期から「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」までの圭子さんは、宇多田ヒカルを無名の帰国子女ととして売り出ため、演歌とは無縁な米国育ちの娘・宇多田ヒカルとしてデビューさせるために「藤圭子」を遠ざけるという仕打ちに、不満を持っていたものと思われます。
 家族ユニット「U³」の解消と藤圭子の歌手封印を断行されて只のRa U.としても宇多田純子としても、ヒカルさんの音楽活動に携われない理不尽さに、私が「藤圭子」にならなかったなら、こんなことにはならなかったと、「藤圭子」を世に出した恩師石坂まさをと実母澄子さえも怨んでいたようにみえます。

 また、2013.08.26 宇多田ヒカル・オフィシャル・サイトMESSAGE from Hikki - Hikaru Utada Official Website上で「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました」と藤圭子の自死の経緯を説明し、「家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失って」いたと述べています。多田照實氏も「感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのこと」と言い、「自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。」述べています。
 圭子さんも、2006年のインタビュー後、旧知の芸能記者に「久しぶりに日本に帰ってきたけど、話す人がいない。寂しい」と孤独感を吐露し、その記者には「感情を抑えることができない。パニック障害と診断された」と、病名も明かしていたと言います。この頃になると、知り合いに、「誰にも知られずにひっそりと死んでいきたい」と洩らすほどでした。
 ここでも明らかですが、宇多田ヒカル・オフィシャル・サイトMESSAGE from Hikki - Hikaru Utada Official Website上で「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました」とありますが、「パニック障害と診断された」といいますので病院などには行かれたようにみえます。パニック障害になりやすいのは、もともと不安や恐怖心が強いタイプの人で、内気で人見知りが強く、親から離れるのが不安だった人や、高所や閉所、犬などを怖がっていた人などは、なりやすい性質を持っているといえます。 また多くの場合、ストレスが過度にかかってピークに達したときに、病気が起こりやすくなります。圭子さんも家族から離れ不安やストレスが過度にかかっていたのではないでしょうか。

 2006年3月に「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」で押収された多額の現金から、麻薬犬による検査で、微量の規制薬物が検出され、現金が麻薬取引のためにすでに使われたか、あるいは使われる意図があったと結論付け、全額を没収されます。
 当初圭子さんは多額な「お金」を持ち歩いていたため「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」が起きたと考えていたようです。何故かというと、「2005年に藤さんとA氏がオーストラリア旅行に行ったそうで、その時、A氏が多額の現金を所持していたため、通貨法違反で現地当局に逮捕され」ています(2013.08.22 17:38 NEWSポストセブン「転落死した藤圭子さん「家族から孤立していた」との証言も」より要約)。このA氏こそ、圭子さんの自死したマンションの「同居人」なのです。
 飛行機内に持ち込める現金やトラベラーズチェックは100万日本円や10,000米ドルまですので、それで捕まったと勘違いし、「当時ウイン(ホテル)に泊まっていたんですね。ラスベガスのウイン(ホテル)というのは、スティーブ・ウインという人がつくった一番新しいホテルで、そこのレセプションデスクのその人に誰か証人になってもらおうと…」というわけでした。しかし、実際の嫌疑は、犯罪にかかわる現金かもしれれないと、判断した当局がは藤さんへの事情聴取のあと、麻薬探知犬による検査を行った。すると「この現金」に反応したという。もちろん、圭子さんは麻薬とは一切関係ないと主張しましたが、「この現金」が没収されることになり、結果的に夫の照實氏に連絡し、相談と対応をお願いしたと考えています。照實氏は事務所の社長としては「麻薬とは一切関係ない」とコメントし、後日、違法な麻薬がらみの事件でないことを明らかにするため、テレビインタビューで釈明することになります。

 圭子さんは、テレビインタビューでの釈明したものの、順風満帆に活躍している娘の宇多田ヒカルに悪影響がでなようにするために、藤圭子、Ra U.または宇多田純子としての音楽活動は諦める外はなく、差し押さえられた「現金」が返還され、無罪が証明されるまでは、娘の宇多田ヒカルとの関係も絶つ覚悟でいたのではないかと思われます。このインタビュー後、圭子さんが再び行方不明になります。定宿を変えながら身を隠し、2006年10月から年末頃に、終(つい)の棲家(すみか)になる新宿のマンションに移り住みことになります。

 この頃になると、ケネディ国際空港で米国に差押さえられた「現金」の返還前のことで、返還されず麻薬関連の「現金」として捜査されている状況下で、どうのような判断が下されても、宇多田ヒカルの歌手活動に影響を与えないように、照實氏との「最後の離婚」と「宇多田ヒカルの親権の放棄」を報道したと思われます。どうして圭子さんは考えていたのでしょう。あくまで憶測の域を出ませんが、圭子さんの事件後も、ヒカルさんと夫の照實氏は順調すぎるほどヒット曲を次から次へとだしています。圭子さんは、ヒカルさんは早くから「天才」と信じていましたが、夫の照實氏も一流のプロデューサーとして世に認められていました。ここに圭子さんの「歌手人生」の総括がなされ、「新しい音楽」に導いてくれたのは夫の照實氏であり、その力により宇多田ヒカルは更に輝きを増したことに気がつきます。そして、圭子さん自らの力量不足を悔み、圭子さんの助言は、ヒカルさんと夫の照實氏の足を引っ張るだけで、これからは、ヒカルさんと夫の照實氏に全てを任せ、「藤圭子」は、「誰にも知られずにひっそりと死んでいきたい」、それが家族にとって大切な事のように感じ始めたのではないかと思います。

(11)ヒカルの連絡再開と「藤圭子」の終焉
 ヒカルさんと母親の圭子さんとの「電話連絡」の再開は、福田天人さんとの交際がメインになっていたものと推察します。時期は、2009年1月以降でケネディ国際空港で米国に差押さえられた「現金」の全額返還が決定し、暫くたった時と思われます。特に対面での話しができない理由としては、ケネディ国際空港で米国での現金差押事件後も、宇多田ヒカルは大手プロダクションに所属しているわけではなく、両親がレコード会社と相談してスケジュールを決めていることもあり、母親の藤圭子が表に出ると、昔世話になった人(暴力団)に口説かれ、断れなくなることを恐れてのことだったのではと思われます。ですから、世の中では「藤圭子」は行方不明のだから、表に出ることは極力避けていたと思われます。

 照實氏はこの頃になると、圭子さんの行動に一定の「自由」を与えていたものと思われます。2010年になると、前後は明確ではありませんが、「実母と再会」と「福田(天人)家訪問」を行っています。
 「実母と再会」については、藤圭子の実の母親澄子さんと金銭トラブルで疎遠になっいましたが、実兄の藤三郎氏によると「三年前(2010年頃)、十数年来会っていなかったおふくろのところに圭子が来たそうです。同居していた男性に付き添われて。三千万円を出して「いままで親不孝してごめんなさい。これからちゃんと親孝行するから」って謝っていたそうです。」との記事も載っています。澄子さんについては、2010年11月に亡くなりますが圭子さんは葬儀に出ていません。
 次に、「福田(天人)家訪問」ですが、娘・ヒカルも結婚・離婚を経験し、3年前に母親同様、突然無期限の音楽活動休止を宣言し、今は8歳年上の福田天人氏とロンドンに暮らしているという。「二人が同棲を始めてからのことです。ある夜、突然、藤さんがいらっしゃったんだそうです」と語るのは福田氏の祖母である。恋人の母親の急な来訪。当然、福田氏は驚いた。そんな困惑をよそに、こう藤は告げたそうだ。「娘を、よろしくお願いします」。これだけ言うと、藤は帰っていった」とあります。(2023年 3月 15日 (水)Jcast テレビウォッチより)※ヒカルさんの活動:歌:Hymne à l'amour 〜愛のアンセム〜 サントリー食品「ペプシネックス」CMソング、 Can't Wait 'Til Christmas、Goodbye Happiness 「レコチョク」TVCMソング、嵐の女神 森永製菓「1チョコ for 1スマイル」キャンペーンソング
 
 2010年1月にヒカルさんは福田天人氏と一度破局するが、その後すぐ復縁しているという情報もありました。圭子さんの「福田(天人)家訪問」はこれを踏まえたものだったと考えています。ヒカルさんは、本当は圭子さんと対面で話したかったのではないでしょうか。

 8月10日、宇多田ヒカル“「アーティスト活動」を止めて「人間活動」に専念します”と宣言します。来年(2011年)から、しばらくの間は派手な「アーティスト活動」を止めて、「人間活動」に専念しようと思います。これは「引退宣言」ではありません!でも、「休養」でも「充電期間」でも無いんです。むしろ熱心に、そして謙虚に、新しいことを勉強したり、この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、一個人としての本当の自分と向き合う期間になると思います。それは「アーティスト活動」とは違う、「人間活動」かな、と。

 11月21日ヒカルさんは、東京・六本木でFM局・J-WAVEのラジオ番組「TOKIO HOT 100」の公開生放送に出演した際、「50歳くらいになった時、マネージャーなしじゃ何もできないおばさんにはなりたくなかった。イタイ大人になっていくのはかっこ悪い」と言っています。※ヒカルさんの活動:ライブ:2010年1月15日 - 2月12日 Utada "In The Flesh" 2010 Tour (宇多田ヒカル)、2010年12月8日・9日 WILD LIFE (宇多田ヒカル)。歌:2011年 Show Me Love (Not A Dream) 東宝系映画『あしたのジョー』主題歌

 2011年「残間里江子ブログ 駄目で元々雨、アラレ」によると、「2年ほど前(2011頃)だったろうか、照實さんと会って、いろんな話をしたのだが、この時夫婦は既に、何回目かの離婚をしていたのだが、「何といってもヒカルの母親だからね。純子(圭子さん)が望むことには出来るだけ応えて、サポート出来ることは、したいと思っているんだよね」と、保護者のような、あたたかな表情で、元妻を語る照實さんにも驚いた」とあります。恐らく表面上相対で家族と会って話し合うことを圭子さん自身が避けていたと思われます。

 音楽活動を休止しているヒカルさんは、人間活動宣言から3ヶ月、彼(福田天人氏)と一緒の生活を楽しんでいたようです。そんなふたりが2011年3月1日都内のマンションから姿を現した。タクシーを止めて乗り込むと向かった先は東京駅。「急いで、時間がないから」と彼に急かされた宇多田は、小走りで駅のホームへ。「いきなりすっぴんの宇多田さんが飛び込んできたので、もうびっくりです。男性に見せる笑顔と声ですぐ宇多田さんだとわかりました」(同じ車両に乗っていた人)。ふたりが下車をしたのは、終点の伊豆急下田駅。ふたりは大柄な男性が迎えにきた車に乗り込みどこかえ消えていったといいます。「宇多田さんは花見が大好き。2011年3月初旬のひな祭りの時は、早咲きの河津桜が伊豆一帯で咲き誇るシーズンです。この時期は桜まつりで賑わうので、花見旅行だったのではないでしょうか?」(音楽関係者)気になる伊豆駅で宇多田を迎えにきた男性についてだが。「彼のお父さんでしょうね。お父さんは信州で自然のよさを楽しめる宿泊施設を経営しているのです。宇多田さんもそんな彼の父親に影響を受けているようです」(音楽関係者)。

 2012年7月、圭子さんの誕生日に、ヒカルさんはツイッターでこうつぶやいている。《『面影平野』歌うカーチャン、すごくかっこ良くて美しい》※ヒカルさんの活動:歌 : 桜流し ティ・ジョイ/カラー映画『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』テーマソング

 2013年になると、再びヒカルさんと福田天人さんとの仲が怪しくなります。「2013年1月頃、福田氏とは、普段は別々に暮らしているそうです。別居かと思いきや、平日はロンドン近郊にある健康施設に住み込みで働き、土日は宇多田のところに帰るそうです。いくら宇多田が大スターでも“ヒモ”になるのは嫌なのだと思います」(2016年6月25日アナエンタより)。※ヒカルさんの活動:ラジオ:2013年4月16日 - 2014年3月18日 KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru InterFM 活動休止中 月1放送、全9回

 2013年3月18日、恩師 石坂まさを氏(いしざか まさを、本名:澤ノ井 龍二)が死去します。そして、2013年8月23日開催の「石坂まさをのお別れの会」の前日、2013年8月22日に藤圭子自殺の速報が突然が入ります。

(12)藤圭子の自死
  2013年8月22日午前7時ごろ、東京都新宿区西新宿のマンション前の路上で、歌手の藤圭子さんがあおむけの状態で倒れているのが見かります。警視庁新宿署によると、圭子さんは病院に搬送されましたが、頭などを強く打っており間もなく死亡しています。
 マンション13階の一室に藤圭子さんと知人の30代男性(同居人)が住んでおり、遺書などは見つかっていませんが、ベランダにスリッパの片側が落ちていたことなどから、同署は藤圭子さんが飛び降り自殺したとみています。
 同署によると、通行人がマンションから女性が転落したのに気付き、110番通報。圭子さんの元夫の宇多田照實さんが藤圭子さんと確認したとあり、同署員が知人男性宅を訪れたとき、男性は1人で寝ており、藤さんがいなくなったことに気付かなかったといいます。藤さんの遺体は、一時新宿署に安置されますが、元夫照實氏が身元確認を行い、遺体が引き渡されています。

 23日昼の午後0時15分に照實氏とともに東京・新宿署を出ています。50分後、目黒区碑文谷の葬祭場に到着し、搬入から1時間半経過した午後2時半過ぎ、葬儀社の男性が宇多田氏の伝言として次の3点を取材陣に伝えた。(1)故人の遺志により面会はご遠慮いただきたい。(2)葬儀は行わない。火葬のみとする。(3)出棺の日程は未定。葬儀社によると「ご遺体は安置されていますが、祭壇などは設けていません。ご家族だけが中に入ることになると思います」と。
 娘の宇多田ヒカルさん(光さん)は、所属レコード会社によると「活動停止の状態にあるため所在は確認できていません。今後の行動やコメントについても分かりません」とコメントしています。そして圭子さんの「自死」については、照實、光親子は、4日後8月26日にコメントを発表しています。

 コメントの概要は、平成25(2013)年8月26日づけのもので、ヒカルさんは、「彼女(圭子さん)はとても長い間、精神の病に苦しめられていました。その性質上、本人の意志で治療を受けることは非常に難しく、家族としてどうしたらいいのか、何が彼女のために一番良いのか、ずっと悩んでいました。幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました。私はただ翻弄されるばかりで、何も出来ませんでした。
 母が長年の苦しみから解放されたことを願う反面、彼女の最後の行為は、あまりに悲しく、後悔の念が募るばかりです。誤解されることの多い彼女でしたが… とても怖がりのくせに鼻っ柱が強く、正義感にあふれ、笑うことが大好きで、頭の回転が早くて、子供のように衝動的で危うく、おっちょこちょいで放っておけない、誰よりもかわいらしい人でした。悲しい記憶が多いのに、母を思う時心に浮かぶのは、笑っている彼女です。母の娘であることを誇りに思います。彼女に出会えたことに感謝の気持ちでいっぱいです。沢山の暖かいお言葉を頂き、多くの人に支えられていることを実感しています。ありがとうございました。(宇多田ヒカル・オフィシャル・サイトに掲載されたコメント2013.08.26づけ)とあります。
 同じコメントで照實氏は「ご報告と謝辞」として、「歌手藤圭子の大勢のファンの皆様、そして宇多田ヒカルのファンの皆様に多大なご心配と世間をお騒がせしていることに対して、所属事務所代表として、また25年間連れ添った元夫として心からお詫びを申し上げます。また、宇多田ヒカル並びに僕に対して沢山の心の籠った暖かいお言葉、お悔みをいただいたことに対しては、この場を借りて感謝の意を表明させていただきます。通夜、葬儀に関しては、故人の遺言書に書かれていた本人の強い意志に従い、執り行わないことにしました」とあります。

 圭子さんの自殺から5日目の2013年8月27日の朝、宇多田ヒカルが亡き母と対面を果たします。圭子さんの遺体が安置されていた東京・目黒の碑文谷会館を訪れ、約40分間の対面を終えると、ヒカルさんは、霊きゅう車の助手席に座り、都内の斎場に向かいました。斎場では、宇多田照実氏や数人の関係者と火葬に立ち会っています。
 場内でヒカルさんを見かけた人によると、取り乱すことなく静かに振る舞っている姿が印象的で、「涙は浮かべておらず、気丈に振る舞っていた。うつむきながらも、心の中で何か区切りをつけたような表情に思えた」といいます。火葬が終わると、斎場スタッフの誘導で足早に駐車場に止めていた車に乗り込んでいます。その間、照實氏らと会話する様子は見られなませんでした。午前10時40分、スタッフらに深々と一礼して、斎場を後にしたといいます。(「宇多田ヒカル、母と最後の40分」2013年8月28日7時21分 日刊スポーツ紙面から)また、「週刊文春」(9月5日売り号)によると、「芸能関係者の証言として「ヒカルは母親を埋葬して、数日後、お骨を持たずにロンドンに戻ったようです」とあります。

 圭子さんの実兄で歌手の藤三郎氏(本名阿部博氏)の元に先月(2013年9月)18日、圭子さんの長女で歌手、宇多田ヒカルさんから手紙が届き、その中に「母の意志に沿い通夜葬儀納骨は行わず なお且つ母の強い指示で遺骨は散骨させて頂きました」とあったといいます。

(13)圭子さんの自死前後の様子
 宇多田照實氏は2013年8月26日づけのコメントで、「最後に僕が純子と会話をしたのは今年の8月14日でした。純子からでした。この時は珍しく明るい口調で、元気そうな純子の声でした。約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました。その8日後の自殺となってしまいました。純子として覚悟の上での投身自殺だったのか、衝動的に飛び降りてしまったのか、今となっては知りようがありません」と述べています。
 「純子として覚悟の上での投身自殺」としたら、「黒っぽい無地のTシャツに七分の短パン姿」はないかなと思う反面、午前6時59分という微妙な時間は巻き添えを考慮したのかなとも思うのです。

 2022年6月7日のVogueでの「最新アルバム『BADモード』、母、息子、そして音楽と自分……。ジェーン・スーのインタビュー」でヒカルさんは、「母親が亡くなるちょっと前、それまでほとんどこっちからは連絡できない状態で、向こうからもほとんどなかったんですが、急に連絡が増えた時期があって。そこで、カウンセリングを受けないと私もダメになっちゃいそうというか、持っていかれちゃうなって、友達にカウンセラーを紹介してもらったんです。でも、カウンセラーに会いに行った日に母が亡くなっちゃったんですね」と言っています。一方、2014年2月3日の(MESSAGE from Hikki - 宇多田ヒカル)の中では、「近々、結婚することになります。結婚式などを静かに済ませた後にお知らせできればと考えていましたが、既に問い合わせがあり噂になっているようなのでこのタイミングでご報告させていただきます。自分でも意外でちょっと笑ってしまいますが、相手はイタリア人の男性です」と述べたが、追伸のように「あと…喪中であるため、結婚を延期すべきか悩みましたが、母との最後の会話の中で彼の話をした際、「こんなに嬉しそうな母の声を聴くのは何年ぶりだろう」と思うほど喜んでくれていたので、きっと母も応援してくれてると信じて予定通りに結婚を進めることにしました」と書いています。

 ヒカルさんの「母との最後の会話」が「母親が亡くなるちょっと前、…急に連絡が増えた時期があって。そこで、カウンセリングを受けないと私もダメになっちゃいそうというか、持っていかれちゃうなって、友達にカウンセラーを紹介してもらったんです。でも、カウンセラーに会いに行った日に母が亡くなっちゃったんですね」という時期が同じなら、ほぼ同時期に、圭子さんは照實氏とヒカルさんに電話連絡をしていたことになると思います。※「宇多田は昨年の夏に15日間、男性の出身地のプーリア州ファザーノ市に滞在していた。同所をとても気に入り、「ここで結婚しよう」とリクエストしたという( 2014年2月6日スポニチ)」報道もあり、2013年の夏にプロポーズされていて、これも同時期で合致します。※ヒカルさんとフランチェスコ・カリアーノさんは、2012年頃に、カリアーノさんが働いているバーで偶然で会ったといいます。カリアーノさんは出会った当初、宇多田ヒカルさんが芸能人ということは知らなかった様ですが、2013年にプロポーズされ結婚に至った様です。

 ヒカルさんとイタリア人の男性との結婚について、「こんなに嬉しそうな母(圭子さん)の声を聴くのは何年ぶりだろう」と思うほど喜んでくれていた」と言うのですが、一方で「カウンセリングを受けないと私もダメになっちゃいそうというか、持っていかれちゃうなって」思ったということは、圭子さんの言動に何か異変を感じていたように思えます。
 これは全くの作り話ですが、ヒカルさんのはじめの結婚相手である映像作家の紀里谷和明さんの時は結婚式も挙げずウエディングドレスも着ていません。ですから「今度はちゃんと結婚式も挙げ、ウエディングドレスも着るから、ママも出席してね」とお願いしたとします。普通は「わかった」と答えると思ったら、「私が式にでると「藤圭子」になるから、無理」、「藤圭子だと、また嫌なことが起きる。ヒカルやパパも本当は嫌何でしょ!」と答えたとすると、ヒカルさんのコメントにあるように、「家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失って」いるように感じ、「カウンセリングを受けないと私もダメになっちゃいそう」という状況がうまれたのかという筆者の「妄想」が浮かびます。

 圭子さんとヒカルさん、照實氏との間に埋めることのできない溝があったのかと思うほかはありません。とは言え2013年9月5日づけの「宇多田ヒカル・オフィシャル・サイト」で、「父と離婚後も、母は旧姓の阿部ではなく宇多田姓を名乗ることを希望し、籍も父の籍においたままでした。夫婦だとか夫婦ではないなんてこと以上に深い絆で結ばれた2人でした。亡くなる直前まで、母は娘である私だけでなく、父とも連絡を取り合っていました。父は、母が最後まで頼っていた数少ない人間の1人です」と言うのも頷けます。

 しかし「籍も父の籍においたまま」というのは「戸籍上は夫婦」であり離婚していないことになります。ですが、平成25(2013)年8月26日づけの宇多田ヒカル・オフィシャル・サイトに掲載されたコメントの「ご報告と謝辞」の中で、照實氏ははっきりと「25年間連れ添った元夫」とのべ2007年離婚にこだわっています。それに何故、宇多田ヒカルさんは、伯父の藤三郎氏に対して、2013年10月11日のツイッターで「身内の者が世間をお騒がせしております。お恥ずかしい限りです。度々小遣い稼ぎに利用され傷ついた母が長年絶縁していた相手とはいえ、身内を悪くは言いたくないのでこれまで静観していました。彼が本当に母のためを思うならば公の場で醜態をさらさずに私に直接訴えればよいことです」、「テレビや雑誌に出る度にギャラをもらっている人の発言・動機を鵜呑みにするような人達にどう思われようが構いませんが、汚い嘘に傷つき追いつめられる父を見て黙っていてはいけないと思いました。四十九日も過ぎました。母が安らかに眠れるように、この騒ぎが一刻も早く終息を迎えることを切に願います」とあれほどまで厳しく、叱責しているのでしょうか。
 三郎氏は「宇多田ヒカル名で「母の遺骨は散骨しました」などと記した手紙が届いたことを明かす一方で「この手紙を本当に(宇多田が)書いたかどうか分からない」と主張ただけなのに、「汚い嘘」と反論しているのは、三郎氏の「元夫で音楽プロデューサーの照実氏を「遺体への面会を拒絶」、「家族をバラバラにした」などと批判」したことが腹に据えかねたのでしょうか。このことについては、宇多田照實氏の代理人と称する弁護士Mから、2013年9月26日付けで、居丈高な恫喝的な「警告文」が届いたといいます。藤三郎氏の報道機関における発言に対しての警告で、その内容は、三郎氏の発言を基にした「週刊文春」や「週刊現代」の記事が虚偽の事実によって、宇多田照實氏を誹謗・中傷し、その名誉を不当に毀損するもので、速やかな撤回と、照實氏に対する真摯な謝罪を求めるというものだったと言います。

 「家族をバラバラにした」、どこかで聞いたような。そうだ、「バラバラになったコラージュ 捨てられないのは 何も繋げない手 」、ヒカルさんの、「Be My Last」の歌い出しの言葉だ。「母さんどうして 育てたものまで 自分で壊さなきゃならない日がくるの? バラバラになったコラージュ 捨てられないのは 何も繋げない手 君の手つないだ時だって…」。つまり、宇多田一家をバラバラにしたのはお母さん、つまり圭子さんがバラバラにしたと言っているのかもしれない。発売日は2005年9月28日だ。照實氏もヒカルさん同様に考えていたのら、照實氏の居丈高な恫喝的な「警告文」も分かる気がします。
 例の同居人については、照實氏もヒカルさんも何もコメントしていないのも不思議です。圭子さんは、2007年頃に自殺した新宿のマンションで同居人とともに暮らしはじめます。そして、「照實さんもヒカルさんも藤さんを心配していたんですが、彼女の中でふくらんだ被害妄想はとんでもなく大きくなっていて、とても一緒にはいられなかった。それで照實さんは、もともと藤さんのマネージャーをしていた男性にお願いし、6年前から彼女の行動を見ていてもらうようにしたんです。自殺したり、間違いを起こしたりしないための監視役みたいなものでした。藤さんもいい気持ちはしなかったでしょうが、話し相手がいないよりはましと思ったのかもしれません」と話しています。(女性セブン2013年9月12日号から)

(14)圭子さんの中でふくらんだ被害妄想とは
 次に、圭子さんの中でふくらんだ被害妄想とはどのようなものなのかを考えてみたいと思います。「藤圭子」をヒカルさんの音楽活動から遠ざけた結果、その寂しさを埋めるため「ギャンブルの旅」に出たものの、「JFK国際空港における米国司法省麻薬取締局による現金差押事件」後は、ギャンブルもできなくなり、マンションの一室でひっそりと暮らすことを余儀なくされてしまう。
 圭子さんは、このように次々と起こる「不都合なこと」が全て宇多田純子ではなく「藤圭子」に関係しているように思えるようになり、このことに恐怖を覚え、そのことが母親の葬儀や恩師石坂まさをの葬儀にも出られなった理由と考えています。
 そこに「8月23日に行われる石坂まさをを偲ぶ会」への出席依頼があったので断りきれず「出席」の返事はしたものの、自死を決意するに至り「私がもし死んだら、葬儀は執り行わず、火葬にして海に散骨して欲しい」旨、ヒカルさんと照實氏に電話で伝え、「石坂まさをを偲ぶ会」の前日22日に「藤圭子」の幕を自ら引くことになったのだと思われます。「私がもし死んだら、葬儀は執り行わず、火葬にして海に散骨して欲しい」とは、「藤圭子」を永遠に葬り去る「遺言」であり、文書でも認(したた)めていたので「遺言書」とされたものと思われます。ですから、ヒカルさんは「遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました。他の解釈の余地の無い、母らしい、非常に率直な遺言書です。その遺言書の内容に基づき、出来る限り母の意向に沿うべく精いっぱいの弔いをしています」とコメントしている理由だと思います。※藤圭子復帰時に音楽プロデユーサーを務めた酒井政利は、藤圭子と共通の知人を介して、「藤圭子が8月23日に行われる石坂まさをを偲ぶ会に出席する」と聞いていたと話していたと言う証言があります。(2015年8月9日Asagei+)

 この被害妄想の背景に関してこんな記事もあります。「デビュー前、藤さんは宇多田を本格派の歌手にしようと熱心に動き回り、ステージママのようになっていた。照實氏はそれほど乗り気ではありませんでした。ところが、日本でメジャーデビューが決まる前後から宇多田の売り出しは照實氏が中心になり、ブレイク後は藤さんが「外される」ようになった。利益分配も当初は夫婦で分け合っていたのに、段々と藤さんは蚊帳の外にされ周囲に不満を漏らしていたそうです。照實氏にしてみれば、精神的に不安定な藤さんを娘の売り出しに関わらせると問題が起きかねないと危惧した面もあったのでしょうが…。病気の影響もあって藤さんは“被害妄想”を募らせ、照實氏や宇多田に対する攻撃が過激化していった」(芸能関係者)

 例えば、「1996年頃だった。新宿・歌舞伎町の台湾料理屋で宇多田照實さんと藤圭子と彼女を世に出した石坂まさをさんと、4人で会ったんだ。2時間ぐらいだったな。その時、デモテープを聴かされたけど、私は魅力を感じなかった。私は怨み歌の藤圭子が好きですから、そういうものではなかったから。本人は、演歌から転換したかったんだと思うけど、私は力を感じなかった。中途半端な歌謡曲って感じで。石坂さんも乗らなかった。ヒカルちゃんについては『この子はアメリカで歌の勉強をしているけれど、絶対にデビューするから』と自信満々に自慢していたけど、結局は石坂さんに自分を売り込みに来たんだよ」 それから1年半後、宇多田ヒカルは鮮烈なデビューを果たした」とある(藤圭子 作家・大下英治が今も忘れない「歌舞伎町で食事した夜」Asagei+ 2014年1月9日 )。

 2013.08.26 宇多田ヒカル・オフィシャル・サイトMESSAGE from Hikki - Hikaru Utada Official Website上で「彼女はとても長い間、精神の病に苦しめられていました」と藤圭子の自死の経緯を説明し、「家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失って」いたと述べています。
 照實氏も「感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのこと」と言い、「自分の母親、故竹山澄子氏、に対しても、攻撃的な発言や行動が見られるようになり、光と僕もいつの間にか彼女にとって攻撃の対象となっていきました。しかし、感情の変化が頻繁なので、数分後にはいつも、「ゴメン、また迷惑かけちゃったね。」と自分から反省する日々が長い間続きました。」述べています。
 つまり、「精神の病」による「感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのこと」とは、1988年頃を指していて、「日本で(宇多田ヒカルの)メジャーデビューが決まる前後から宇多田の売り出しは照實氏が中心になり」とは、1997年にCubic U「U³」(宇多田ヒカルがメインボーカル)としてソロシングル「Close To You」とアルバム「Precious」を発表。1997年秋、東京のスタジオでレコーディングをしていたところ、隣のスタジオにいたディレクターの三宅彰の目(東芝EMI(当時)のプロデューサー)にとまり 日本デビューを持ち掛けられ」ているから、1997年秋頃で、「ブレイク後は藤さんが「外される」ようになった」とは、「1999年に宇多田ヒカルが「Automatic」で鮮烈なデビューを飾り、あっという間にミリオンセラーを記録、続くセカンドシングル「Movin'on without you」も大ヒットする」とあるから、1999年以降に「藤(圭子)さんが「外される」」ることになったと思われる。そして、「照實氏にしてみれば、精神的に不安定な藤さんを娘の売り出しに関わらせると問題が起きかねないと危惧した面もあった」と言っています。そして、「(精神の)病気の影響もあって藤さんは“被害妄想”を募らせ、照實氏や宇多田に対する攻撃が過激化していった」と言うのが、圭子さんの「被害妄想」発症の経緯とされています。

 先の説明によると、「ブレイク後は藤さんが「外される」ようになったとい事実。このことで、「所謂ヒカル・マネー」の利益分配も当初は夫婦で分け合っていたものが、段々と圭子さんは蚊帳の外にされ、周囲に不満を漏らしていた」という事実。このことが「被害妄想」を生む条件で、それにより圭子さんが「照實氏や宇多田(ヒカルさん)に対する攻撃が過激」になっとしている。このことが「圭子さんの中でふくらんだ被害妄想」のなかみでとしています。
 そして、「照實さんもヒカルさんも藤さんを心配していたんですが、彼女の中でふくらんだ被害妄想はとんでもなく大きくなっていて、とても一緒にはいられなかった。それで照實さんは、もともと藤さんのマネージャーをしていた男性にお願いし、6年前から彼女の行動を見ていてもらうようにしたんです。自殺したり、間違いを起こしたりしないための監視役みたいなものでした。藤さんもいい気持ちはしなかったでしょうが、話し相手がいないよりはましと思ったのかもしれません」(女性セブン2013年9月12日号から)と照實氏や宇多田(ヒカルさん)は考えていたようです。
 これが真実とすると、「所謂ヒカル・マネー」の利益分配の問題で「被害妄想」を生じ、「照實氏や宇多田(ヒカルさん)だけで「所謂ヒカル・マネー」の利益分配し、圭子さんにはそれに見合う利益、つまりお金をもらえない」と被害妄想がふくらみ、自殺したという様に聞こえます。そうだとすると、圭子さんは、利益分配に対する抗議の「自殺」とも言っているように思えます。もしこのように照實氏やヒカルさんが「藤圭子」を理解しているとすると、筆者が知っている「流星ひとつ」の「藤圭子」像と大きく異なり到底理解ができないのです。

(15)宇多田ヒカルの反応
 2013年8月28日の「スポニチ」Webで「歌手の宇多田ヒカルが27日、亡き母と悲しみの再会を果たした。母親で歌手の藤圭子さんがマンションから身を投げ、62歳で亡くなった22日から6日目。遺体の安置された都内の葬儀所を訪れた。父で藤さんの前夫の音楽プロデューサー・宇多田照實氏らと火葬に立ち会い、最後の別れを惜しんだ」と書かれている。

 翌29日の「J-CASTニュース テレビウォッチ」では、実兄の藤三郎さんの話を報道している。「「二十二日の午前中に、ある方から「圭子ちゃんが飛び降りた!」という一報を聞きました。翌日(23日)、遺体が安置されている新宿署に駆けつけました。「実の兄です」と言ったら、警察は慇懃な感じで「証明書を見せろ」という。証明書を見せて、「遺体と面会したい」と言っても、のらりくらりと拒否をするのです。そして「もし、娘の宇多田ヒカルさんが遺体を引き取れないということがあるなら、私が引き取りますと申し出たら、警察は「それは百%ありえません」と断言するのです。おかしいのは遺体の身元引き受け人が宇多田(照實)君だということなんです。圭子は宇多田君とは離婚して籍が抜けているし、他人なのです。せめて面会だけでもと思い、警察に電話番号を渡して、『宇多田君に電話をくれるように伝えてくれ』と言いました。しかし、連絡は一切ありません。彼には圭子を私に会わせるつもりがないのでしょう。宇多田君はこれまでも圭子と家族を切り離し、会わせないようにしてきました。圭子が死んでもなお、同じことを続けるのかと絶望的な気持ちになりました」とあります。

 自殺報道の直後の同年9月5日号の「週刊文春」では圭子さんの兄・藤三郎氏が独占インタビューに応じ「家族をバラバラにした宇多田照實を許さない」 と衝撃告白。「照實氏の意向で圭子の遺体と対面すらできない」「通夜も告別式もやらないのは本当に圭子の遺志なのか」「遺書もないのに圭子の意向が分かるのか」などといった三郎氏の主張を軸に、7ページにわたって照實氏バッシングを展開。照實氏が“宇多田利権”を独占するために、圭子さんの親族を遠ざけようとしているかのような印象を受ける内容だった。その翌週にも、圭子さんの叔母にあたる竹山幸子さんが登場し「照實さんとヒカルだけで荼毘に付するなんて、不自然なことだし、納得がいかない」などと語っていた。

 ヒカルさんは「週刊文春」の記事を受けて同年9月5日、自身のホームページで「遺書はなかったと報道されていますが、今年の始めにしたためられた遺言書はありました」と公表。照實氏の意向ではなく、喪主である宇多田の判断で「母の遺体との面会を希望された方もいらっしゃいましたが、やむなくお断りさせていただきました」とし、通夜・告別式がなかったのも遺言書の内容に基づいたものだったと明かしました。

 「この文章がアップされると、文春側は大慌てになった。圭子さんの親族を囲いこんで告白を独占し、照實氏バッシングを続けるつもりだったのに、宇多田に親族の発言を完全否定されてしまったのですからね。独占告白を軸に宇多田家の暴露本を出版する計画まであったようですが、それも全てパーになってしまった。商売の種とメンツを潰された文春サイドは、それに代わる宇多田のスクープをモノにしようと躍起になっています」(マスコミ関係者)

 それから同年9月18日、圭子さんの実兄の藤三郎(本名阿部博)氏に届いたヒカルさんからの手紙には、「母の意志に沿い通夜葬儀納骨は行わず なお且つ母の強い指示で遺骨は散骨させて頂きました」とあり、圭子さんは、東京都内のある火葬場で2013年8月27日に焼骨されています。また、芸能関係者の証言として「ヒカルは母親を埋葬して、数日後、お骨を持たずにロンドンに戻ったようです。誰が遺骨を引き取るかはわからない」との証言を掲載。つまり、ヒカルは焼骨された母圭子さんの遺骨を埋葬して、数日後、お骨を持たずにロンドンに戻ったというのです。

 「ヒカルさんはすでに日本を離れ、移住先のロンドンへと帰っていた。市内を流れるテムズ川の北側、遊覧船やボートがゆっくりと運河を行き来するリトル・ベニスと呼ばれる場所からさらに東へ数km離れた街に彼女はいた。そこでは、恋人で画家の福田天人さん(38才)と、近所のスーパーで買い物をする姿や、通りを散歩する姿が目撃されていた」と言われていたものの、母を亡くした彼女を気遣う福田さんの祖母が言う。「(ロンドンの)天人からは電話も手紙もないわ。まぁ、何も連絡がないのが元気の便りと思ってるから。元気にしてる証拠やな。そやけど、おばあちゃんは心配してるんよ」(2013年9月19日 女性セブン)

 ヒカルさんは、2013年9月19日にツイッターで、「昔、ママが家の廊下ですっころんで足の小指を骨折するというミラクルを発動したのを思い出した。羊羹にかぶりついて前歯一本抜けたりするし、空港で見失って必死に探しまわったら何故かジャマイカ行きの便に平然と並んでるのを発見されたり、ほんと天然で面白い人だったなあ」と圭子さんとの思い出を語ることができるまでに、 精神的な落ち着きを取り戻していました。 その後、 2013年10月11日のツイッターで伯父藤三郎氏に対して、「身内の者が世間をお騒がせしております」からはじまる父照實氏の擁護と伯父への叱責がされます。

 「9月中旬のある雨の日。夜7時頃、ヒカルの自宅の前に1台のハイヤーが止まった。家のドアが開くとヒョウ柄のワンピースに黒のブルゾンを羽織ったヒカルが現れた。彼女が向かったのは、アート系やハイストリート系のイギリスらしい店が集まるロンドンの中心地コヴェント・ガーデン。フランス料理で有名なブラッセリーで、イギリス人の友人男性らと食事の約束をしていたのだ。日本での母との対面で、喪失感に襲われたような表情を浮かべていたヒカルだったが、その日の彼女の顔には笑顔が弾けていた。たばこ休憩を挟みながら、食事や酒を楽しみ、一行が店を出たのは深夜0時少し前。再びハイヤーへ乗り込むと、夜の街へと消えて行った。別の日にも、オーガニックスーパーなどへ買い物に行くヒカルをたびたび目撃」(女性セブン2013年10月3日号)と言う。

 女性セブン2013年10月3日号によると、「彼女は以前と変わらない、普通の生活をしていますよ。毎日決まった時間に起きて、食事を作って食べて、時には恋人と過ごしたり、友達と外食したり。そんな普通の生活をするなかで、彼女はお母さんの死を受け入れ、悼もうとしているんだと思います」(ヒカルを知る人)と言います。

 また、ヒカルさんとフランチェスコ・カリアーノさんは、2013年にロンドンのクラブで出会って親交を深め、交際をスタートさせました。その頃には前の章でご紹介した2人目の熱愛彼氏である福田天人さんとはうまく行かなくなっていたようです。

(16)宇多田ヒカルの復活
 圭子さんの死後、2014年夏の藤圭子さんの一周忌に合わせて、ついに宇多田ヒカルが音楽活動を再開していた。宇多田はCD発売へ向けて、すでに曲づくりを始め、レコーディングの予定も組まれていたという。だが、そこまで順調に進んでいた音楽制作が、12月中旬、突然すべてひっくり返ってしまった。母・藤圭子さんの過去のインタビューをまとめた沢木耕太郎氏の新刊『流星ひとつ』の出版に、宇多田が大きなショックを受けたのがその理由という。(2013月12月26日女性自身)

 元夫でヒカルの実父である宇多田照實がかみついている。同年11月2日のTwitterで、フォロワーから「沢木耕太郎さんの『流星ひとつ』は読みましたか?」と質問された照實は、「厚かましく本を送って来ました。許諾もしてないし、30年以上前に発行予定だった本。藤圭子は怒っていると思います」と怒りをあらわに。「藤圭子さんが生前に出版する事を快く了承しています」と反論する別のフォロワーには、「僕はNYで原稿を受け取った藤圭子の怒りを目の当たりにしました」と主張しています。

 ヒカルさんは2014年2月3日、同市内の高級ホテルのバーテンダーだった夫との結婚を発表しました。コメントの末尾に「喪中であるため、結婚を延期すべきか悩みましたが、母との最後の会話の中で彼の話をした際、「こんなに嬉しそうな母の声を聴くのは何年ぶりだろう」と思うほど喜んでくれていたので、きっと母も応援してくれてると信じて予定通りに結婚を進めることにしました」とあります。
 同5月24日に挙式。披露宴に圭子さんの遺影はなかった。 ヒカルの母で、照實の元妻である藤圭子は昨年8月に世を去った。フォロワーから「お母様、藤圭子さんの写真飾られましたか?」と聞かれると、「僕のスーツの胸ポケットに写真を入れて一緒に祝福しました」と話している。
(2014年05月26日Jcastテレビウォッチ)。翌2015年7月3日に第1子となる長男出産を発表している。※ヒカルさんの活動:ラジオ:2013年4月16日 - 2014年3月18日 KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru

 2015年春、長男を出産した宇多田。「もし母が亡くなった後に妊娠していなかったら、今もし子どもがいなかったら、仕事を始めようって思えてない」と語り、子を持つことで親の偉大さを実感し、新しい自分の立ち位置を見つけたことを明かした。
 子供のこと、母親のこと、そして他でもない自分自身のこと。その全てを隠さず時に詩的な言葉で率直に語る宇多田には、かつての唇を尖らせたような、大人びた少女の面影は微塵もない。8年ぶりのニューアルバム「Fantôme」におさめられるという、亡き母に語りかける歌「道」では「私の心の中にあなたがいる いつ如何なる時も 一人で歩いたつもりの道でも 始まりはあなただった」と母への思いを綴った宇多田。母の死を乗り越え、新たな一歩を踏み出した「素の」宇多田ヒカルがいた。 

2016年 花束を君に NHK連続テレビ小説『とと姉ちゃん』主題歌、真夏の通り雨 日本テレビ系『NEWS ZERO』エンディングテーマ、二時間だけのバカンス featuring 椎名林檎 「レコチョク」TVCMソング、道、光 -Ray Of Hope MIX- 『キングダム ハーツ HD 2.8 ファイナル チャプター プロローグ』テーマソング、 Simple And Clean –Ray Of Hope MIX– 『キングダム ハーツ HD 2.8 ファイナル チャプター プロローグ』(海外版)、人魚 『大 エルミタージュ美術館展 オールドマスター 西洋絵画の巨匠たち』テーマソング、大空で抱きしめて サントリー食品インターナショナル「サントリー天然水『水の山行ってきた 奥大山』篇」CMソング、Forevermore TBS系ドラマ『ごめん、愛してる』主題歌、あなた 東宝系映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』主題歌
 2016年再始動しはじめたヒカルさん。一部ネットニュースに元バーテンダーのイタリア人夫は結婚を機に仕事を辞め、妻の宇多田を支えているといわれ、離婚危機に陥っていると報じられていた。 それに対して、「私が人生のパートナーに求めるものランキングの最下位:経済力(同年8月9日)Twitter。続けて「経済力のある男性が優しくてかわいくて自分を一番に思ってくれる女性(経済力低め)を選んだってなんの不思議にも思われないのに、性別が逆になると問題があるかのように思うのは非常に非理論的だ。男の子って大変ね」と心境を表したことが話題になりました。

 2016年約6年ぶりに音楽活動を再開した宇多田ヒカルが9月22日の「SONGS」(NHK)に出演。活動休止についても語った宇多田だが、3年前に亡くなった母、藤圭子への思いも語った。
 対談した糸井重里が「お母さんの存在って?僕らから見ても大きいお母さんだったけど」と切り出すと、宇多田は「ステージで母を見てると『うわあ、すごいなあ』って思う事はずっとありました。体からエネルギーのオーラみたいなものがわーっと出る感じ」と偉大さを語り、「すごく個性的ですごく純粋ですごくすてきな美しい人」と母の姿を思い浮かべた。
 母が亡くなったことについては「デカいですね。あらゆる現象に母が見えてしまった時期があったんですよ」と、日常のすべてが母親を思い出させるほど母の死が衝撃だったことを明かしたが、「誰しも原点があって、私の原点は母だったから、私の世界、あらゆる現象に彼女が含まれてるのは当然じゃんと。私の体は親からきてるものですからまあ当然かと思えるように」なってから、やっときちんと母の死と向き合えるようになったことを明かした。

 ヒカルさんは、同年9月29日にリリースした約8年半ぶりとなるアルバム「Fantome」について、「4週連続1位になっちゃった。びっくり」と驚くと、「しかし藤圭子の37週連続1位には遠く及ばぬわ笑」と亡き母・藤圭子さんの記録を引き合いに出し、その偉大さに思いを巡らせた。
 ヒカルさんはこんなことをツイッターでつぶやいています。「4週連続1位になっちゃった。びっくり。しかし藤圭子の37週連続1位には遠く及ばぬわ笑 37週とか意味わからん笑」(2016年10月29日)

 ヒカルさんにとって自身の妊娠 と母の圭子さんに対する気持ちの整理の中で、この2016年は大きな転換点になります。
 彼女が「母親」という存在に正面から向き合ったのは、“真夏の通り雨”がたぶん初めてのことだっただろう。今も何度聴いても、目を閉じてずっとその歌に聴き入っていたくなる魔力にも似た魅力を持つこの曲が作られたのは、実は宇多田ヒカルが新たな命を自身の体に宿したまさに妊娠中の時期であったと、今年『ROCKIN’ON JAPAN』9月号のインタビューを読んで知った。
 「妊娠に気づいてから、『ああ、そっか。このままいったらいついつ頃に出産で、そしたらしばらく仕事できないし。となったら、アルバム作るってなると、その前に結構やらなきゃ無理だな』って。『あ、わたし親になるんだ』って思ったら、急に『あ、仕事しなきゃ!』ってなったんですよ(笑)」と、彼女らしくカラッと語っているが、この時おそらく初めて能動的に作品を作ろうという気持ちになったことを、このインタビュー内で語っている。
 そこで、出産前に歌詞までしっかり作り上げたのが“真夏の通り雨”だったというのだ。それを知って驚くとともに、ひとり合点がいった。そう、この楽曲を境に、彼女の表現が大きく変わったように感じたのは私だけではないはずだ。昨年リリースされたアルバム『Fantôme』の素晴らしさは言うまでもない。

 2018年にはライブも復活。11月6日 - 12月9日 Hikaru Utada Laughter in the Dark Tour 2018、2018年11月17日 2018年11月17日伯耆国『大山開山 1300年祭』記念 宇多⽥ヒカル スペシャルライブ。歌: 2018年 初恋 TBS系ドラマ『花のち晴れ〜花男 Next Season〜』イメージソング、 Play A Love Song 「サントリー 南アルプススパークリング『SWITCH & SPARKLING!』篇」CMソング、Good Night 東宝系映画『ペンギン・ハイウェイ』主題歌。この年、元バーテンダーのイタリア人との離婚が報じられています。

 2019年には歌:誓い スクウェア・エニックスゲームソフト『キングダム ハーツIII』テーマソング、Don't Think Twice スクウェア・エニックスゲームソフト『キングダム ハーツIII』(海外版)テーマソング、 Face My Fears スクウェア・エニックスゲームソフト『キングダム ハーツIII』オープニングテーマ、嫉妬されるべき人生 松竹映画『パラレルワールド・ラブストーリー』主題歌、Play A Love Song 「サントリー 天然水スパークリングレモン『スイッチ!なんてカンタンさ!』篇」CMソング

 2020年には歌:Time 日本テレビ系ドラマ 『美食探偵 明智五郎』主題歌、誰にも言わない サントリー食品インターナショナル「サントリー天然水 『光も風もいただきます。』篇」CMソング

 2021年には歌: One Last Kiss 東宝/東映/カラー映画『シン・エヴァンゲリオン劇場版』テーマソング、Beautiful World (Da Capo Version)、PINK BLOOD NHKEテレアニメ『不滅のあなたへ』オープニングテーマ、 Find Love 資生堂「POWER IS YOU」キャンペーンソング、 君に夢中 TBS系ドラマ『最愛』主題歌
 2021年6月27日のスポニチでは、宇多田ヒカルが27日、自身のインスタグラムを更新。新曲を書き下ろしたアニメ映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版」総監督の庵野秀明氏(60)とのインスタライブ後に公開したアーカイブの中で、2013年に他界した母で歌手の藤圭子さん(享年62)への思いを語る場面があった。小さい頃に母を亡くし「母が亡くなって10年、ここ最近の方が悲しいし、寂しい。再会がかなわない人への思いをどう断ち切るか助言してほしい」というフォロワーからの質問に答えた。断ち切らなければいけないということはないというスタンスで「生きてる限り、お母様との関係は続くし、あなたの人生が進んでいくし、関係が変わることもあると思う」と語り、「私も母が亡くなって8年だけど、最近になって出てきた気持ちもある。当時、一気に感じちゃってたら耐えられないような強烈な体験をしてしまった時、体が一部を保留するという機能があると思うのね。だから最近になって悲しいとか寂しいとか思うのは、感じる準備ができてきたのかなと思う」と語りかけた。
 宇多田自身、母の死からどうやったら前に進めるかを模索し続けてきたという。「エヴァの最後の脚本もらって曲書き出した時に、喪失感とか悲しみを断ち切るとか置いて前に進むってことはないんだって。なぜならそれが自分の一部だから。自分の一部を切り捨てて、前に進んだところで別の喪失が生まれるだけ。別の喪失を断ち切ろうとか埋めようとかでぐるぐるまわってるだけだと思った」と考えたという。
 さらに「悲しい気持ちとかいろんな思い出とか喪失感とかはずっとあるかもしれないんだと思って。大事に抱えて、大事に生きていこうって思った瞬間に母親にもらったプレゼントを大事にしているみたいな気持ちに切り替わった。初めて自分がちょっと自由になった気がして、母親も自由にしてあげられた気がして。ちょっと前に進めた気がした」と意識が大きく変わった瞬間があったことを明かした。
 母亡き後「なかなか母親の写真が飾れなくて。飾りたいんだけど、自分がどう反応するかわかんなくて怖くて」と写真が飾れなかったという宇多田。「でも7年くらいたってやっと飾るようになったら、うちに来た友達とかが“これお母さん?ヒカルかと思ったー”って言われたり、子供も、“ばあちゃんかわいい”とか話しかけるようになって、私の中で母親との関係が変わったの。だから、わかんないもんだよ、どうなるかは」と自身の体験を振り返った。※6月26日、宇多田ヒカル(38)がインスタライブ中に自身が「ノンバイナリー」であることを公表した。(女性自身)

(17)圭子さんの死の真実
 最後に、以上の事実の積み上げの中で、「圭子さんの死の真実」を考えていきたいと思います。
 残間里江子のBLOG(2013年8月22日「純ちゃんの死」)でこんなことを書かれています。「ヒカルちゃんが小学校低学年の時、3人は帰国することになり、ヒカルちゃんの学校の相談に乗ったり、3人で音楽活動を開始した話を、聞いたりはしていたのだが、ヒカルちゃんが大ブレークした頃には、傍をウロウロすることに躊躇いがあり、いつしか少しずつ、疎遠になっていった」、「娘のヒカルちゃんが、あれだけ大ブレークをしたことで、「物欲しげナ人間に思われたくない」という、見栄が働いたのかもしれない」と。駄目で元々雨、アラレ。残間里江子BLOG

 私は、何を「物欲しげ」にしたのだろうと考えると、「ヒカルさんが「Automatic」で鮮烈なデビューを飾り続くセカンドシングル「Movin'on without you」も大ヒットで生み出された莫大なお金(所謂「ヒカル・マネー」)が、照實氏が社長を務める「有限会社ユースリー・ミュージック」に入り始めます。そして、照實氏はベンツに乗り、宇多田は仕事でワゴン車を使うようになってい」たのに、圭子さんには「役員報酬」を支払われていなかったことで、夫の照實氏の浮気問題や「所謂ヒカル・マネー」の報酬分配で不信感を抱いていましたが、ヒカルさんの歌唱印税の支払いがなされると、圭子さんは落ち着きをみせますが、照實氏とヒカルさんからは「被害妄想」と思われ、お金を「物欲しげナ人間に思われたくない」と思い、「家族といつしか少しずつ、疎遠になっていった」と残間さんは考えていたと思っていました。

 しかし、考えてみたら圭子さんに支払われた「役員報酬」は十分であり当然の金額なので、このことが「物欲しげナ人間に思われたくない」という対象ではないと考えに至りました。すると「物欲しげナ人間に思われたくない」という対象は何かと言うと、家族で音楽創作という「家族ユニット「U³」(キュービック・ユウ)の続き」を圭子さんは求めていたのではないかとうことに気がつきました。
 しかし当時、音楽創作は東芝EMIと宇多田照實、ヒカル親子でつくり出されており、そこに圭子さんも加わりたかったが許されず、これ以上は、「物欲しげナ人間に思われたくない」と思い、「家族といつしか少しずつ、疎遠になっていった」と考えれば残間さんの言うことが理解できたと思うようになりました。ですから、怨歌歌手「藤圭子」はアメリカン・ポップスの宇多田ヒカルの音楽制作に加わることができないと諦めて「ギャンブルの旅」出たと考えることにしました。

 一方、ヒカルさんも、「10代から自分で作詞作曲をして、意見もはっきりあって、お金も稼いでいました。独立した人間という見られ方をしていたかもしれないけれど、誰かに飼われているペットみたいな感じで。食べ物も自分ではほとんど買いに行かないし、家も自分で借りていないし、銀行の口座も誰かが開いてくれたのを知っているだけ。電話の契約も、家を借りるのも、引っ越しも、何もかも事務所がやってくれて。
 人目を気にしながらだと、本当の行動に感じないというか。行動することの本質にある部分がすっ飛ばされちゃう。今を生きて、今の瞬間にいようとしても、誰かに気づかれたらこうなるとか思いながら行動していると、何のために何をしてるかわからなくなってしまう。自分で何もできないまま、仕事し始めた15歳の状態のままおばあちゃんになっていくのを想像したらすごく怖くなって。
 「誰に向けて歌っているのか」は、実は昔から時々聞かれたり、考察をされてるのを見て自分でもずっと疑問だったんです。正直、「誰かに向けて歌う」という感覚がわからなくて、ほかの歌手はどう答えてるんだろうと不思議で。強いて答えるなら、「そこにはいない誰か、ここではないどこかに向けて歌ってる」としか言いようがないです。集中して歌えてるときは、私もここから消えてるような感覚で気持ちいいんです。
 歌詞は最後に書きます。楽曲は思考とは別で作っていきます。メロディーのアイデアを考えながら歌っていて、歌詞がない状態でもすごい泣いちゃうときもあるし、とても表には出せないけれど、仮の歌詞が自分の深層心理とリンクしたと感じた瞬間に、泣きながらしばらくそれを歌っていることもあります。歌詞から書くのはできないんです。コードとトラックをある程度作って、メロディーとの関係性の中に私の感情がこもっていて、それを自分で分析するというか。バラバラになった時計みたいなパーツがうわーってある中から、部品をまとめていって、こういうものになりうるんだと、また組み立てていくような」と述べていますから、。ヒカルさんが「Automatic」で鮮烈なデビューを飾り続くセカンドシングル「Movin'on without you」も大ヒット後は、歌手封印をした母藤圭子に代わって「稼業」を受け継ぎ、収入を得て家族を支えることに専念していて、母藤圭子の微妙な立場を十分に理解されないまま、ペットみたいに大人に囲まれ、ただわけも分からず作詞作曲をして、お金も稼いでいた状況が続いていたのだと思われます。

 2002年の作詞作曲のヒカルさんの「Simple And Clean」に、「When you walk away You don't hear me say please Oh baby,don't go Simple and clean is the way that you're making me feel tonight It's hard to let it go」という文字が見えます。筆者の拙い訳詩をすると「あなたが出ていくとき、「お願い..ああ、ベイビー、行かないで」と私が言っているのをあなたは聞きません。シンプル(単純)でクリーン(さっぱりしている)なやり方が、今夜私に辛いと感じさせます」と述べ、「You're giving me too many things Lately you're all I need
You smiled at me and said, Don't get me wrong I love you But does that mean I have to meet your father?」とあり、筆者の拙い訳詩をすると「あなたは最近私にあまりにも多くのものを与えています。あなたは私が必要とするすべてです。あなたは私に微笑んで言いました。「誤解しないで、あなたを愛しています。でも、どうしてあなたのお父さんに会わなければならないの?」「大きくなったら、私が言った意味がわるとおもう」「人生はそれほど単純ではないのよ」と書かれています。
 さらには、「The daily things that keep us all busy Are confusing me That's when you came to me and said, Wish I could prove I love you But does that mean I have to walk on water?」とあり、訳すと「日常のことが..こんな感じで何が何なのか..みんなを忙しくさせ、私を混乱させている。それが私の言ったこと。「私があなたを愛していることを証明しろというの…私に奇跡を起こせというの?大きくなったら、私の言うことが十分理解できると思うよ。そして、たぶんいくつかのことはとても単純なことだよ」と書かれています。
 両親が仲違いをし、「お父さんと話し合って」と私(ヒカル)が頼んでも、圭子さんは「どうしてあなたのお父さん(私の夫ではなく)に会わなければならないの?」といい、圭子さんが「ヒカルを愛しています」と言われても、「次の曲づくりでてんやわんやなのにこれ以上私(ヒカル)に奇跡を起こすようなことは言わないで」と言っているようにも見えます。圭子さんは夫の照實氏に相談するところを娘のヒカルさんに話しかけて、難問を解決して欲しいと言っているようで、もしかすると「浮気問題」がこじれていたのかもしれません。だから「大きくなったら、私の言うことが十分理解できると思うよ」と圭子さんは言ったのかもしれません。

 圭子さんは「ギャンブルの旅」の間と「2006年の事件」後、同じホテルにいた他は、ヒカルさんは会うことも話すことなく、夫照實氏と最後の離婚してから2009年1月末頃までは、元夫照實氏と同居人のみが電話を通じて連絡をとるだけの間柄になっていたと思われます。
 そして再び圭子さんとヒカルさんが電話で連絡を取り合うようになったのは、2009年の1月末以降だと考えています。話しはヒカルさんの恋愛問題が中心だったと思われます。2010年にはヒカルさんとお付き合いがあった福田天人氏の実家に行き「娘をよろしく」と挨拶に行かれています。その後もやり取り続きます。同年11月04日に圭子さんの母竹山澄子死去しますが、葬儀に出席していません。同年11月21日ヒカルさんは、東京・六本木でFM局・J-WAVEのラジオ番組「TOKIO HOT 100」の公開生放送に出演した際、「50歳くらいになった時、マネージャーなしじゃ何もできないおばさんにはなりたくなかった。イタイ大人になっていくのはかっこ悪い」と述べています。
 そして、2013年1月頃からヒカルさんと福田天人さんの間の雲行きが悪くなりはじめます。圭子さんがヒカルさんの事を心配しているところに、同年3月18日、恩師 石坂まさを氏が死去します。藤圭子にとっては「実の家族」をなくすほどショックだったと思われます。このころに、「私がもし死んだら、葬儀は執り行わず、火葬にして海に散骨して欲しい」旨の「遺言書」を書いたのではと思っています。
 はじめは体調の悪化で自然死を望んでいたようですが、同年8月23日開催の「石坂まさをのお別れの会」への出席依頼があり、やむなく出席の返事をしますが、いまだ自然死が訪れません。自殺ではヒカルさんに迷惑がかかるが、「石坂まさをのお別れの会」に向けての自殺なら、大きな問題はないと考え、そこで、圭子さんは同年8月14日元夫の照實氏に電話をし、照實氏は、「約8分間、世間話を含め、お願いごとを何件か受け、了承し電話を切りました」と言い、ヒカルさんも同時期に圭子さんから電話があり、ヒカルさんは「「母との最後の会話の中で彼(交際中のイタリア人)の話をした際、『こんなに嬉しそうな母の声を聴くのは何年ぶりだろう』と思うほど喜んでくれていた」と書いています。恐らく圭子さんは「私がもし死んだら、葬儀は執り行わず、火葬にして海に散骨して欲しい」旨などのSOSを発信していたのかもしれません。

 藤圭子さんは、恐らく藤圭子を荷った恩師石坂まさを氏の死去により、最早音楽に対する未練はなく、藤圭子の終焉を自ら画策し、このことにより元夫宇多田照實氏と愛娘宇多田ヒカルへの関係を断ち切り、同時に宇多田ヒカルの自立を促すため自死を覚悟したと思われます。

 ヒカルさんは藤圭子さんの異変を感じ、カウンセラーへ向かい、照實氏は同居人に何らかの連絡をとっていたと思われますが、圭子さんは「石坂まさをのお別れの会」の前日の早朝まで家族の連絡を待ったが家族から何の連絡もなく意を決して自殺したものと思われます。
 何故そう思うかと言うと服装です。自殺を決意したものが8日も生き続けるの妙だし、死に衣装もそれなりにあったのではと思います。誰にも止められず、石坂まさを氏のお別れ会の前日の早朝に、意を決し自殺します。つまり自分の意志で「藤圭子」の幕を自ら閉じたのでした。行年62歳でした。

 以上が筆者の「藤圭子の自死の真の動機と宇多田ヒカルの復活の端緒についての考察 」であります。
歌聖藤圭子に捧げ、筆を置きます。 合掌

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