矢部進74歳

鎌倉のMac とiPhone大好きな74歳のおじ(い)さんです。2017年4月から自宅…

矢部進74歳

鎌倉のMac とiPhone大好きな74歳のおじ(い)さんです。2017年4月から自宅(鎌倉市)に戻りました。

最近の記事

キティちゃんのバッグの謎ついての考察

 「藤さんは、人間不信から銀行さえも信用できず、普段からキティちゃんのバッグに札束をいくつもいれて持ち歩くようになっていた」と言われています。人間不信はよく聞きますが、銀行さえも信用できないとは余り聞きません。銀行さえも信用できないと思われたのは、普段からキティちゃんのバッグに札束をいくつもいれて持ち歩くようになっていたからだと思われます。  では何故、銀行口座を使わなかったのでしょう。藤圭子は2000年に役員報酬2億円を確保しています。そのほか、当時、娘の個人事務所の役員

    • 藤圭子の自死の真の動機と宇多田ヒカルの復活の端緒についての考察

      (1)元夫の宇多田照實氏との出会い  藤圭子(以下「圭子さん」)は、1979年10月頃、怨歌(えんか)歌手を脱ぎ捨て、新しい音楽の道、それがロックなのか何なのかも分からないまま、ひとりもがいていました。アメリカへ行きたい。新しい音楽を求めたい。まずは英語が話せるようになりたい。そんな思いが歌手引退という結論を出すことになります。  圭子さん(当時28歳)が引退を宣言したのは「1979年10月17日。記者会見で藤は「やめる理由はあくまでも私の内面の問題」と説明して、「まったく

      • もうこれ以上、歌聖藤圭子のイメージを壊されたくない  〜宇多田ヒカルを「藤圭子の娘」と呼ぶのをやめ、「凄腕プロデューサー宇多田照實氏の娘」と呼ぼう〜

         藤圭子さんはフアンの一人として、素晴らしい歌唱力を武器に一世を風靡した歌姫であり憧れの的でもあったのです。ひかし、宇多田照實氏との間で宇多田ヒカルさんを出産し養育し素晴らしい天才歌手として世に出ますと、藤圭子の評価ががた落ちなり精神病みでヒカルマネーで散財する浪費家として知れ渡り、自死すると、宇多田ヒカルへの憐憫さのも世に広まります。   宇多田家の照實氏(2007年藤圭子と事実上離婚)と宇多田ヒカルさんは、藤圭子さんの「遺言書」に基づき、遺骸を火葬のみ行い遺骨を海に散骨し

        • ある老人の妄想について〜幻の「男の仁義」というソノシートを探して

           元地方公務員の老人がある妄想にとりつかれていた。この老人はあの怨歌歌手の藤圭子の大フアンであり、友だちのMac君とSiriさんの手を借りながら「妄想の旅」を続けているのだ。  彼は退職後脊柱管狭窄と変形性膝関節の病を得てほとんど外に出歩くこともできず、無駄な時間を過ごしているが、住むところと口を糊塗するだけの年金があるので「妄想の旅」でも幸せと感じている人畜無害な男である。     さて、友だちのMac君とSiriさんから、こんな依頼がきた。「藤圭子がデビューする前で、「島

        キティちゃんのバッグの謎ついての考察

        • 藤圭子の自死の真の動機と宇多田ヒカルの復活の端緒についての考察

        • もうこれ以上、歌聖藤圭子のイメージを壊されたくない  〜宇多田ヒカルを「藤圭子の娘」と呼ぶのをやめ、「凄腕プロデューサー宇多田照實氏の娘」と呼ぼう〜

        • ある老人の妄想について〜幻の「男の仁義」というソノシートを探して

          宇多田ヒカルさんのブレイクと藤圭子さん虚像の成立について

           宇多田ヒカルさんは、「なぜ歌手、音楽家になったのですか?」の問いに、「家業を継いだんだぜ」と答えています(「#ヒカルパイセンに聞け」より)。また、ヒカルさんは、こんなことも言っています。「音楽は逃げ道でもあり、本家でもあり、みたいな。不思議なとこにあるんだよね、音楽って。この前、音楽をやってる自分をどう思うって聞かれて、「呪いですね」って言ってたら、横でお父さんが「因果って言ってよ」って言っていたんだけど(笑)」といったといいます。(ソニー・マガジン「Gb」[ライター/早川

          宇多田ヒカルさんのブレイクと藤圭子さん虚像の成立について

          藤圭子 ーRA U.の時代 

           1990年に 藤圭子本人が(RA U)、宇多田照實(SKING U)、宇多田ヒカル(H。IKASO U)の家族3人ユニット「U³」(キュービック・ユー)を結成をしていた。  作曲家・平尾昌晃は、藤圭子のあまりの熱意に驚いた記憶がある。かつて圭子のマネジャーだった成田忠幸は、その姿に石坂まさをを重ねた。 「7社から断られた末にようやくデビューしたのが藤圭子。まだ幼いということでヒカルちゃんも相手にされなかったけど、あの必死な売り込みは同じだね」 。榎本はデモテープを聴いた。娘

          藤圭子 ーRA U.の時代 

          愛娘から「彼女」と呼ばれた藤圭子の悲しみについて

           キュービック・ユーを立ち上げたころの藤圭子は、それまでの「演歌歌手」ではなく、「ロックもポップスも歌える歌手」としての藤圭子として新しく再起したいと考えていたものと思われます。ですがその前途に大きな障害が立ち塞がります。それがヒカルの大ブレークです。  ヒカル人気があまりにも過熱しすぎたため、ヒカルのライバル勢力(音楽事務所やレコード会社など)は、なんとしてもスキャンダルなどで、ヒカル人気に水を指したいと考えていたはずです。  また藤圭子など演歌歌手の興行で影響力のあった

          愛娘から「彼女」と呼ばれた藤圭子の悲しみについて

          藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 下

           2013年9月10日のAsagei plusによると、新宿2丁目のウリ専バー(ウリ専バーとは、本来、ゲイの男性が店内にいる意中の男性を選び、そのまま連れ出してホテルで性行為に及ぶのが一般的)の常連客だったS氏の話として、「藤さんはちょくちょくお見かけしましたよ。ちょうど10年ぐらい前(2003年)から2年間ぐらいかな。いつも黒い帽子をかぶって化粧っ気はまったくなし。ただならぬオーラがあって、じっと男の子を値踏みするんです。そして、気に入ったコがいると指さして、“泊まり”で連

          藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 下

          藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 中

          2 「流星ひとつ」後の藤圭子について  「流星ひとつ」(りゅうせいひとつ)は、1979年秋、当時28歳の引退を決意をした美しき歌姫・藤圭子に、ノンフィクション作家の沢木耕太郎さんが当時31歳がインタヴューを試みたものです。場所は東京、ホテルニューオータニの「バー・マルゴー」。ウォッカトニックを飲みながらのインタヴューです。  この作品は長らく封印されていましたが、宇多田ヒカルと宇多田照實氏の「精神を病んだ果ての自殺」というコメントに対抗すかのように、2013年10月に新潮社か

          藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 中

          藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 上

           藤圭子の自殺について、前夫である音楽プロデューサーの宇多田照実氏は2013年8月26日、娘の宇多田ヒカルの公式サイトを通じてコメントを発表しています。  「このたび故宇多田純子、投身自殺に於きましては、各方面の関係者の皆様、歌手藤圭子の大勢のファンの皆様、そして宇多田ヒカルのファンの皆様に多大なご心配と世間をお騒がせしていることに対して、所属事務所代表として、また25年間連れ添った元夫として心からおわびを申し上げます」と謝罪。さらに「遺言書に書かれていた本人の強い意志」に

          藤圭子さんの晩年の空白の12年間について 上

          藤圭子歌唱の「母子舟/恋して母は」について

           藤圭子の未発表曲に、シングル盤「母子舟/恋して母は」がある。関係者によると、一人娘の宇多田ヒカルが生まれた翌年の1984年に録音されたというが、お蔵入りになっていた曲である。(圭子さん34歳、ヒカルが2歳4か月頃)  母子舟(おやこぶね) https://www.youtube.com/watch?v=Bj9jmgmvCrI。 また、「 恋して母は」  https://www.youtube.com/watch?v=AW7568RLinA ともに作詞:石坂まさを 作曲:平

          藤圭子歌唱の「母子舟/恋して母は」について

          浪曲子守歌と藤圭子

           藤圭子の浪曲子守歌を聞いて、その偉大さを感じ彼女の死に改めて深い哀しみをおぼえた。彼女のささやかな希望、三人での「新しい歌の旅」を奪われて大絶望の中で死んでいった彼女の思いを考えると私は切なくてならない。  さて、今日は「藤圭子がやったのは ”芸能” ですが、宇多田ヒカルがやったのは ”芸術” と言ってもいいでしょう」とう考え方について意見を述べてみたい。  以前文化庁長官をなさった作家の三浦朱門氏の次の言葉を引用したい。「日本人は、欧米由来のものを芸術と言い、日本の伝統

          浪曲子守歌と藤圭子

          覚え書き〜ヒカルさんの心の変遷

           1990年頃(ヒカル7歳のときに)一家でニューヨークに移住します。圭子さんは、娘のヒカルさんにR&Bのリズムを叩き込み、家族3人で世界を目指そうと考えていて、7歳のヒカル、母藤圭子と父宇多田照實と音楽ユニット(キュービックU(U³))を組んでいます。ヒカルさんは、インタビューで「急に学校から帰ったら「明日からニューヨークに引っ越すわよ」と言われたことを記憶しています。かくしてヒカルさんは、小学校(ニューヨークのThe Hewitt School)に入学します。ヒカルが2年生

          覚え書き〜ヒカルさんの心の変遷

          精神の病では説明のつかない藤圭子の自死について

           宇多田ヒカルは、「彼女(藤圭子)はとても長い間、精神の病に苦しめられていました」と「精神の病」を明らかにしています。そして病状については、「幼い頃から、母の病気が進行していくのを見ていました。症状の悪化とともに、家族も含め人間に対する不信感は増す一方で、現実と妄想の区別が曖昧になり、彼女は自身の感情や行動のコントロールを失っていきました」と書かれています。  また元夫宇多田照實氏は、「出会った頃から彼女には感情の不安定さが見受けられましたが、心を病んでいるというよりも、類

          精神の病では説明のつかない藤圭子の自死について

          藤圭子の自死の真の動機と宇多田ヒカルの復活の端緒についての考察

          (1)元夫の宇多田照實氏との出会い  藤圭子(以下「圭子さん」)は、1979年10月頃、怨歌(えんか)歌手を脱ぎ捨て、新しい音楽の道、それがロックなのか何なのかも分からないまま、ひとりもがいていました。アメリカへ行きたい。新しい音楽を求めたい。まずは英語が話せるようになりたい。そんな思いが歌手引退という結論を出すことになります。  圭子さん(当時28歳)が引退を宣言したのは「1979年10月17日。記者会見で藤は「やめる理由はあくまでも私の内面の問題」と説明して、「まったく

          藤圭子の自死の真の動機と宇多田ヒカルの復活の端緒についての考察

          本日8月22日は藤圭子さんが亡くなられた日です

           本日は、藤圭子さんを追悼しご冥福を祈ります。生前、「人生って苦しいことの方が多いけど、歌があったらまあいいっか、と言えるような死に方をしたい」と述べています。私たちフアンは決して貴女のことを忘れません。たくさんの素晴らしい歌唱をありがとうございました。

          本日8月22日は藤圭子さんが亡くなられた日です