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大型類人猿とともに暮らす人々(地域住民)

「持続可能な開発」とは「将来の世代の欲求を満たしつつ、現在の世代の欲求も満足させるような開発」と定義されています(参考:国連広報センター)。大型類人猿に限らず、自然保護や環境保全とは自然環境に手を着けるのをやめることだと思っている人がいるかもしれませんが、持続可能な開発概念は、現在生きているわたしたちが幸福や経済的利益を追求する過程で自然を利用する(=生態系サービスを利用する)ことを否定していません。「どうすれば自分たちの幸福と将来世代の幸福を両立させるか」を考えることが重要です。

とはいうものの、世界の人口が毎年一億人増加し、さらに経済発展にともなって人ひとりが消費する資源量も年々増えてゆく現状で、いままでと同じように漫然と生態系サービスを利用していたら、いずれは立ちゆかなくなる時がくるのは間違いありません。いまさら言うまでもないことですが、大型類人猿を狩ったり、その生息環境を消費的に利用することは制限しなくてはなりません。大型類人猿を保護するということは、人間が彼らから得てきた利益を減らすことにほかなりません。

生態系サービスが人間に均等に配分されていないのと同様、大型類人猿を守ることによって制限される利益の減少分もまた、均等に配分されてはいません。そして、一般的に、大型類人猿の保全活動によってもっとも「ワリを食う」のは、かれらの生息地に暮らす人々、すなわち「地域住民」です。

もともと、地域住民の人々は、大型類人猿と同じエコシステムの中で、自然資源に依存した暮らしをしていました。日本の都市で生活していると「生態系サービスを利用する」というフレーズは、自分たちの生活空間の外側に生態系というものがあり、そこから利益を引き出すというふうにイメージしがちです。しかし、生態系サービスとは、本来、地域のエコシステムの内部に存在することではじめて得られるものです。地域のエコシステムはいわば自分の家のようなもので、家を粗雑に扱って壊してしまったら住むことができなくなるように、生態資源を収奪的・消費的に利用していたら、あっという間にそこで暮らすことはできなくなります。だから、地域住民の伝統文化にはは自然資源に依存しつつも、それを適切に保全するような慣習や制度が組み込まれていたはずです。

それが変わったのは、欧米や日本などの先進諸国を中心とした「近代世界システム」の成立以降です。地域エコシステムの外部の人々が、まず、自然資源を収奪してゆきました(自然資源だけでなく、文化資源、人的資源も収奪されました)。同時に、外部からさまざまな資源が供給されるようにもなりました。それにより、地域住民は地域のエコシステムへの依存度を減らしてゆきました。依存度が減ると、保全への配慮も同時に縮小・消失します。いま起きているのはそういうことなのです。

そして、近代世界システムに組み込まれた地域住民の暮らしは豊かになったのかというと、そんなことはなかったと思います。何を持って豊かな暮らしとするかは価値観の問題も絡んでくるので一概に決めつけることはできませんが、大型類人猿生息地の地域住民は、世界の経済発展の恩恵の配分から最も縁遠い人々であったことは間違いないでしょう。

地域エコシステムの中で、経済的にはお金持ちとはいえなかったとしても、そこそこ豊かで幸せな暮らしをしていた人々を、そのエコシステムから切り離して無理矢理近代世界システムの底辺に組み入れてきたのが世界の歴史です。その歴史のひとつの帰結として、いま大型類人猿が絶滅の危機に瀕している。それを理由に、地域住民の自然利用をさらに制限するということは、かれらをますます地域エコシステムから切り離そうとすることのようにも思えます。果たしてそれは長期的に大型類人猿の生存にプラスにはたらくのでしょうか。これは、深刻なジレンマです。

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