田中洋輔のこれまでとこれから[プロフィール]


はじめまして。
NPO法人 D.Live の田中洋輔です。

僕は、D.Live(ドライブ)という教育NPOで代表理事をしています。

主な活動は、フリースクールや自信を取り戻す教室の運営です。
あとは、不登校や思春期、自尊感情に関する講演を全国でおこなっています。

不登校に関して、保護者のかた向けに講座やイベントもしています。

最近は、Youtuberとして動画撮影もどんどんやっています!!

日本には自信が持てない子どもたちがたくさんいて、この問題を「なんとかしたい!」と思っています。

子育てや教育業界では、悲しいニュースがたくさんありますよね?

それを見るたびに、「この社会を変えたい」と思うのです。

子どもには無限の可能性があるのに、子ども自身があきらめ、「どうせ自分なんて……」と言います。

そんな子を見るたびに、僕は悔しくなるのです。

水もある。ご飯も食べられる。教育を受けられる。

でも、自信が持てないことで、一歩踏み出せない子がたくさんいるのです。

僕たちができることは、小さなことかもしれません。

しかし、行動することで、必ず世界を変えることができると思っています。

たとえ小さな変化かもしれませんが、出来ることをコツコツやっていこうと思い、日々の活動に取り組んでいます。

(田中のことについてのインタビュー記事などはコチラ)

子どもたちの自尊感情を高める NPO 法人 D.Live 代表理事 田中洋輔さん(2009年文学部卒)【立命会大学】

「自信のない君」へ送り続けるエール・前編

だれもが子どもの「やりたい!」を応援できる社会へ。「NPO法人D.Live」田中洋輔さんに聞く、今すぐできる、子どもの自信を育む関わり方【greenz.jp】

「許す、認める、受け入れる。誰とも比べなくていい」。NPO法人D.Live田中洋輔さんに聞く子育てに必要なふたつのこと。【greenz.jp】


生まれてから中学入学まで

1984年6月13日に、大阪府東大阪市で僕は生まれました。

長男としてスクスク育ち、幼稚園では、ずっと砂遊びをするような子どもでした。

幼稚園を卒園する頃、「あぁ、これで自由な時間は少なくなるな」と思ったのを覚えています。

小学校に入学したものの、夏頃に柏原市へ転校。

せっかく馴染んできた小学校から、新しい学校へうつることになり、戸惑いました。

9月の初日。

早速、ガキ大将の子に絡まれます。

いやぁ、マンガですよね。笑

しかし、なぜか僕は、この少年をやっつけてしまい、転校初日にドンのような立場になってしまいました。

地元のサッカークラブに所属し、週末はずっとサッカー。

昼休みは、グラウンドでドッチボールに参加。

運動大好きな少年でした。

本も好きで、昼休みをのぞく休み時間は、ずっと図書館に入り浸っていました。

本が好きになったキッカケは、小学生のときに母が大量の本をもらってきたことです。

家に大量の絵本があったので、ずっと読んでおり、気がつけばスッカリ本の魅力にとりつかれていました。

性格は、内向的で、スーパーで友達に会うと隠れていました。
一人遊びも好きで、2人でおこなうサッカーゲームなども家で一人でやっていました。

小学4年生のとき、市がやっているカルチャースクールでバイオリンを教えてくれるということで、習うことになりました。

練習はキツくて、あまり楽しいものではありませんでしたが、クラシックには虜になり、この時期はずっとモーツァルトやベートーヴェンを聴いていました。

猛練習の末、オーケストラに入ることができて、海外遠征でオーストリアへ行きました。ヨーロッパは、どこもかしこもお伽の国みたいでした。

百科事典にのめり込み、その中でも星座に魅了されました。

星の観察日記をつけ、プラネタリウムがある塾へ行くようになるくらいでした。

栄光と傷心の中学生時代


中学へ入学するとき、密かに自分で目標を立てました。

“モテる人になろう!”と。

なぜそのように思ったのか分かりませんが、信念の目標のように、なにかを決めたかったのかもしれません。

“モテるオトコ”とは、どんなだろうと考えて、出した結論は「運動ができて勉強できるヤツ。ただし、ガリ勉はダメ」というものでした。

そこで大切にしたのは、勉強している姿をできるだけ見せないこと。

「え? テストめっちゃいいやん」って思われることがカッコイイなぁと思い、授業中はだいたいマンガを読んでいるか、本を読んでいました。

入った部活は、野球部。

どんどん野球の楽しさにのめり込んでいき、プロ野球選手を目指すようになりました。

プロになるためには、知識と努力だと思い、売っている野球本はほぼ全て読んだと思います。

『初動負荷理論』などの運動生理学、栄養学も学び、自分が食べるものはすべて日記につけました。

トレーニングメニューもつけ、休み時間ですら筋トレをするくらい、野球に没頭していました。

テストでは、5教科 450点以上を毎回とり、200人以上いる学年で常にベスト10に入っていました。

中学2年生の秋、文化祭で演劇をすることになり、僕は主役に抜擢されます。

ミュージカルのような感じで、全校生徒の前で歌いながら踊るということをやりました。
このとき、人に注目されることの気持ちよさを知ってしまったのです。

順風満帆だったのは、このときくらいまで。

中学3年生になる頃、すべてがひっくり返りました。

苦手な人が野球部の顧問になり、練習方針や取り組む態度でたびたび揉めることがありました。

最後は、胸ぐらを掴まれるようなことがあり、「もう、イヤだ」と思い、退部しました。

その先生がいないときには、部活には顔を出してはいましたが、その頃からいろいろしんどくなってきます。

3年生になると、今まで保っていた緊張感がほどけ、ずっとイライラするようになりました。

授業中はずっと寝ていて、クラスの誰とも話さないようになりました。

たまに誰かに声をかけられても、睨んで追い返しました。

修学旅行にも行ったのですが、今でも全く覚えていません。

僕の唯一の居場所は、家から1時間以上かけて通っていた大阪市内にある塾だけでした。

今までの自分を知らない人たちがいる場所が、なんだかとてもほっとしました。

高校進学と人生最大の挫折

高校進学で選んだのは、大阪の野球強豪校でした。
創部して3年で甲子園に出た先輩の姿を見て、「ここへ行きたい」と思い、選びました。

しかし、入ってスグに自分の甘さを痛感します。

周りはみんな優秀で、日本選抜などにも入っていた凄い人たち。

いっぽうの僕は、まったく期待されていないような存在でした。

「きっと出来る」と思っていた自信はどんどん揺らいでいき、次第に自信を失っていきました。

野球部の中で1年ながら走力はトップクラスだったのですが、どうにも自信が持てない。。。

「自分なんて期待されていないんだ……」
「下手クソだとバレてはいけない……」

失敗を恐れ、いつの間にか野球をするのが心底怖くなっていき、気がつけば、部長に「辞めます」と言っていました。

野球がしたくて入学した高校。

野球を辞めた今、僕にはなにも残っていませんでした。

次第に学校へ行かないようになり、河川敷で時間を過ごす毎日に。

空を眺め、「これからどうしよう……」と考えていました。

学校は、休みがちで、放課後に少し顔を出すくらい。

とにかく苦しくて、でもなにでしんどいのかも分かっていなくて、ただ毎日を過ごしていました。

相談する人もいなくて、ただ一人で悶々とする毎日。

「大学へ行ったらなにか変わるかもしれない」と思い、大学受験することにします。

ただ、学校にも行っていないので、成績はまったく。

予備校に入り、浪人してどうにか大学へ進学します。

大学進学と引きこもり生活

第一志望の大学には落ちたものの、なんとかひっかかることが出来て京都の大学へ入学することになりました。

「大学へ行けばなにかが変わる」

今の現状を打破できるものが見つかると思っていました。

エンジンがかからない自分を奮い立たせるようなことが起きるのではという期待を胸にして、大学に来たのです。

しかし、その期待はスグに裏切られることになります。

授業を受けて、家へ帰るという高校生活と変わらない毎日。

大学へ行けば人生が変わると思っていた僕は、「大学へ来ても意味がなかった……」と思い、親に辞めたいことを告げました。

でも、さすがに入学して数ヶ月。

「もうちょっと考えろ」ということを言われ、止められました。

大学に愕然とした僕は、夏休み明け、学校へ行くこともなく四畳半のボロアパートで引きこもるようになります。

出前の弁当を食べ、ずっと家の中にいました。

「違う大学ならば環境を変えられるかもしれない」と思い、仮面浪人を始めたものの、勉強の意欲は湧かず。

当然、大学受験も失敗。

そこで、覚悟を来ました。

「あぁ、この大学で卒業しないとなぁ」と。

そして、気がついたのです。学校や誰かのせいにするんじゃなくて、自分が変わらないと、と。

引きこもりから脱出するため、まずおこなったのがバイトの面接を受けること。

結果、スターバックスで働けることになり、そこから僕の人生が好転していきます。

バイトを始められたことで、「できる」という気持ちになり、いろいろはじめていきました。

政治家の秘書インターン。テレビ制作インターン。ベンチャーの社長の鞄持ち。

頭を空っぽにして、とにかく目の前にある「やりたいこと」を手当たり次第にやってみました。

3回生になり、就職活動が間近に迫ってきたとき、「カフェがやりたい!」と思いました。

スターバックスで働くのが楽しくて、自分でもやってみたいと思ったのですよね。

早速、SNSでメンバーを募集。

10人ほどが集まり、「カフェがやりたいねぇ」と話していました。

場所探しなどをおこない、北野天満宮近くにある商店街にて2週間の限定カフェをおこないました。

就職活動では、「アフリカに井戸を掘って、水で困っている人たちを助けたい」と思い、総合商社を目指しました。

しかし、「海外よりも日本の課題に対して、なにかやりたい」と思い至ります。

自分がしんどかった時期のことを思い出し、「自分と同じようにしんどい思いをさせたくない」と思い、教育関係の仕事に就こうと決意。

けれど、いくら探しても、自分がやりたいことができるところはありませんでした。

子どもの可能性を伸ばすようなことがやりたいと思うものの、なにをしたら良いのか、どんな仕事なのかもよく分かっていませんでした。

就職と運命の出合い

「やりたい仕事を見つけるまでは、とにかく働こう」と決めて、カフェや飲食業に就職することにしました。

たまたま、読んでいた経沢香保子さんの本に「私なら、グローバルダイニングで働く」と書いており、「これだー」と思い、スグに面接を受けに東京まで行きました。

グローバルダイニングとは、とても変な会社で、すべてが完全に実力主義。

店長もシェフもすべて多数決で決めます。なんと、バイトの時給も多数決です。

毎月ある時給ミーティングで、「1200円がいいでーす」「さんせーい」「さんせーい」で、翌月から希望の時給になります。

面接の結果、採用されたのですが、「社員として東京で入社する or 大阪でバイトから始める」 どっちがいい? と聞かれました。

当然、社員のほうが良いのですが、「のし上がるほうが勉強になるな」と思って、大阪から始めることにしました。

バイトからなんとか社員までのし上がって、ヘトヘトになりながら働いていたある日、転機は突然おとずれます。

何気なく、本屋さんへ行くと一冊の雑誌がおいていました。

手にとると、『社会起業家』という言葉が書いていました。

読んでみると、どうやらNPOで飯を食っているという人がいたのです。

社会起業家という言葉は、聞いたことがありました。

けれど、NPOやNGOを仕事にするなんて海外の話で、日本でそんなことは出来ないと思っていました。

社会貢献なんて、老後にするものなんだろう、と。

しかし、そこには、NPOを仕事にしている人たちが確かに存在したのです。

中でも、『カタリバ』という活動に目を奪われました。

僕が「やりたい」と思っていた教育の形がそこにあったのです。

大学生が自分の経験をもとにして高校生に語り、一緒に将来を語る。

「あっ、これだ!」と、思いました。

自分は、「NPOという仕事をしよう」と決め、翌日には上司に「辞めます」と告げました。

そして、1ヶ月後には、今の団体、D.Liveを立ち上げることになります。

団体設立と暗黒時代

メンバーは、大学生ばかりで、ほとんど学生団体。

団体を立ち上げた3ヶ月後に、京都で中学生向けのイベントを実施。

ツテもなにもない中で、イベントを企画しました。なぜかコカコーラさんにスポンサーになっていただいたり、商店街にも協力していただいたりと、様々な人に手伝っていただいてイベントをおこなうことができました。

ただ、イベントをやってみて、一回きりの企画では子どもはなにも変わらないと実感。

おもしろい生き方をしている大人を呼んできて、子どもたちに話してもらうようなイベントだったのですが、そもそも子どもたちが「どうせ自分は……」とか「あの人だからできるんだ……」とか、全然自信を持っていない。

自分たちがまだまだなことを痛感させられました。

イベントの数ヶ月後、社会起業の合宿に参加。

そこでもらった宿題を解くのに、2年ほどかかりました。

長い長い暗黒期。

「キミたちは、いったいなにがしたいんだい?」
「キミたちは、どんな社会問題を解決するのだ?」

とにかく、「子どもの可能性を伸ばしたいんだー」としか思っていなくて、全然深く考えることができなかった。

(このあたりの詳しい話については、こちらの記事をご覧くださいね)

血を吐きながら歩んできた8年という歳月は、全て子どもの笑顔を見るためだった。

とても難しい宿題をもらった僕は、とにかくひたすら考えました。図書館へ行き、射界問題や教育について調べて、調べて、調べました。

メンバーも就職し、活動もほとんどしませんでした。

たまに、「どうしよう?」と打ち合わせをするくらい。

僕は、仕事を辞めたため、バイトで食いつなぐ日々。

カフェで働いたり、長野で住み込みのバイトをするなど、「いったいなにしているんだろう……」と思うようなモヤモヤした時期を過ごしていました。

ただ、研究し、考える中で次第に自分たちがやりたいことも見えてきました。

そんななかで、あるコンペで、提案した企画書が通り、最終面接まで進むことになりました。

名古屋まで行って、企画の話を熱弁。

自分の中では、一世一代の大勝負だと思っていました。

受かれば、100万円がもらえて、NPO法人化のサポートまでしてもらえるのです。

ドキドキしながら合格を待っていた僕に、数週間後、合格通知が届きました。

そして、念願の法人化を果たします。


法人化してからの……

滋賀県で活動することを決めて、事務所も設立。

「いやぁ、良かった」と思い、「これでバイト生活ともオサラバだ」と考えました。

そんな考えが甘いことに僕はまだ気がついていなかったのです。

始めての事業として、”こどもしゅっぱん社”という子どもたちが、取材や編集をしてフリーペーパーをつくる教室を開講しました。

しかし、滋賀にまったく縁もゆかりない僕たちは、そもそも集客するルートを持っていない。

ビラをポスティングで入れる日々。

有料でも参加者がいないため、モニターという形で半年間無料にしました。すると、10名くらいの子が来てくれて、事業はなんとかスタート。

しかし、もちろん赤字。

法人化したにもかかわらず、僕はまたバイト生活に後戻り。

「もうすぐだ」「もうすぐだ」と、自分に言い聞かせながら、集客など試行錯誤するものの、全く集まらず。

生徒は、有料化した途端、3人になりました。

気がつけば、僕はバイトしているカフェの店長になり、バイトばかりしている毎日でした。

”こどもしゅっぱん社”を2年ほどでたたみ、自信を取り戻す教室というTRY部を開講。この頃から、少しずつではありますが、いろんな仕事が増えてきました。

滋賀に来て、早くも3年ほどがたっていました。

行政の仕事ももらえるようになり、団体の名前も少しずつ知っていただけるようになり、2017年に草津市から委託事業をもらったことで、やっとバイトを辞められる日が来ました。

滋賀に来て、もう5年でした。

その後は、フリースクールを開き、今では生徒も増えてきて、不登校支援の講演や講座もおこなっています。

今、現在について

今は、不登校支援の仕事に力を入れています。全国に不登校で困っている親御さんがたくさんいる中で、なかなか良いサービスがないので、僕たちが「なんとかしないと」と思っています。

Youtubeも始め、どんどん発信をしていこうと考えています。

子どもたちには、カッコイイ大人の背中を見せたいと思うので、どんどんチャレンジしていきます。

今の目標は、カメラマンになること。書籍を出版することです。

どんどん実現させていき、「ほら? やればできるねんで」と子どもたちに伝えていきたいなと思っています。

[プロフィール]

田中 洋輔
NPO法人 D.Live 代表理事。1984年 大阪生まれ/立命館大学文学部 卒。

趣味)カメラ、ライフハック、アニメ、マンガ、

休日の過ごし方)本屋をぶらぶらする、温泉街を巡る、島を旅する

こよなく愛する場所)茶屋町、豊島、直島、喜界島、草津

好きな漫画)宇宙兄弟、ハイキュー!!、バーテンダー、ピアノの森

好きな映画)グレティストショーマン、スパイダーマン、下妻物語、ガチボーイ、キサラギ、

好きな本)壁を破る言葉(岡本太郎)、チルドレン(伊坂幸太郎)、一瞬の風になれ(佐藤 多佳子)、夢を叶えるゾウ(水野敬也)

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田中洋輔(NPO法人 D.Live)

NPO法人 D.Live 代表理事/ 滋賀県基本構想審議委員/ 不登校・引きこもり経験者/ 立命館大学文学部 卒/不登校コンサル/ 『子どもの自信白書』発行/草津市居場所づくり事業実施/ フリースクール運営/ 84年世代/ 大阪出身/ 自尊感情や思春期、不登校に関する講演を実施
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