日記2024年5月③

5月8日
精神科の受診だった。今の主治医はこれが最後になる。主治医が6月に定年になり後任が私の大学の同僚になるので、それはさすがにつらかろうということで別のクリニックに移ることになり、今日紹介状をもらって次からそこに通う。紹介状にどんなことがかいてあるか興味があるけれど、マナーとして見ないことにする。妻が最後に挨拶したいというのでついてきてくれた。お世話になりましたと言ってあっさり終わった。どこかで会うこともあるでしょうと主治医は言っていた。
少しだったが妻と2人でゆっくりできてよかった。妻と2人でお迎えに行ったので子供は嬉しそうだった。帰りに西松屋で長靴を買った。パウパトロールの柄にした。これで傘と雨ガッパと長靴が全部パウパトロールになる。1歳半くらいの小さい子がおもちゃ売り場にいて、いろんなおもちゃを手にとってしげしげと見ていた。お母さんは何度も「もういくよー」と言うがいつまでもおもちゃに興味津々で、お母さんも無理に帰ろうとはしなかった。あれくらいの頃は親はつきっきりだから、急かして店を出てもじゃあどこに行こうかとなり、子供の相手をしなくてはならないのも大変だからこうやって一つの場所に飽きるまで長居する。赤ちゃんとの永遠のような時間。私たちも憶えがあった。その後ファミレスに寄った。ローストポークを頼んだのだが解凍が間に合わないとお店の人に謝られて別のに変えた。ピンクのゴスロリで唇ピアスのたくさん開いた女性のお客さんがいた。
夜一人で本屋に行かせてもらった。眉村ちあきの新譜を聴いた。愛に溢れた眉村ちあきのラブソングから眉村ちあきの愛が溢れてくる。『新潮』120周年記念号と『群像』6月号を買った。ももクロの新アルバムを聴いた。ももクロがももクロらしさを解釈したような感じだろうか。やっぱり元気が出る。しおりんの歌声がいい。

5月9日
映画でも観たいと思い上映中のリストを見たらたしかに観たいものはあったのだけれど、結局眠かったので家で休んでいた。観たいという欲望ももとをただせばSNSで読んだり人の好きなものであったりして、今観たいと思ったのもたまたま今日が休みだからで、時間を無駄にしないほうがいいという圧力に誰かの欲望を招き入れただけなところがあり、欲望とはそういうものだから卑下しなくてもいいのだが、あまり大事にしすぎても苦しく空しいものである。まずは何もしないことを愛せるといいかもしれない。何もしないといっても私の場合こうして日記を書くことになるのだが。映画はまた後日にする。
少し表記を直して詩を書き上げた。まだ直せそうな気もするけれどきりがないので完成したことにする。現代詩手帖の投稿規定を確認しておく。そして山﨑修平さんの詩作と鑑賞の講座に申し込んだ。まだ本名でやるか筆名をつけるか迷っている。
昼に混む時間を避けていつもの喫茶店に行った。普段通りの過ごし方ができていい。今日は竹内まりやの歌が流れている。お客はおばあちゃん2人組と50前後のおじさんで、おじさんはすぐ帰り、お店側もおかみさんと手伝いのおばあちゃんとお嫁さんなのでみんな女性になった。客のおばあさんは清掃の仕事をしていて、今日は休みをとったらしい。ぽつぽつと思い出したように会話する2人組だった。
子供のサッカー教室に今日は体験入室の子が数人いた。そのうち一人はよく一緒に遊んでいる子だった。朝長靴を履いていったのでサッカーのときのためにスニーカーをリュックに入れておき、本人にも履き替えるように伝えていたのだが、長靴で出てきたので急いで履き替えさせた。先生には「きょうはながぐつなの」と言っていたらしい。普段より人数が多くにぎやかだった。最後にゲーム形式で先生対園児全員という混沌としたレッスンになり、それぞれの子の個性がよく出た。半分くらいの子はボールをひたすら追いかけて蹴り、先生もそれをやってほしかったようなのだが、一部の年長さんは自陣ゴール前で待って守備をしていて、一部の子は飽きてどっかに行ってしまう。うちの子はみんなが団子になっているところに行くこともあるけれど、それだと自分にとってあまりいいことがないと感じたらしく、遠巻きに待ってこぼれ球を蹴ったり、相手ゴール前で待っていいところをさらおうとしたりしていた。大人からはズルしようとしていると見えるけれど、たぶん本人としてはゴールを決めて点を取る勝負をするという先生の言いつけを守っているのだと思う。そういうことじゃないんだぞと言いたくなる気持ちをぐっとこらえて、親は何も言わずおかえりなさいと言う。
詩の講座の課題図書が岩波文庫のディキンソン詩集だったので買いに行った。帰りの電車が止まってしまい、歩くはめになって予定外の疲れが発生した。ちょっとした運動でぐったりである。体力を戻しつつ痩せたい。講座のためにまたひとつ詩を書く必要があり、頭を悩ませている。

5月10日
大学病院の仕事もだいぶ慣れた。気持ち的に。結局丁寧にいい仕事をするのが一番の薬である。しかしちと重ための仕事だったので疲れが出た。昼ごはんの注文を間違えていたらしく、欲しかったのと違うパスタが出てきたが、食べてみたらおいしかった。夕方のカンファで発言をして疲れた。緩和医療の領域でクロルプロマジンの点滴静注を使うことがあり、日本緩和医療学会の「苦痛緩和のための鎮静に関するガイドライン」に記載があるのだが、これは本来のクロルプロマジン注射剤の投与経路ではなく、ガイドラインにもその旨が記載された上で静注の使用法が載っている。何気なくクロルプロマジンの点滴って大学病院ではやらないですか?と聞いてみたら「そんなやりかたあるの?!」とざわついて、私もなにかすごい間違いを言ってしまったのかと思ってたいへん慌てた。精神科では使わない方法であるからみんな驚いたみたいである。私もびっくりしたよ。とにかくそれで疲弊した。カンファで調子に乗ったあとは数日ピリピリするのでゆっくりすることにする。
妻と子の帰りも遅めだったので夕飯は近所のトンカツ屋さんにした。手羽先の唐揚げがうまい。フライドポテトもうまい。ウーロン茶があう。
ディキンソン詩集を読んでいる。短いが力のある詩である。作者の感覚が読者に喚起されて再体験されるような強さがある。日本では戦中の詩作への批判から情緒的な連帯を喚起するような詩を避けるようになり、今の現代詩の潮流ができたと聞いたことがある。違っていたらすいません。

5月11日
昨夜妻の悩みをうまく聞くことができず、妻に嫌な思いをさせてしまった。私は人の愚痴を聞くと直情的に怒ってしまったり、解決の方向に誘導してしまったりして、下手である。まともに聞くとこうして相手に嫌な思いをさせるので、話半分に聞こうとすると今度は全く話を聞く気がない人になる。天井を見たりスマホを見たりする。最悪である。そういうことじゃないんだよと愚痴を聞けるピープルは思うに違いないのだが、愚痴を聞けないとはこういうことである。妻も妻でたいてい物事を偏って捉えていて、何事も自分が責められている、自分だけがよくない、自分がなんとかすればいいこと、というなかなかに極端なことを言うものだから、ついていくのが大変だという事情もある。そんなことはないでしょうと言いつつ否定しきらず、こういうことなんじゃないのと言いつつ考え方を強制せず、そういう力加減の否定を求められる。それが結構難しい。できる人はできるのだろうけれど。昨日できなかった話を今朝しなおして、妻の悩みを聞くことができ、なんとかこの件は一件落着した。
子供の髪を切りにいった。かわいくなった。
イオンモールで台湾の屋台料理を食べられるゾーンができていたので行った。一つ一つが小ぶりで色々食べられた。そのぶん割高ではあるのだが。おいしかったのでまた行くと思う。マッサージと占いのブースもあったので次はそれもやりたい。
妻は今日一生懸命家の片付けをしていた。主に子供のおもちゃの整理である。複数の箱に分類しなおし、赤ちゃん用のおもちゃはしまった。産休前に手をつけておきたかったようである。私はものを片付けることがものすごく苦手で、片付けとなると頭がフリーズして体も鉛のように重くなる。妻もわかっているので期待はされていないが、まとめた赤ちゃん用おもちゃを積んである衣装ケースを取り出して開けて押し込むという単純労働を支持されたりした。そのように使っていただけて大変優しさを感じる。
詩の講座に提出するための詩を書いていた。今回は短めにするかわりに頭韻ぽいことをしてみようとだけ決めて書き、おおむねできたのだが、気がつくとどんどん内容が暗く陰気になっている。音や形を整えるために直しを入れるたびに重たい語彙に置き換わっていく。雑誌投稿用に書いたものも悲しい雰囲気のもので、なんだかそんなものばかり書いてしまう。ドライにはできるが軽やかにはならない。そういう自分の癖が見えてきた。

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