日記2024年4月⑦

4月22日
霧雨。涼しい。妻にとってはやや寒い。パジャマのままゴミ捨てに出た。今までは着替えたり上を羽織ってから行っていたが、初めてそのまんまパジャマで外に出た。なんとも、やってやったぜという気分である。自分の世界の中で決まってしまっていることが、小さなことでぐにゃりと変化する、もしくはどうでもよくなる。そういうことも自分の中ではクリエイティブなことである。小さな怠惰を創造する。そういう生活ができるとよい。
妻の体調が悪く色々あったのだが産科に連絡して様子見でいいということだったので少し安心した。家庭用の胎児心拍を聴くエコー機械で心拍を確認したりした。胎児に何かあるとき、その原因は統計的にはほぼ特定できず、特定できてももともとの染色体以上などがほとんどを占める。外的な要因によるものは1%程度と言われる。では妊婦が気楽でいられるかというとそんなことはなく、まず常に胎児に何かある可能性というものに覚悟をして暮らしているし、何かあったときにそれが自分のせいだと絶対に思ってしまうだろうがゆえに、少しでもそう思わずに済むようにリスクを最小にするように、ベストな行動をとるように、毎日考える。未来で必ず行われる答え合わせのために準備をする。将来の自分が見張っている。その心労はいかばかりか。私には想像することしかできない。医師の仕事が人から尊ばれるとしたら、このような、本来わからない未来のリスク勘定を今現在の行動において引き受けて顕現させることにあるだろう。未来の先取りという魔術的な行為をしている。安心というのはその魔術から得られる。
こんな状況で誠に情けないのだが、今日私は歌舞伎を観に行く予定になっていたので、心配ではあったが行かせてもらった。そうしたら、私が観る予定だったのは昼の部ではなく夜の部であることがわかり、歌舞伎座前で途方に暮れてしまった。痛恨である。なにをやっとるのか。まことになさけない。
タリーズで『高慢と偏見』を読みながら外を見ていた。中年男性の傍らに、高齢のご婦人とその肩を抱いて親愛の情と気遣いをみせる東南アジア系とおぼしき中年女性がいた。エリザベスは友人シャーロットが馬鹿な従兄コリンズ氏と財産目当てで結婚したことに腹を立てていて、エリザベスとイイ感じだったウィカム氏というハンサムな軍人も急に財産のあるキング嬢という女性と婚約してしまった。ウィカムはダーシーに冷遇されて気の毒な境遇にあり、そのことがエリザベスのダーシーへのさらなる悪感情を駆り立てていて、その上でエリザベスと別れることで今後のエリザベスとダーシーの関係の進展に活力を与えている。結婚というのは今も恋愛と家族と財産が絡み合いながら人を大きな旅に誘う。特に女性にとっては。タリーズの窓の向こうに200年を跨いで同じ営みが見える。
結局歌舞伎座昼の部の当日券を買って途中から見た。「夏祭浪花鑑」。愛之助の団七は住吉鳥居前は素晴らしい。愛之助のお辰は本職でないので仕方ないかもしれないが気風の良さが見えず少し嫌味に見えてしまった。泥場は悪態をつく舅を偶然斬ってしまうところで人としての底が抜ける、団七の何かが普通ではなくなってしまった、という凄みが個人的にはほしいのだがどうも終始パニックでドタバタやっているようでやや平板。以前研の會の右近で見たときもそのように感じたのでここは誰にとっても難しいのだろう。愛之助は真面目に的確にやるので嫌いではないのだが、そのぶん突き抜ける個性が見えないところがある。この役は愛之助で見たいと思える役に出会ってみたい。
夜の部。「お染の七役」から「土手のお六」。強請りの前提になる揉め事を見せたあと莨屋の場と油屋の場。玉三郎がお六の忠義深い性根をかたちとセリフだけで簡潔に見せるところから始まり、すぐさま悪婆の顔かたちとセリフ回しに変わる。きっぱりと分かれる二面性が玉三郎のからだで一つの役として完成する驚き。役者の肉体の有無を言わせぬ説得力。玉三郎は四世南北のセリフを一番深く理解している人である。忠義深い性根は情けの深さでもある。仁左衛門の喜兵衛と心で繋がっている。江戸での揉め事を聞いて二人同時に百両の強請りを思いつくところは大変よく、これだけでエロティックですらある。お六が引っ込んで喜兵衛が死体に細工をする。仁左衛門が所作だけでたっぷりと凄みを出す。ずっと見ていられる。喜兵衛は桶の上、お六は行燈の灯りを隠して舞台下手から上手への絵が決まって幕。芸の高み。次に油屋の強請りの場。玉三郎の人形のような軽やかさ。軽やかな悪と深い情けがただの肉体に宿る。悪党の迫力を出しながら喜兵衛がずっと居座っている。細かい芝居。舞台の重力をすべて引き受けている。錦之助の山家屋清兵衛がとてもよく芝居を締めていた。最後、お六と喜兵衛で籠を担いて引っ込み。ここも喜兵衛の重みをお六の軽やかさが引っ張っている。ストーリーがコミカルで面白い芝居だけれど、ずっとすごい芸を見せている。興奮しっぱなしであった。
続いて「神田祭」。江戸の大イベントである神田祭の華やいだ街並みを背景に、鳶頭と芸者の恋仲を見せる舞踊。最高だった。これ以外に言うことが見つからない。引っ込みで花道七三でたっぷりと二人を見せて、濃密な恋の色艶。二人が頬擦りをする色気といったらない。美しい。とてつもなく凄いものを見た。このために生きている。
「四季」は左近の顔かたちのよさと踊りのうまさが圧倒的に目を引いた。
今月は19時半に終演だったので、急いで帰って子供が寝る直前に家に着いた。

4月23日
晴れ。涼しい。仕事。今日はカンファが中止だったことを忘れて広い部屋で一人ぽつんと待っていた。仕事を終えて子供のお迎え。仲のいいお友達と先生と一緒に『ミッケ!』を見ていた。回転寿司に行きたいと朝から言っていたので帰りに寄った。茶碗蒸しがおいしかった。最近子供は不満なことがあるとよく泣く。前よりも泣くし、ほぼ泣きまねでヒェーンヒェーンと言っているときもある。進級もしたし子供なりに何か色々とあるのだろう、みたいに中身はないけれどなんとなく曖昧なまま受容するための言葉を駆使しながら受け止めていく。
柴崎友香さんと町屋良平さんの対談の配信動画を見ていた。町屋さんが、近年の日本文学でたいていのことは語られてしまった後で自分に書けることのひとつは、外から内に影響を受ける男性のことだと話していた。それは典型的な男性性とは違った身体感覚である。町屋さんは持病のために小さい頃から自分の身体をよく観察し、言語化することで生き延びてきたと言う。春の体と夏、秋、冬の体は違う。普段とは違う身体になることを書くのが小説ではないかと。聴きながら私は久しぶりに十代の「多感な」時期の感覚を思い出した。思い出したというか、そのときの感覚はまだ蘇ってはいないのだが、アクリルの箱の中に隔離されているが姿はよく見えるような、認識の射程内に入ってきた感じがした。人への憧れが強かったと思う。作家や劇作家、演出家。物語作品を作る人への強い憧れ。その人そのものになってしまいたいという強い願い。そういうものがあったと思う。今と比べて、それは強度だけの違いだったのか、それとも質的な違いがあったのか。よくわからない。

4月24日
霧雨。寒め。幼稚園への車で子供が赤ちゃんのことを気にしていた。「赤ちゃんが生まれたら◯◯(自分)はおとなになるの?」「赤ちゃんはここ(自分の膝)にすわるの?」「赤ちゃんもはみがきするよね?」「赤ちゃんはどこで寝るの?」「ねるまえにミルクたくさんのまないとね」「小学生はもうミルクのまないよね」など。妻は上の子を妊娠していたときにはなかったような、きちんと育てられるかというなんとも言い難い不安があるらしく、マタニティ・ブルーというやつかなと言っていた。脳が勝手に不安になっていて、この考えは幻であると思えると楽になるということだった。不安診療の基本的な発想であるが、手強い不安症状を多くみていると案外忘れがちな一番ジェネラルな不安への対処の一つである。
幕張の本屋lighthouseの関口さんから、赤ちゃんが生まれることについて4歳児が読める絵本の情報が届いた。丁寧にいくつか紹介していただいた。ありがたい。どんなジャンルであれ、新しい本を知ることができるのは嬉しい。いくつか購入しようと思う。
今日も4歳児は帰りの車でヒェーンヒェーンと泣き声を出して不機嫌である。何なのかよくわからなくてイライラしてしまったが、その後コテっと寝たので眠かったのだとわかった。私は先週の金曜日に調子のよい一瞬の煌めきを見せて、その後はピリつき半分ご機嫌半分の日が続いており、今日はその調子もやや下降線をたどっているような気がする。俺はもうダメだぜというお気持ちメーターが溜まりつつある。うつ病本は1文字も書かず。『高慢と偏見』を、なぜこの部分を会話で書いたのだろうという問いを置きながら読んでいる。あまりわかったとは言えないのだが、必ず次の展開に繋がる話題が出ているような気がする。当たり前なのかもしれないが。とにかくこの小説の会話はおもしろい。

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