市村正親@ブルーノート東京

市村正親の俳優生活50周年記念コンサートがブルーノート東京であった。母が50年来のファンで、私も幼稚園の頃からミュージカルを見させられてきたので、行ってきた。ざっとセトリを書いておく(順番は曖昧)。
キャバレーのヴィルコメン
ダイ・アナザー・デイ
シー・ラブズ・ミー
シラノ・ド・ベルジュラックのロクサーヌ
イエス・キリスト=スーパースターのヘロデ王
ゲストに篠原涼子でオペラ座の怪人
ミス・サイゴンのアメリカンドリーム
生きる
屋根の上のヴァイオリン弾きのもしも金持ちだったなら
ラ・カージュ・オ・フォールのマスカラ

ピアノ、ヴァイオリン、ギター、ベース、ドラムのバンド。ジャズ風の編曲が効いていたのが「生きる」と「屋根の上のヴァイオリン弾き」。「ヘロデ王」も元々ラグタイム風の曲なのでばっちり。最高だったのはアメリカンドリーム。もう聞き納めかもしれないが、唯一無二とはこのことだろう。囁くように語るところから高らかにテノールを響かせて歌い上げるところまで、役を演じるという次元で全ての技術が融合している役者を他に知らない。市村正親はクセのある演技と台詞回しを拡張するように歌の技術を取り込んできた。歌の技術の中で演技をするのではない。技術よりも先に市村正親の身体がある。それが稀有なのである。(ちなみにこれが日本初演時、市村正親ファントムのオペラ座の怪人の音源https://youtu.be/HHtrd55Z9Us

市村正親のデビューは「イエス・キリスト=スーパースター」の「ジャポネスクバージョン」、ヘロデ王役で、和彫の柄のタイツに褌姿、膨らんだ胸のトップに薔薇の花が咲き、緑のアフロヘアーで花魁二人を引き連れて人力車で登場した。市村正親はデビューからクィアな表現をしていて、その後のキャリアでも多くのセクシャルマイノリティを演じてきた(コーラスライン、蜘蛛女のキス、ラ・カージュ・オ・フォールなど)。エレファントマンやファントムで「異形」として蔑まれる者を演じもし(シラノもそうかもしれない)、エクウスで「狂気」とされるものも演じた。しかし同時にそこにはハンサムな男性性が同居し、ときにそれは「おじさん」の愛嬌として表現されもした(市村正親はよく昭和の喜劇俳優への敬意を表明していた)。さらに子供が生まれてからはモーツァルトの父や屋根の上のヴァイオリン弾きのテヴィエなど、父性を演じてもいる(新演出以降のミス・サイゴンのエンジニアはラストシーンでキムの子供タムを守るように抱いて泣く)。覇権的な愛とマイナーなセクシュアリティ、「美」と「醜」、男と女といったものが舞台上で混淆し、観客はその屈折したままの結合を観る。市村正親がデビューから女性ファンを獲得し、独特なファンダムを形成しながら少数の男性ファンを巻き込んでいった背景には複雑にねじれて繋がるものがある。

市村正親は自分の表現を「芸」として認識しているのではないかと思う。伝統芸能で言うところの「芸」。継承される「型」がその人の個性、身体性のもとに顕現し、更新され、しかしまた「型」として継承される。そういうものとして捉えてはいないか。市村正親の生きてきた演劇とミュージカルの世界でそのような「芸」観を持っている人は他にいないのではないだろうか。市村正親は「市村正親の芸」を後世に残そうとしている。そう思う(だから「市村座」の公演を続けている)。子供たちを自分の舞台に上げるのは、ただの親バカとか公私混同とかいうものではなく、彼の「芸」への欲望があるのだと思う。

ちなみに、私が劇団四季の子供のためのミュージカル以外で初めて観たのが市村正親の「ミス・サイゴン」で、私が初めて自分の希望で買ったCDが篠原涼子の「愛しさと切なさと心強さと」である。控えめに言っても私は篠原涼子が好きである。二人が初めて共演したのが2001年のさいたま芸術劇場の蜷川幸雄演出の「ハムレット」で、これも実はかなりの傑作であった。蜷川幸雄は今や(昔からだが)演劇界のパワハラの象徴みたいになってしまって好意的に触れてはならない人になってしまったような気がするけれど、私は小さい頃から母に連れられて蜷川幸雄もかなり観ていて、その中でもこの「ハムレット」はベストに近い。さいたま芸術劇場の小ホールの席を一部埋めて、すり鉢状に設置された少数の客席に囲まれるように舞台が作られ、有刺鉄線を模した紐状のものが舞台から天井まで何本も張られている。客席が少なく舞台に近いことで観客は緊張感を強いられ、そこで見る正体の掴みにくい篠原涼子のオフィーリアは不気味だった。それに共鳴するように市村正親のハムレットもかなりやばかった。少年の屈託が壮年男性のギラギラした欲望と混淆して死へと駆けていく。人間の情念は本当に死を招き、おそろしいけれど、美しい、と中学二年生の私は本気で思った。

この日ゲストで舞台に上がった篠原涼子は当時よりもさらに不気味なくらい綺麗だった。

少し自分のことを語る。

母は私ら姉弟に好きなものを「布教」してきた。母はオタクの姫様のようで、自分の好きなものが世界の一番だと思っていて、自分の好きなものは自分が一番よくわかっていると思っていて、自分の嫌いなものを好きなオタクが現れると「私は嫌い」と言わずにはおれないし、自分の好きなものを同じく好きな人が現れると「私は◯◯からずっと好きで」と古参アピールを欠かさない。私たち姉弟は母の好きなものを大量に与えられて、それ以外の世界へ伸ばす手を丁寧にもがれて育ってきた。たとえば映画なんかはあまり知らない。ヒット曲も知らない。別に禁止されたわけではないが、自分の好きなもの/嫌いなものをいいもの/悪いものとして教える母の前で「悪いもの」に手を出す欲望は少しずつ力を削がれていく。母は私たちが大きくなるにつれて自由が増えていき、興味を拡げていく。私たちのチケットも自動的にとられる。もちろん、チケット申し込みの時に「こういうのがあるけど行く?」と訊かれる。私たちはたしかに惹かれる。そうなるように育てられたのだから。

しかしその欲望は自分のものなのか。行きたいが、行けば欲望が自分の手からこぼれ落ちていく。悦びを望めば悦びが母のものになってしまうジレンマ。望めと言われるが望んではいけないというダブルバインド。その鬱屈は、舞台の幕が上がったときの違和感、楽しめなさ、集中できなさ、不安感としてこっそりと表れ、なんで自分は演劇を「正しく」観ることができないのだろうという罪悪感として沈殿していく。大学に入って家を出て、物理的に東京が遠くなり、徐々に演劇から離れた。それから16年ほど、私は自分の悦びを自分のものとして求められる場所を探すのに苦労していたように思う。決して母が悪いとも間違っていたとも思わない。演劇を観ることは私の人生のある時期を大いに支えたし、逃げ場でもあった。けれど私がそれを十分に力にできなかったのだと思う。今になってようやく少しずつ私は演劇に出会いなおしている。

私の一番大事な空隙を縁取るのは市村正親だ。市村正親を見るとき、そして市村正親を見る母を見るとき、私はそのことを考える。思えば、中学生から高校生にかけて、一番学校に行っていなかったとき、私は演劇の世界で働くことを空想していた。あの空想はどこから来たものだったのだろう。結局、どこかでこれは私の空想ではないと感じていたのかもしれない。だから高三になるときに志望を医学部に変えたし、そうしたら自分で驚くほど学校に行くようになった。自分にはこんな力があって、自分はこういう人間だったのだと思った。それから16年やって、うつ病になって、また何か違うなと思ってこうやって個人的な文章を書いている。演劇に携わりたいとは思わないのだが、何かしら表現をすることへの関心が蘇りつつある。これがあの頃と同じものなのか、わからない。それでも、でもやっぱり演劇が好きなんだよな、という感覚がある。この「でもやっぱり」という逆接、屈折、折り返しが昔と今を隔てる川になっている。この屈折の彼岸に十代の私を見て、私は私のこの16年を思わずにはいられない。たしかに生きてきて、また戻ってきた私のこの現在地。

市村正親はライブのアンコールで自作の詩にヴァイオリンの土屋玲子さん(この人は長年市村正親と仕事をし続けている)が曲をつけた「Ichi's Life」という歌を歌った。「他人の激しい人生を生きたい」と市村は書いた。子供が生まれ、年を重ねて人生の終わりを見据えるようになって、それでも「生きよう」と歌う。市村正親もまた人の人生を生きながら自分の人生を生きている。市村正親を見るとその時間を確かに生きた自分を思う。屈折したファンもどきである私はそういうふうにライブを観た。

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