日記2024年4月⑥

4月19日
曇り。涼しい。ごみ収集のおじさんが親切だった。大学病院勤務である。空き時間に日本うつ病学会のガイドラインをあらためて熟読した。網羅的で詳しく、よい内容なのだが、物足りなさもある。そこが大事なところだ。発症に至る病態の把握は詳しいが、経過と改善の評価の書きぶりに、なにか迷いのようなものがあるように感じる。回復期には残遺症状にこだわりすぎないと書かれる。症状以外の何かが回復期に現れている。ここに言葉にされないクレバスがある。
大学病院の職員食堂に行った。7年ぶりだろうか。全然変わっていなかったが、大量の職員を捌いて戦場のようではあった。丼を普通盛りで頼んだら後から来た人はみな少なめで頼んでいて不安になった。なるほどわんぱくな量が来た。ここの普通は健康な若者なのである。うつ病の中年ではない。次は少なめにして味噌汁も減塩を選ぶことにする。
夕方のカンファで5回も発言してしまった。大学病院に少しずつ慣れてきたように思う。でも一年間ずっと「前よりは慣れてきたな」と思って終わるのかもしれない。続かないといいが。
医局で休んでいたら上の先生と本の話になり、流れでテレンバッハの『メランコリー』を借りることができた。ちまちま読んでいく。
子供がお風呂で「じしんはどうしてゆれるの?」ときいてきた。地面が少しずつ動いてちょっとズレると揺れるんだよ、と答えると、「じめんはどうしてうごくの?」ときいてきて、そこから「ものはどうしておちるの?」や「重力がないととんでくの?」とか「衛星は宇宙なの?」とか「春のかぜはどうしてつよいの?」「夏は?」「冬は?」「宇宙はあついの?」などなど、地学の質問が止まらなかった。あまりに賢いんで驚いた。

4月20日
雲の多めな晴れ。暖かい。少し疲れている。昨日調子が良かったので例の如く今日はピリピリしている。妻があれが不安だこれが不安だと言うので余計なことを言ってしまう。でもまあ私も別に悪くないと思うことにする。
なりゆきで子供のお仕事体験テーマパークに行った。それぞれのブースで係の人の指示のもとお仕事体験をする。衣装を着せられ並ばされ、説明されて実行する。子供は徹底的にお客さんとして接遇されるのだが、指示通りに役割を果たす存在であることを要求され約束させられる。奇妙な自家撞着のようにも見えるし、当たり前のこの世界のカリカチュアにも見える。従業員のいかにもマニュアル通りな接客が、このテーマパークにあってはこのうえないリアリティをもたらす。子供たちはよいお客さんになることを通してよい仕事をすることを学ぶ。ここでは消費者であることと労働者であることが仮想的に厳密な一致をみせる。このテーマパークは、人間を消費者として馴致することと労働者として馴致することが同じことであるということを具体的に体現している。すごいことだ。褒めているといえば褒めているが褒めていないといえば褒めていない。現実には、我々は名も無きお客さんでありつつどこぞの誰かさんであって、匿名の労働者でありつつ固有の人である。いつものコンビニに行けば顔を覚えられている感触を得るし、なじみの定食屋や居酒屋、スーパーでもそうであり、職場でももちろん特定の独特な存在として認知され接せられる。純粋に消費者ないし労働者であることを乱すノイズとしての固有性を、子供はもちろん当たり前の前提として生きている。そんな現実を、テーマパークではより「夢の」社会に近づけていく。金を払って純粋な商品となり、消費し消費される夢をみる。ただその中にあっても、これまた当たり前なのだが、いろんな子供がいる。ノリノリで自分のペースを作ってしまう子もいるし、言うことを聞かずに勝手をしたり駄々をこねる子もいる。うちの子のように雰囲気にのまれることを恐れるがゆえに全力で表面を繕って防御する子もいる。そのかけひきがスリルを生んで自分自身の生を確める。それが抵抗の表象である。思えば、幼稚園の先生や心理職なんかはこういう抵抗の痕跡をこそ見る。それを見ることができるのが専門性であって、子供を一様に誘導する技術はただの道具である。このような一番vitalなものを欠いた接遇の技術はまさにゾンビのようで、対する子供たちの無言で饒舌な抵抗のvividなこと。いずれお前もこうなるのだよという完成されたメッセージを、(親の)お金で買い、最もまともに受け止め、実践し、しかしその真っ当さこそが「いや、ご覧の通り私たちはそうはなりません」という抵抗になる。同じ時間にパーク内にいた子供たちを見て、すでにそこにある抵抗にうちの子が気づいてくれていたら嬉しい。まあたぶん気づいている。私たち夫婦がうちの子からその力を奪っていない限り必ずできる。そういうものである。
ちなみにお仕事体験テーマパークは中央がかなり広くテーブルと椅子の置かれた休憩ゾーンで、収容人数以上のキャパシティがありそうだった。親はそこに陣取って飲み食いしながら子供を待つことができる。親にとって居心地が抜群にいい。作りが上手い。また、歯医者はあったが医者の体験はなかった。ブースを作るにはスポンサーがつく必要があるが、ここに出店することで利益を得る医療法人がないのだろう。医師は皆保険システムに規定されていることで市場原理主義的な自意識をもつことを免れている。それは倫理的な善悪の問題以前に、医師という職業の独自性を保つ、大きな価値を与えている。
パーク内でラーメン、ナポリタン、機内食の炊き込みご飯、といういずれも冷凍食品という感じの最高のジャンク感を纏った夕食を済ませ、帰る時に子供のリュックがないことに気がついた。記憶を辿ると入場待ちの列に並んだ時にはすでになかったはずで、外のショッピングモールに忘れたはずであった。モールのインフォメーションで問い合わせ、「あーなんかこれだと思います」と取り寄せてもらい、果たしてうちの子のリュックであった。パーク内では忘れていた疲れを全て思い出し、疲れ果てた。ピリピリしてイライラしやすい状態が復活した。帰り道ずっとスマホを見ていないと寝てしまいそうだったからスマホを見ていたが、ずっとスマホを見ているだけのやつは寝ている人間とあまり変わらない気もした。家まで歩くだけのゾンビである。子は将来どんなゾンビになるだろうか。

4月21日
曇り。涼しい。子供とアンパンマンのかるたをした。ひらがな五十音は読めるが、まだぱ行ば行と小さいやゆよに自信がないらしく、「はに丸はなんて読むんだっけ?」と訊いてくる。電車で出かけたいと言うので幕張にある本屋lighthouseへ行った。子供はその並びにあるたい焼き屋さんのたい焼きが好きなのである。妻は体調がよくなかったが子供が一緒がいいと言うのでついてきてくれた。本屋で店主の関口さんに、子供向けの絵本で母親の妊娠のことや赤ちゃんが生まれてくることについて買いているものはないかと相談した。調べて連絡をいただけることになった。他に絵本を1冊買った。すいかの絵本。帰って折り紙などをした。妻は体調が悪そうだった。ただあまり「無理しないで」ということを言うのも妻としては「胎児に何かあったらわたしのせい」と言われているように感じてしまう部分があるらしく、按配が難しい。まあ簡単なことなんてないのだが。子供を風呂に入れたら少しのぼせてしまったみたいで、飲み物を飲んで元気なさそうに横になっていた。「きのうおしごとしたからつかれちゃった」と言った。昨日のお仕事体験テーマパークは、子供にとってちゃんと働いた経験になったのだった。えらいなあと思う。子供が寝たあと布団の中で、電車の先頭車両で抱っこして運転席を見たことやミッキーのTシャツが似合っていたことなどを思い出した。今日は少し大きめの夜驚があった。疲れていたようだ。

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