見出し画像

【掌編小説】夜明け前

 真夜中に目が覚めて、部屋の片付けをしようと思った。
 目についたのは本棚で、一番下の段にある手帳をすべて出して重ねる。ここ十年間くらいの手帳を、なぜかずっと大切に保管していた。でもこれはもう要らないものだと思い至ったのだ。
 ページを開いてみれば、なんと言うことはなかった。何時にどこで待ち合わせだとか、この日はあのバンドのライブに行くだとか、殴り書きのように予定だけが書き込まれていて、そこに感傷を抱こうと思う方が難しい。単純な、時間の羅列だ。
 大学生の頃、何気なく受けた哲学の授業で、「今とは何か」という話を聞いたことを、ふと思い出した。流れ続ける時間は捉えることができず、「今」という瞬間を可能な限り細かく刻んでいけば、どこまでもどこまでも、時間は分割することができる。それは、止まっているのと変わらないのではないか?
 ゼノンのパラドクス。有名な命題だった。
 今というものが存在しないのであれば、時間は淡々と並ぶ年表のようなものになる。それはそれでいいのではないかと思ったが、

「今のない時間は、此所のない地図と同じですね」

 と、教授が言ったのが印象的だった。
 すべてが過去になった手帳の日付と、そこに並ぶ単純な予定は、もう戻れない世界の地図と同じだ。ここに自分の居場所はなく、思い入れもそれほどない。これが日記帳ならまだ、自分がその場所で生きていた形跡のようなものを、色濃く感じることができるような気もするけれど。
 すべて重ねて紐で縛ってしまえば、十年間の形跡なんて簡単にゴミになった。明日、外のゴミ捨て場に出しておしまい。まだ片付けは終わっていないけれど、何だかやりきってしまったような気になってベッドに横になった。眠気は、完全に消えてしまった。
 照明に、手をかざす。
 右手の甲には、ナイフで切りつけたような傷跡があって、それはまあ、その通りナイフで切りつけたからできたものだ。昔はそれなりに腫れ上がって、毎日痛かったような気がするけれど、もうただの白い線になるまで薄くなっている。いつの傷なのか、鮮明には思い出せない。さっき束ねた手帳にだって、そんなことは書いていないはずだ。でも、夏の暑い日だったような気がする。晴れてもいなくて、雨も降っていなくて、何もかもが中途半端で、気温ばかりが高い夏の空気は、自分の輪郭を奪い去っていくような気がして、不安だった。だから、こんなことをしたような気がする。どうかしていたのだと思う。

 こんな手を、好きだと言ってくれた人が、昔いた。

 夏が終わって、空気がやたら澄んだ秋の夕方だった。空には鱗雲がびっしりと広がって、飴色に光っていた。多分、世界が終わる日はこんな風だろうと思うような空だったことを、今も覚えている。あの頃は傷が簡単に治らないように毎日瘡蓋をはがしながら、楽器を弾いていた。その痛みを心地よいと思うような毎日だった。そんな、決して美しいとは言えない手を綺麗だと言ったあの人は、いったい何を見ていたのか、何を思っていたのか。今、もしもう一度会ったら、同じことを言ってくれるだろうかと考える。もう傷はほとんど残っていないし、まるで身辺整理をするように、捨てることの方が増えてしまった手だけれど。
 いや、もしかしたらもう、忘れられているかもしれない。
 息をついて起き上がると、一冊だけ、束ね損ねていた手帳があったことに気付く。ちょうど十年前のもので、初めの方は他のものと変わらず、ところどころ予定が書いてあるだけだった。ぱらぱらと無感情にページをめくっていると、
――何のために生きているのかわからない。
 と、滲んだ字で書かれていた。見慣れた自分の文字だ。思わず笑ってしまう。十年前から、何一つ進歩していない。今だってそんな問いの答えは出せず、上手くアイデンティティも確立できないまま、止まった今の中で生きている。世界はどこまでも広く、世界はおそらく明日も続いていく。今も、此所も、自分には確かにある。それなのに、どうやって進んでいくべきか、よくわかっていない。
 次のページを開くと、ノートの切れ端のようなメモが落ちてきた。自分の筆跡ではない、誰かの文字が書かれている。
――それでも必要だ。
 その文字の主を思い出す。世界の終わりのような、秋の夕暮れと一緒に。あの日、この手を見て、あの人が何を思っていたのか、自分にはわからないままだ。それでもまだ、この五本の指には使い道があるのかもしれない。世界が消え去って、すべてが凍り付く前に、自分はここにいると、言うことができたなら。

 手帳を本棚に戻して、部屋の窓を開けた。
 まだ暗い空には、まばゆいほどに、あかつきの星が光っている。


 

noteをご覧いただきありがとうございます! サポートをいただけると大変励みになります。いただいたサポートは、今後の同人活動費用とさせていただきます。 もちろん、スキを押してくださったり、読んでいただけるだけでとってもハッピーです☺️ 明日もよろしくお願い致します🙏