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【掌編小説】架け橋

 わたしが生まれ育った町はこれと言って特徴もなく、商業施設と住宅が並ぶだけのよくある田舎だった。観光場所と言えば、市の南側の小さな島くらいだ。キャンプ場と海水浴場があって、山の上からは星が綺麗に見えた。

 高校のクラスメイトが、その島に住んでいた。本土と島にかかる大きな赤い橋を毎日自転車で渡って、市の北はずれにある高校まで一時間近くかけて通学していた。遅刻魔でサボり魔の彼女は一限から教室にいることは滅多になく、三限目くらいで校門をくぐり、保健室のベッドを経由してから五限目でようやく自分の席について、残りの時間を寝るか落書きをするかして過ごした。
「ノートを見せてください」
 というのが彼女の口癖で、わたしは放課後、ほぼ毎日彼女にノートを貸していた。彼女はさらさらとわたしの拙い字が並ぶノートを写し取り、いつもやけに可愛くデフォルメされたわたしの似顔絵をノートの隅に描いて返した。
「また梅田先生に笑われるんだけど」
 わたしが眉をひそめると彼女は朗らかに笑って、「じゃあ消せば良いじゃないですか」と言う。社会の先生に笑われようと数学の先生に渋い顔をされようと、わたしは彼女の落書きを消すことができない。彼女はそれを重々知っていてそんなことを言うのだ。それが癪で仕方なかった。
「……あと芸大を受けるにしてももう少し真面目に授業を受けてはいかがか」
「無理ですね」
「返事がはえーよ」
 わたしの言葉に彼女はへらへら笑い、「帰りましょうよ」と鞄を肩にかけて立ち上がった。

    *

「あの橋、心霊スポットなんですよ。知っていましたか」
 帰りに寄り道したアイスクリームショップで、ふと思い出したように彼女は言った。
「橋って、島に続くあの橋?」
 聞き返すわたしに彼女は頷き、
「実は自殺の名所です。先週も一人飛び降りました」
 と、何でもない風に言った。わたしはカップにプラスチックのスプーンを滑り込ませながら「知らなかった」と応える。会話はぷつりと、そこで途切れた。
 鮮やかな色のアイスクリームは驚くほどに甘く、少しずつしか減らない。食べるより遥かに速いペースで溶けていく。わたしは行儀悪くスプーンをかじりながら、ふと青いブレザーから覗く彼女の右手首に視線をやった。

 彼女が絵を描く右手には、無数の傷がある。まだ生々しい、腫れ上がった赤い痕もいくつか見える。彼女が朝に弱いのも、しょっちゅう保健室で寝ているのも出血による貧血のせいだということをわたしは知っている。

 自らの手で自らの手に傷をつける行為の意味がわからず「それは躊躇い傷なのか」と尋ねたことがある。彼女はいつものようにへらへら笑って「死にたいのは山々ですが死ぬのとは別です。こっちは祈りの儀式のようなもんですよ」と言っていた。
「あやが死ぬなら飛び降りだと思う」
 わたしはぽつりと言った。彼女は一瞬虚を突かれたような顔をして、それから愉快そうに笑った。
「飛び降りですか」
「あの橋から飛び降りて、海で死ぬのが似合う」
「そりゃあ、ありがとうございます」
 くつくつと、彼女は本当に嬉しそうに笑っていた。わたしは何だか居心地が悪くなって、スプーンでアイスを掬って一気に食べる。異様なほどに甘くて、冷たかった。顔をしかめるわたしを見て、彼女はまた愉快そうに笑い、
「あなたはかわいいですね」
 と、そう言った。わたしは顔を上げて彼女の目を見る。
「うちの母によく似ていますよ」
 そんな言葉が、続いた。わたしは何と応えて良いかわからず、「そう」と曖昧に頷いた。

    *

 その翌日、彼女は学校に来なかった。誰ひとり、彼女に連絡が付かなかった。家族もみんな知らない。そんなことがあるのかと呆然としていると、彼女の家の近所に住んでいた先輩から、少し前に彼女の家族は離散していたのだという噂を聞いた。家庭はもともと上手くいっていなくて、怒鳴り声や悲鳴が頻繁に聞こえていたらしい。それがとうとう、修復不可能なところまで壊れて、あの島の家にはしばらく彼女がひとりで住んでいたのだと。

 彼女の鞄と靴が海で見つかるまでに、大した時間はかからなかった。遺書も遺体もまだ上がっていないから失踪、と誰かが言うのをぼんやり聞いていた。
 不思議と、涙が出る気配はなかった。
 わたしは彼女の右手の傷跡を思い出す。生々しい赤い色。綺麗な絵を生み出すその手にあまりに不釣り合いな不格好な線の羅列。祈りの儀式だと彼女は言ったけれど、一体何を祈っていたのだろうと思った。祈りは届いたのだろうか。それとも最初から届かないことを、彼女は知っていたのだろうか。
 わたしは毎日彼女に貸していたノートを開く。落書きを改めて見返した。彼女が最後に描いたわたしの似顔絵を見た瞬間、ああ駄目だと、そう思った。「ありがとう。愛しているよ。明日もよろしく」そんな言葉が彼女のふざけた字で書かれていて、
「馬鹿だな」
 と、わたしは震えた声で呟いた。



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