【掌編小説】夜を重ねて

 足の爪を切っている。
 親指から順番に、爪切り鋏を差し込んでいく。ぱちんと、さっきまでわたしだった部分が切り落とされる。わたしは爪切りがあまり得意ではない。いつも切りすぎてしまって、小指から血が滲むことも多かった。
「ポメラニアンが飼いたい」
 隣でテレビを見ていた彼が、ぽつりと呟いた。
 わたしは手を止めて顔を上げる。最近買い換えたばかりのテレビの画面には、転がるように走り回るポメラニアンの映像が映し出されている。愛くるしい姿に彼は感嘆のため息をついた。わたしは視線を落として、再び足の爪を切る。
「ここペット可だったよね」
「そうだけど、きみポメラニアン飼ったら口に入れそうで嫌だ」
 わたしの応えに、彼は眉根を寄せた。わたしの視線は爪の方に向いているが、彼がどんな顔をしているかわかる。
「逆に聞くけど、なんでポメラニアンを口に入れないの?」
「わたしは正気なので……」
 ぱちん、と音を立てて小指の爪を切る。じわりと痛みが走った。出血はしていないが、また少し深く切りすぎた。
「実際に飼ったら本当に口に入れるのかな、俺」
「存じ上げないですが」
 彼の問いかけに、小指を撫でながら応える。彼はわたしの足先を見て「また切りすぎてる」と言った。
「上手く切れない」
 そう言うと、彼は笑う。
「切らなくていいときにまで切るからだよ」
 癖になると痛い思いするよ、と彼は続けた。
「もう癖になってるよ」
 わたしはテレビに視線を送る。七年使っていたテレビを、彼と二人で暮らすための引っ越しのタイミングで買い換えた。2Kのものを4Kにしたが、わたしは目が悪いから、画質の違いがよくわからない。わからないけれど、今2Kの映像を見たらその粗さに驚くのかもしれない。見るに耐えなくなるのかもしれない。2Kで満足していたころには戻れないのかもしれないと思うと、何だか恐ろしいことのように感じる。
「たぶん俺ね、口には入れないと思うんだよな」
「もう良いよ、その話」
 そんな引っ張る話題じゃないでしょ、とわたしは声を上げて笑う。
「いや、確かに最初は口に入れるかもしれないけど、だんだんいるのが当たり前になってくるからさ、ペットっていうのは」
 昔飼ってた猫のにゃんたもそうだったけど、と彼はいう。「そうかもね」と、わたしはぼんやりテレビを眺めながら応えた。少しの沈黙のあと、
「後悔してる?」
 と、彼は言った。わたしは彼の顔を見る。
「俺と一緒にいること」
 彼は涼しそうに笑っていた。わたしが「後悔している」と応えて、「本当はきみなんて切り捨ててもいいと思っていた」と言っても、彼は「そうかい」と同じ顔で笑うだろう。わたしは右の小指の爪を撫でた。じわじわと痛む。
「後悔はしてない」
 わたしは素直に応えた。
「けど、一緒にいるのが当たり前になるのは怖いと思う」
「怖い?」
「怖い」
 今のこの状態が当たり前になって、ある日突然なくなったら、わたしはきちんと世界を見ることができなくなりそうだ。見るに耐えないと思う日がくることが恐ろしい。それが嫌で、今までずっと、わたしは自分から大事な人を切り捨ててきた。自分から捨てれば、まだ諦めがつくから。
「子どもだねえ」
 わたしの話に彼は笑って、
「当たり前は作るものだよ。積み重ねの上に成り立つもの」
 と言った。わたしから爪切り鋏を取り上げて「俺は作るつもりでいるよ」と続ける。
「手伝ってくれる?」
 彼はわたしの目を覗き込んで問う。わたしは、小さく頷いた。そのまま自分の爪先を見る。深爪が並ぶ。血が滲んだあとが残る。しばらくは、爪を切るのを止めようと思った。
「ポメラニアン飼う?」
「え?」
「俺は最初口に入れると思うけど」
「絶対に止めてほしい」
 わたしが眉根にしわを寄せると、彼はおかしそうに笑った。次の日曜日に、ペットショップに行ってもいいなと、テレビを見ながら考えていた。


 


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