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日本民族伝説全集 京都・大阪・奈良篇(京都)


花の都

山ざくら匂ふあたりに朝な朝な
たなびきわたる春霞かな(明治天皇)
春の野山を守りたもう女神佐保姫の恵み深く、うらら
かなる日、霞の精白玉姫のさまよわれるあたりを見れ
ば、都も鄙もおしなべて、春は、桜の花ならぬはありま
せん。
桜よりまさる花なき花なれば
あだし草木はものとやはみる(紀貫之)
貴な相に代って、ながく日本の国華として賞翫されるよ
うになりました。まこと、牡丹や梅の伝来的な趣味であ
るのに反し、桜は日本固有の花木、われわれはまた先天
的にこの花を愛する国民性に育て上げられてきました。
桓武天皇の延暦十一年(七九二年)和気清麻呂が山城国
葛野郡に奠都のことを密奏されたについて、地を相せし
め、新都経営を決し、十三年(七九四年)十月二十二日
新京に遷られ、"平安奠都"の勅を発せられました。"山
勢実に前聞に合ふ、云云。此の国山河襟帯自然に城をな
す。斯の形勢によりて新号を制すべし。又、子来の民、
謳歌の声、異口同音に号して、平安京といふ。今宜しく
之に随ふべし。云云"と。でも、大極殿未だ成らざるに
よって、延暦十四年(七九五年)正月の朝は廃され、十六
日、侍臣に宴を紫宸殿に賜わり、それより踏歌(男女集
会、踏舞する風)を行わせられました。
季寄にいわゆる花の錦は、百花の王である桜をいい、
その艶麗な美性は、ついに、梅花の芳烈な気韻、牡丹の富
卑高泳沢治歓情
中外含和満頌声

今日新京大平楽
年々長奉我皇庭
新京楽平安楽土万年春
見渡せば柳桜をこきまぜて
都ぞ春の錦なりける(素性法師)
これは、その一つの踏歌の喜びあいでした。
延暦十五年(七九六年)正月朔日、天皇はじめて新宮大
極殿高御座に御して、朝賀をうけられましたが、左大臣
藤原小黒麻呂の造宮大夫を止め、和気清麻呂を造宮大夫
こし、坂上田村麻呂(漢人族)を木工頭とし、菅野真道
「百済王族)を造宮亮、物部建麻呂を大工とする陣容で
造宮の工事はなお継続されました。
この平安京の大内裏は、もと秦河勝(秦人族)の邸宅の
跡で、紫宸殿御前の橘の木は、もと河勝の屋敷にあった
ものでしたので、この時、南階の庭前に、日本古来の桜
が植えられることとなりました。この頃から、宮中・離
宮はもちろんのこと、各地の社寺邸宅に、桜が多く植え
られて、春の平安京は、あたかも花の中に埋もれた、花
の都となってきました。
とうたわれた春の都の実景は、平安遷都後永くつづい
てゆきます。
世の中に絶えて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし(在原業平)
と、桜礼讃の精神は、平安京の人々の心を支配して、
いにしえの奈良の都の八重桜も、いつしか新京にうつし
植えられようとさえした伝説を遺しています。
さて、桜の名は、古く『日本書紀』允恭天皇の条に、
つぎの御製が見えています。
花くはし桜をめでことめでば
はやくはめでずわがめずるこら
『万葉集』に見えている若宮年魚麻呂の歌ったといわれ
ます、
処女らが、かざしの為に、遊士が、鬘の為と、敷き
ませる、国のはたてに、咲きにける、桜の花の匂ひは
もあなに。
など歌われ、挿されもしていましたが、平安朝に入る
と、民間の桜を愛賞する一般の好尚は、ついに貴族をも
本来の好尚にかえらして
百敷の大宮人はいとまあれや
桜かざして今日も暮しつ(新古今集)
去年の春逢へりし君に恋ひにてし
桜の花は迎へ来らしも
右の古歌は、どのように古く我等の祖先が桜の花を愛
賞したかを証するものでありますが、何をいってもまた
奈良朝は、シナ文化心酔の時代だけに、都においては桜
よりもむしろ梅に重きを置いて、
百敷の大宮人はいとまあれや
梅をかざしてここに集へる(万葉集〕
と改めしむるにいたりました。
これは、決してその人たちが趣味の推移を語るもので
はなく、まったく日本国民本来の趣味であったものが
一時伝来の趣味に圧迫されていたまででありましょう
そして、それからは、決して、人人は桜を忘れず。
うらうらとのどけき春の心より
匂ひいでたる山桜花(加茂真渕)
一年の花てふ花を集めても
桜にたぐふ花やなからん(小沢蘆庵)

花くはし桜の花は花といふ
花の君といふ花にぞありける(本居大秀)
の心になっています。かの佐久間象山が、桜の賦を著
して、富岳と一対にしたのも、まこと当然の帰結であり
半安朝このかた、桜が紫宸殿の植木となっているのも、
この花を、わが美の対象とした思想の一端に外ならない
でしょう。
『万葉集』時代の桜の名所は、天之来芽山、竜田山、奉
日山、三笠之野辺、糸鹿山、絶等寸笑山などでありま
すが、ことに、吉野山は、持統天皇には再三再四の行幸
と、柿本人麿なども「御心を吉野の国の、花散らふ秋津
の野辺に」とか「山神の、奉る御調と、春べには、花挿
しもち」など歌うて、歌を奉っています。
『古今集』の序にも「春のあした、吉野山の桜は、人麿
が心には雪かとのみなん覚えける」と見え、
みよし野の山辺にさける桜花
雪かとのみぞあやまたれける
と歌っています。今も、桜の名所として、天下第一を
誇るのは、大和のこの吉野山で、
吉野山霞の奥は知らねども
見ゆる限りは桜なりけり(八田知紀)
と歌われるほど、満山悉くの桜樹で、
むかしたれかかる桜の花植ゑて
吉野の春の山となしけむ
と怪しんだ者は、ただに後京極摂政太政大臣ばかりで
はありません。
み吉野の桜咲きけり帝王の
上なきに似る春の花かな(与謝野晶子)
湧き出でて禁じ難いものあるを覚えます。
吉野には古く離宮があって、その行幸も応神天皇の頃
にはじまり、奈良朝にはたびたびの行幸、ことに持統天
皇の飽かぬ御賞観を賜っています。山城へ遷都の後は
その事ようやく絶えたようでありますが、ふたたび山城
平安の都に遷されてから後は、一層の賞観をうけ、文禄
三年豊太閤の花見があってからは、花の名所としてその
名ことに高くなりました。
のみならず、吉野への思い出は、南北朝争乱の時にさ
かのぼって、南朝五十七年間の皇居であったことを偲げ
せます。蔵王堂の東の吉水神社は、後醍醐天皇の行宮の
址として、当時の御製に、
花に寝てよしや吉野のよし水の
枕のもとに石走る音
この頃の天皇の起居に吉野山の桜が絡む南朝譚は、涙
歌書よりも軍書に悲し吉野山
と貞室が詠んだように、吉野は花の名所としてばかり
でなく、歴史的名所として、ことに感慨深いものの多く
があります。
保元の頃、藤原中納言成範(小督局の父)という人は、
この上なく桜を愛して、この吉野の桜をわが室町の邸内
に多く移し植えて賞翫しましたが、邸の門の前通りにも
西東へかけて一ぱい桜の並木を植え通され、年毎の開花
を楽しみにしておられました。都の人々は、その桜並木
の美しさに、その辺を桜町と呼び、卿を桜本の中納言、
また桜町の中納言と讃えました。中納言は、待ちに待っ
て、やっと開いた桜の花が、またたくまに続紛と美しゅ
う散ってしまうのを嘆かれて、泰山府君を祭って祈った
ら、花七日の短い寿命の桜の命が三七日まで保ったとい
う、優美な話も伝えられております。

稀にだに来む人待たんわが門を
七日は花に朝ぎよめして(三積)
こうして「花七日」の寿命を惜む詞は、かなりに古い
伝説です。
さて、京都は"花の都"、吉野は"花の故郷"と称え
らるる程の名所でありますが、吉野についで、初瀬も、
花の名所として古い歴史を持っています。
と歌われた多武峰も、花と紅葉の名所で、ここから一
つ峠を越えて、急に吉野への花の旅は、もっとも興の多
いことでありましょう。
西行法師は、洛西嵯峨に住して、庭前の桜を愛しまし
にが、この桜、非常の名木で、観桜の人々で賑いを呈す
るのを見て、
花見んと群れつつ人の来るのみぞ
あたら桜のとがにぞありける
たづね来てここも桜の峰つづき
吉野初瀬の花の中宿(飛鳥井雑章)
桜歴史伝説年表
と詠んで、桜の精の老翁に咎められた伝説は、謡曲西
行桜によって、著しく世に知られています。
(BC.74)
履中天皇、皇妃と御船を磐余市磯池に浮べられ御宴を催したもう。時ならぬ桜の花が
器の中に散るを見られ、何処の花ぞと探したまい、掖上の室山に桜花開けるを知られ、
それより皇居を磐余稚桜宮と名づけられる。『日本書紀』に、『三年冬十一月桜花落エ
御盞天皇為宮名、故謂磐余稚桜宮』見えておるを見ると、十一月の花のようです。
允恭天皇の御代、性氏の瓢別を正されましてから後、桜ははじめてその頃の人たちの
観賞に上りました。御製に、
花くはし桜をめでことめでば
はやくはめでずわがめづるこら。
滋賀の花園を置かれました。
時の都は近江国志賀郡大津宮でありました。
四季に花咲く桜を植ゑて、駒を遊ばせられてから、滋賀の花園と申すという
さざ浪やしがの花ぞの見るたびに
むかしの人のこころをぞ知る(古歌)
天武天皇の御製に、
よき人のよしとよく見てよしと言ひし
よし野よく見よよき人よく見よ
天武登極以後、勅して桜樹若干株を、吉野の大峰の登山口たる金峰山に植えました。
その後、貴賤男女にして芳山の神祠に祈るもの、桜を植えて神徳に報じました。
持統天皇、吉野山に再三再四の行幸で、柿本人麿は、
御心を吉野の国の花散らふ秋津の野辺に
山神の奉る御調と春べには、花〓しもち
等の歌を奉る。

左大臣正二位長屋王、園池に桜を植えて、花の宴を催す。平城朝観桜詩宴のはじめでs
景麗金谷室、年開積草春、
松烟双吐翠、桜柳分含新、(『懐風藻』王作宝桜置酒の詩)
奈良朝時代、若宮年魚麻呂の歌に、
処女らが、かざしの為に、遊士が、鬘の為と、敷きませる、国のはたてに、咲きにけ
る、桜の花の匂ひはもあなたに
去年の春逢へりし君に恋ひにてし、桜の花は迎へ来らしも
『万葉集』に見えています。この時代の桜の名所は、
天之来芽山、竜田山、三笠野辺、糸鹿山、絶等寸笑山などであります。
称徳天皇、伊勢の不断桜を召され、またかへさせたまふ。
しの桜、伊勢国、白子観音の境内にあり、年中常盤に花を開く一奇樹。称徳天皇、珍
らしとて禁庭に召されしに、一夜にして枯れしゆゑ、御製をそへてかへし植ゑかへさせ
たまひしに、枝葉再び生い茂ってもとのごとくなりしといひ伝へらる。
御製
誓ひあれば前も桜の花なれば
見る人さへや常盤なるらむ
その後、宗祇の句に
冬さくは神代も聞かぬ桜かな
平安朝以来桜が紫宸殿御前の植木となりました。(左近の桜)
その頃民間の桜を愛賞する一般の好尚は、貴族に及び、
百敷の大宮人はいとまあれや
桜かざして今日も暮しつ
吉野山の山霊から、一童女に託して告ぐるものがあっという伝説があります。「我は桜
を愛するの神なり、今より以後桜を栽る者は立所に是を罰せん」と。山人は畏みて、〓
嵯峨天皇、弘仁三年春、神泉苑に幸ましまし、花樹を御覧あそばし、文人に命じて〓

八三三
八五〇
行花宴、花宴何太合良辰、玉管千調無他曲、金曇百味自能醇、台上美人奪花彩
欄中花綵如美人、人花両両共相対、誰得分明偽与真、借問花節有期否、花開花落
億万春(『凌雲集』小野岑守の詩〕
その後の歌に、このことはしばしばうたわれております。
ちはやふる神の泉のそのかみや
花をみゆきのはじめなりけり(『年中行事歌合』宗時)
二年十一月桜の花の返り咲きで、春の桜のために、花下に花の宴を開くことが恒
例の儀式と定めました。
清涼殿の東二三歩のところに、紅桜を植えさせられました。
惟喬親王、河内国交野に御狩の時、〓院の花盛に逢い、供奉の在五中将(在原業平)
が名歌をよみ出でたことは、伊勢物語に見えております。
今狩する、交野の〓の院の桜、ことにおもしろし、その木の下におりゐて、枝を折り
い、かざしにさして、歌よみけり。かの右馬頭なりける人のよめる、
世のなかになべてさくらのなかりせば
春のこころはのどけからまじ
となんよみたりければ、或人、
散ればこそいとど桜はめでたけれ
うき世になにかひさしかるべき
〓院の桜は、『弘安百首』に、次の歌をのせています。
かたのはま〓の桜いく春の
たえてといひし朝に咲くらむ
わだつみの〓の岡の花ざくら
まねきぞよする沖津しら浪(源明朝臣)
集)
南殿の御前の左近の桜が枯れ、根から纔かに萌え出でました。
南殿の桜のこと。また御階の桜とも称えます。紫宸殿巽の角にあります。右近の橘と
共に左右の将ら列をなす。しるしの樹、桜枯るれば左大将これを植うるならわしであり
ました。よって、坂上胤守勅を奉じてこれを守り、枝葉再び盛りとなるという伝説があ
ります。
いにしへの雲井のさくら種しあれば
また春にあふ御代ぞしらるゝ(左近大将為教)
藤原良房、「染殿の后の御前に、花瓶に桜の花をささせたまへるを見てよめる」(古今
としふれば齢は老いぬしかはあれど
花をし見れば物思ひもなし
こそ、藤原一門栄華の基をひらいた人で、染殿の后は彼の女、清和天皇を生みまつ
ったために、文徳天皇の遺詔によって、人臣にして初めて太政大臣摂政となる。
御室仁和寺創建にあたり、桜を植える。
北に五粒松があり、花の南に竿竹がありました。
我君毎遇春日毎及花時、惜紅艶以叙叡情、翫薫香以〓恩〓此花之遇時
也、紅艶与薫香而巳。(菅公『春惜桜花応制』の詞より〕
今年ばかりは墨染にさけ
この歌は、寛平三年正月十一日に薨じた関白藤原基経を、深草山に葬った時の歌であ
ります。それで、その年の花は黒く咲いたと伝えられ、いわゆる黒染桜のもとをなして

紀友則、吉野山に桜を見る。時の歌、
雪かとのみぞあやまたれける
菅原道真、太宰員外帥に左遷されての後によめる。
桜花ぬしを忘れぬものならば
吹きこん風に言づてはせよ
これは、「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花」といわれた飛梅と共に名高いもので、『天
神記』の「桜は枯るる云云」というのは、これが源でありましょう。北野の末社十二所中
に、桜葉神社というを祀るも、このゆかりでありましょう。
紀貫之など『古今和歌集』撰上。桜の歌が多い。一二
たれこめて春の行方も知らぬまに
待ちし桜もうつろひにけり
さくと見しまにかつ散りにけり
思ふ木かげに立ちよられつつ
九二六
九九一
朽せしな妙なる法の花かつら
ながき世かけて頼むちぎりは(万和門院)
志賀の花見に、滋賀寺上人、京極御息所の御情にすがる。
「京極の御息所、御名は褒子、左大臣時平の女、志賀の花見に、車のすだれの浦風に吹
き上りしを、志賀寺の上人見て、見合たりしより、現のやうにあこがれて、京極の御訴
に参りてたゝずみ居たりしを、簾よりめして、御手を出させたまひしに、上人御手にす
がりて、
はつ春の初子のけふの玉ははき
手にとるからにゆらぐ玉の緒。」
紀貫之御室に花見し歌を詠ず。
花の香に衣はふかくなりにけり
木の下蔭の風のまにまに(『新古今集』)
二月十七日、花の宴を催され、「桜繁春日斜」の題下に絶句を賦せしめらる。
皇后清涼殿にて高欄の青磁の花瓶に桜のおもしろき枝を御覧あらせられ、主上清少納
言に歌をと仰せられました。
としふれば齢は老いぬしかはあれど
君をし見れば物思ひもなし
右の歌は古今集に出ている、前掲、藤原良房の歌の『花をし』を「君をし」と変えて清
少納言が詠じたものであります。
清少納言は、『枕草紙』"木の花は"の条に、「桜の花びら大きに、葉の色濃きが、枝ほ
そくさきたる」と記しています。
紫式部、『源氏物語』を草し、五十四帖に花の宴の巻をなしてます。なお理想の佳人と
してうつしいだせる紫上の君を、春を愛ずる女流として、「けだかく、きよらに、さ

とうち匂ふ心地して、春の曙の霞の間より、おもしろきかば桜の咲きみだれたるを見るい
ここちす」
とのべています。
官女伊勢の、斎主の娘大輔が、奈良の旧都から八重桜を伐り採り、献上の折の即詠
いにしへの奈良の都の八重桜
けふ九重に匂ひぬるかな
この歌でそぞろに旧都の花を偲びいでられた上東門院は、元樹の八重桜の老木を新都
に移し植えよと命じたもう。その折地元の衆徒たちが桜を惜む心をかえって優しきもの
に思して中止なされましたのみならず、更めて、八重桜の老木のために、伊賀国余野荘
をば衆徒に与え、それより後、花の盛り七日の間、八重桜の番をさせ、通りがかりの人
にちの心ない花盗みをお咎めさせなさったので、それからは荘の名を、花垣荘と呼び改
められたという伝説があります。
この桜は、もと興福寺東円堂の傍にありましたが、今は、そこは師範学校の境内とな
っています。
春、殿上の花見と称し、公卿ども花見の宴をなす。その時斉院の選子の御歌
残りなく尋ぬなれどもしめのうちの
花は花にもあらぬなりけり
とあつたので、春宮の大夫頼宗歌。
風をいたみ先ぞ山辺を尋ねつる
しめゆふ花に散らじ思ひて
と返したと見えています。
常陸国に、桜子という美しい少女が磯部明神の社僧に仕えていました。その母これを
尋ねここに来り、折柄爛漫と咲ける花を見て、狂乱し泣きつづけていたのを里人等が桜
子に逢わせたので、この桜川の名があるという伝説が起りました。
源義家は阿部氏征伐のため奥州へ発向の道すがら、(江戸小石川)白山神社の桜に悔
を立て、八幡宮を勧請せんとの祈誓をしました。それからその桜を旗ざくらと呼ぶにい
たりました。
八幡太郎源義家、奥州勿来関にてよめる
吹く風を勿来の関と思へども
みちもせに散る山桜かな
清輔が『袋草紙』に、この年、桜花宴殿新たに成りて、記を上ることが記されていま
この頃、花見が盛んに行われました。花見の歌一二。
高砂の尾の上の桜咲きにけり
外山のかすみただずもあらなむ(大江匡房)
初瀬山雲井に花の咲きぬれば
天の川波たつかはと見る(大江匡房)
この頃の貴族社会は、桜狩を、専ら春の行楽としたのでした。
天治元年閏二月十二日、白河、鳥羽両院、法勝寺の春花御覧
後宮みな金銀をもって車を飾り、摂政忠通、太政大臣雅実以下、公卿扈従、前駆後乗
衣服の美麗極りなしというありさまでした。時に、寺僧は、遠近の落花を地に鋪き、一
騎はその上を雪の中を行くようにして行きました。還御は白河の南殿に向われて、飲宜
を催され、群臣に命じて、和歌を作り、観を尽さしめたまいました。
崇徳天皇御製
山高み岩根の桜散るときは
天の羽衣なづるとぞ見る

一一五五後白河
西行法師、洛西嵯峨に住して、庭前の桜を愛しましたが、その桜が非常な名木で観桜〓
の人々で賑わうのを見て、
花見んと群れつゝ人の来るのみぞ
あたら桜のとがにぞありける
と詠んで、桜の精の老翁に咎められた伝説があります。
また西行法師、法輪寺の南の桜に一首を詠ず。
ながことて花にもいたく馴れぬれば
ちるふかれこそ悲しかりけれ(『新古今集』)
これより、西行桜の名があります。
西行法師、八上の社に歌を詠ず。
待ちきつる山上の桜咲きにけり
あらくおろする三栖の山かぜ(『山家集』)
西行法師、法勝寺の花を観る。
おしなべて花の盛りになりにけり
山のは毎にかゝる白雲(西行法師)
成源僧上の房中の僧、常住法師といえるもの、観花の手弱女の、花を折りしと嘲ける
を、歌をよみて驚かす。
山かつは折り見そしらねさくら花
さけば春かと思ふばかりぞ(花聞集)
惜しめども散り果てぬれば桜花
今は梢を眺むばかりぞ(後白河院)
桜町中納言成範卿は殊のほか桜を愛された方でした。吉野の桜を姉小路室町の御殿か
ら、西東にかけて並桜として植え通されて賞翫されましたが、花七日の短い寿命を惜み、
安高
徳倉
泰山府君を祭り、花の命の延びんことを祈ったところ、三七日まで梢に名残りけるに、
花もよはひはのびにけるかな
桜を待ちし人なれば、桜待の中納言とぞ詔に下されました。
久寿年中、源義朝鎌倉亀ガ谷の館に植えられし桜を、金王丸にたもう。渋谷八幡宮接
内にあった金王桜がこれであります。
源頼政、以仁王を奉じて兵を挙ぐ。
深山木のその梢とも見えざりし
桜は花にあらはれにけり(源三位頼政)
平宗盛の寵姫としてその名をうたわれました美女熊野は、老母の病急なるより、清水
の花見の途中より国へ帰る。その節詠じた歌、
いかにせん都の春もをしけれど
馴れしあづまの花や散るらん
花やこよひのあるじなるらん
さざなみや志賀の都はあれにしを
むかしながらの山桜花
源範頼、石薬師に戦勝を祈る時に携えた桜の鞭を、地に挿すに、芽を生じ繁る。(蒲
桜)
弁慶、若木桜の制札を建つ。若木桜は、播磨須磨寺の前にありました」
寿永二年

須磨の関屋の〓つむらむ(定家)
弁慶、若木の桜の制札というもの。その後、播州須磨寺の什物として、展覧せしめ
られました。その制札の文に、
須磨寺桜
此花江南所無也、一枝於折盗之輩者、任天永紅葉之例、伐一枝可剪一指。
寿永三年二月
とあります。この詩は、実は、南宋の陸凱が、梅に添えて江北の范嘩に贈った詩「折
梅逢駅便、寄与〓頭人、江南無所有、聊贈一枝春」という詩を捩ったもので、後
世作為の物語にすぎないようです。
源義経吉野山に隠れ、妾静捕えられる。頼朝が、静を召して鶴岡八幡宮にその舞曲を
見たのは翌年のことです。静が、吉野山みねのしら雪ふみ分けて、入りにし人のあとを
追い迷える伝説に、大和国源九郎狐の伝説を附会して出来たのが、『義経千本桜』の浄瑠
璃です。
吉野の千本桜は、長峰から一目に見える桜をいう。俗に一目千本といい、この地を千
本といいます。
『吉野紀行』に、
吹きまぜて、ふかきやいづれ吉野山
千本に匂ふ花の春風(大納言雅章)
また俳人の句一二、
富士はゆき花一時のよしのやま(鬼貫)
花ざかり山は日ごとの朝ぼらけ(芭蕉)
藤原定家、家隆等『新古今集』を選上。桜の歌が多い。
月輪関(九条兼実)白桜を愛す。
醐園徳見山
愛宕山の半道清滝の上の山にある桜は、九条関白の月輪寺遺愛の桜と称されています。
月輪寺には、また時雨桜という桜があります。法然上人、親鸞上人も度々来入して共に
称名念仏を修しました。子弟三師の影像各々自作であるといわれこの院にあります。
天皇吉野の花を嵐山に植ゆ。
日蓮上人の高弟日興上人、駿河国富士郡本門寺境内に桜を植ゆ。(彼岸楼)
鴨長明。厳島網の浦蛭子社の浅黄桜を記す。
浅黄桜、白花水色を帯び、まことに奇木であるといわれてます。
藤原定家、伏見院の勅命によりて撰せる『玉葉和歌集』に、祇園の桜を詠ず。
我宿に千もとの桜花さかば
植ゑおく人の身も栄えなん
(しかし、祇園の枝垂桜は、まだ一般の翫賞とはなりませんでした)
藤原定家、近江犬上郡春照村大字藤川の桜を手植える。その余蘖幾代かのものを存し
ております。(周囲一尺五寸、樹高二間半、樹齢三百年)
京極黄門の曽孫大納言為世卿は、出家して密門に帰依され、明釈上人と申しました。
嘉暦四年に登嶺あり、花折院に入って誦経の外他事なくおわしました。ある時、桜の花
を折って仏前に手向くとて、
誰が為に折とかは知るさくら花
二世の仏もゆるせ一枝
歌中に、為世花折の四字を隠しました。其後中納言為綱卿、この歌を感じて一首。
折花にそへし言葉のいろ香こそ
世をふる寺の名に残りたれ
この頃、常陸国桜川の桜(磯部桜林)は、すでにあったといわれています。
後醍醐天皇隠岐の国に流されたもうの時、尊澄親王もともに讃岐国に流されたまい、

一三三九
託間の里に座して愁い薨じたもう。里人桜をその墓のあたりに植えて記念としました。
削り、
北条高時の臣佐々木道誉は、近江にある時、六十三人の衆と共に花の下の会を催し錦
誘虎豹の皮に座して、五尺四方の盤に看果を盛り、賭をしました。
児島高徳は、後醍醐天皇の潜幸を待ち奉り、主上を奪い奉ろうと美作国の杉坂に到れ
ば、時已に遅く、主上は院庄に入らせ給いました。一族力を失いて散り散りになった時
高徳は、せめて、この所存を上聞に達せばやと、行在所のお庭に忍び入り、桜樹の幹を
と書き付けたという伝説があります。
今いく日ありと花は咲かなむ
宗信、天皇の御製を畏みて歌を奉る。
花咲かむ頃はいつとも白雲の
居ると知るべにみよしのの山
花に寝てよしや吉野のよし水の
枕のもとに石走る音
光厳院法皇、紀伊高野山の桜に御衣をかけさせたもう。衣懸桜と永く呼ばれて、古木
となっても名高い

夢窓国師、甲斐国後の機山公祠の域に桜を植えました。千代桜と呼ばれて名高い。
新田義興矢口の渡に誘殺さる。里人墓標に桜を植える」
尾張国井際山持宝院は、もと観福寺と号し、中世頽廃して観音堂一宇のみ存したのを
寛正元年再建しました。弘法大師の加持により出でし轟の井の今も山下にある有名な寺
ですが、この折、境内及び近き山々に、桜楓数千株を植えました。
香に匂ふ高ねの雲は吹はれて
ふもとにつもる花の白雪(栗田知周)
横川和尚の詩、相国寺の普賢堂桜を見る者"幸之又幸"という。
献上の普賢像桜(エンマ堂の)行事の後、毎年盛りの別枝を、二条にあった牢屋の庭
の盛砂に立てて囚人に見さす。この日囚人は、入沐月代握り飯で花見をゆるされる。
寛正六年三月、将軍足利義政、東山大原野の桜狩を行う.
武田信玄、智勝国師に誘われて、甲斐国の後の機山公祠の寺域に両袖桜を見る。
誘はずばくやしからまじ桜花
さそはんころと雪の古寺
天正十九年の春、徳川家康江戸入城の桜田に、桜を植える。数百株の桜樹相連なり、
一道の清流その間を貫いて霞ガ関の美観いうばかりもありませんでした。(昔の霞の関
の景観とは違う。昔の霞の関は今の多摩郡関戸の霞の関の地)
文禄三年二月二十五日豊臣秀吉、吉野さくら遊覧。多武峰にいたる分れ通の辺に御茶
屋を建つ。この時の詠歌、世にのこる一巻があります。
吉野山梢の花のいろいろに
おどろかされぬる雪のあけぼの
吉野山誰とむるとはなけれども
今宵も花の蔭にやどらむ(豊臣秀吉)

これより吉野の桜の名所としての名庶民の間に一層高くなります
豊臣秀吉醍醐の花見を催す。
十一月、豊臣秀頼大和吉野、一の橋を再修。
前田利家、塩竈桜を賞さる。加賀国金沢、地蔵堂の後にあります。高さ三丈、樹囲大
ゝ、地上三尺より分れて五大幹となり、繁枝稠花恰も乱雲の層の如き桜樹。万朶春濃ふ
にして、多姿人を悩すに足ります。この地数十株の名花あり、虎の尾、熊谷、緋桜、
黄桜など種類極めて多きなかの珍品といわれます。
江戸駒込天沢山竜光寺に、都より桜を移し植える、よりて御所桜と呼ぶ、寺の本堂の
前にある古木の大樹として、『江戸名所花暦』に載せられ、名高い
狩野長信『花下遊宴図』十二枚に、その頃の花見風俗の態を伝える。
木下勝俊(長嘯子)霊山惣門の外、むかしの上壇の地挙白堂に閑棲して、桜を愛護し
挙白集を撰す。後人に、そを偲ぶ詩歌がある。一二、
薄曇けたかき花の林かな(信徳)
春日奉訪長嘯公霊山
八坂東辺小路分
「鵞山文集』には、林羅山が、東叡山寛永寺に桜を植樹のよう記す。『江戸名所図会』一
『東叡山内桜樹多き中にも、此辺を桜が峰と号し、むかし羅山先生栽うるところなるよ
し鷲峰文集にいへり。」と見えているのは、天海植樹に増樹したものといわれています

回看終日酣歌処
風起晩来為雪飛(南郭)
将軍家綱、常陸桜川の桜を隅田堤に移植。
島原の乱も平ぎ、正雪の騒動も鎮って、ようやく太平の世となるにつれ、士人の花見
盛んになり来る。しかも、暫らくは尚武の気を失わず、何事ぞ花見る人の長刀風が続き
花見遊山の閑日月の際、大かたの旗本衆は、鎗を持って出かける風がありました。
江戸品川御殿山に、和州吉野山の桜の苗を植えました。春時爛漫としてもっとも壮観
貝原益軒『本草綱目和名目録』を作り、検閲に便にす。桜の項目があります。
東都観光随一の名勝地となりました。
この頃、花見の人は、専ら上野に行楽する傾向をなしました。
士人もようやく鎗持の沙汰に及ばず、昇平久しきに馴れた風俗は、編笠目深に被ぎ、
小袖の裏は紅絹にし、細身の大小にて婦女子の様を模して花見に出かけました。
士人の花見盛大なるにつれ、四民行楽の時代を現出しました。
又、花見風俗の一風流として辻風呂といって、花蔭で風呂を立てる者がありました。
上野一山東叡山の桜には種々あり、開花の遅速もありました。東都第一の花の名所と
して、彼岸桜より咲き出で、一重、八重追々に咲きつづき、弥生の末まで花のたゆるこ
とがありません。
(一糸桜)慈眼堂の前通り坊中、寒松院、等覚院、護国院。
(イヌ桜)彼岸桜に似て花形大きく異なり、中堂の西、寒松院の前から谷中のかたへ
行く通り左の方に大樹一本があり、これが当山の花の咲き初めといわれました。
大仏辺、四軒寺、車坂、山王社頭、清水観音辺、盛りであります。
江戸染井の花戸伊藤伊兵衛『花壇地錦抄』六巻を選み、草木培養法を述べる。彼は、

一七〇六
一七〇九
宝永三年
宝永六年
染井吉野を作りだしました。
京都の医師岡本為竹、『広盆本草大成』二十三巻及び、『和語本草綱目』一巻を著わす
桜の項目があります。
芭蕉十哲の一人支考、東花坊と号し、桜の句が多い
山桜散るや小川の水車(支考)
小網町菓子屋の娘おあきという女、清水堂側、井の端の大盤若と呼ばれる桜の花を目
てよめる。
井のはたの桜あぶなし酒の酔(秋色)
この頃、花見行楽最も隆盛となりました。「桜狩きとくや日日に五里六里」芭蕉の〓
じた句によっても、粋入墨客漸く花を尋ねて狂遊する風の盛んになった事が知られ〓
す。
東西花見の流行期に、小袖幕の美観は、この期に於いて華奢を尽したようでした
(賤のをだ巻』に森山孝盛の父二条在番の折、花見するとて町人の許から女の小袖を"
く取り寄せ、小袖幕を打って、伽羅の香をこめる際、香炉の火で裾をこがした為、償▲
を出したといいます。
浅草駒形堂のあたり並木の桜が真盛りで、『吾妻めぐり』に、「よしのの峰の春とても
しれにはいかでまさるべき云々」など江戸の春を頌へた文章が見えています。
江戸、根津権現建立、境内に桜を植えました。
貝原益軒『大和本草』十六巻を著わす。桜のこと見ゆ。
伊藤伊兵衛、『増補地錦抄』八巻を著わす。つぎの桜の名が見えています
〓ほでまり、おうしゆうなでん、らいてう(来朝)、やよいざくら、まるやま、こで
り、えんめいざくら、もよどりざくら、あさぎざくら、べんどのざくら、ぢしゆうざ
、ら、ちもとのさくら、なんでんさくら、うばさくら、むえもんざくら、こんわうざ
くら。
貝原益軒『芳野山桜図絵』を作る。
景勝図(配り本)吉野山補植の苗木すすめる(明治初期までつずく)
隅田川堤に桜増植さる。堤はすなわち隅田村にあり、十二年また増植、江戸第一の花
の名所として聞えるに至る。台命によって植えしところのものなれば、枝を折る事を莟
じていました。将軍吉宗は、制札を立て、花守を置かれました
伊藤伊兵衛『広盆地錦抄』八巻を、十八年に『地錦抄附録』四巻、『長生花林抄』五
冊を作る。服部範忠も、十五年に『本草和談』四十五巻を著わす。
浅草寺境内に桜が移植されました。浅草寺へは、新吉原から寄附。これを千本桜。あ
るいは札桜と呼びました。
この頃加茂真渕、桜の歌をよみいず。古今の名歌として人口に膾炙する。
うらうらとのどけき春の心より
匂ひ出でたる山桜花
小金井に、桜が移植されました。
小金井の桜は、郡司川崎定孝なるもの八代将軍徳川吉宗の命を奉じて大和の吉野と〓
陸の桜川から移植したものであります。小金井の桜は、はじめから観桜の目的でなく
桜は水毒を解すという伝説から、水を飲む者の水毒にあたらぬようにとの用意に植えら
れたものであります。
三月十一日、吉宗飛鳥山花見遊覧、金輪寺にて昼食、清楽を極めたということです。
の時、将軍は、自分が命じて移植せしめた桜の花が、まことに盛りの春にふさわし
さまを見られ、未だ自分のほかに花見の客がないということを聞いて感慨ふかく胸を打
ったということです。それは、享保八年、王寺村へ鷹狩のついでに、王子権現に参拝、
飛鳥山に登り、吹上の松桜の苗木を移し植えることを命じられてからすでに数年たった

のに、花見時に花は咲いても、見物の人がない、これは飛鳥山が官地のため、庶民怖れ
て見物に来ないのであろうと、"爾来この山を庶人の遊楽の地とせよ"というおおせで
帰城されると、先ず近侍のものやお城坊主らに、行厨酒果を賜いて、隅田と、飛鳥山の
両所に遊ばせしめられました。そして、「今日は遊人多かりしや、士人も潤沢をうるさま
なるや」など尋ねて、その楽しみを同じくしたと伝えられています
新吉原、鉢植の桜はじまる。
松岡氏の遺稿『恰顔斎公品』』『恰顔斎介品』刻成る。その品種は頗る多い。
いとくぐり、(一名大てまり)いちもんじ、いせさくら、ろうまざくら、はたざくら(一
名帆掛桜)、にほひざくら、ほたてざくら、ほうりんじ、ほうらいじ、とらのをとのざ
くら、とやまざくら、ちござくら、ちもとのさくら、おほでまり、おほてうちん、お
そざくら、わかきのさくら、おものざくら、わしのを、をかいどうざくら、かばざノ
ら(花黄)、たいさんふぐん、うすずみざくら、くまかへざくら、やへひとへ、やう
ひ、やまざくら、ふげんざう、こまつなぎ、こゝのへざくら、こざくら、ごしよざく
ら、えどざくら、てまりざくら、ありあけざくら、あかつきざくら、あさぎざくら、
さかてざくら、さつまひざくら、ゆきやまざくら、しろざくら、しほがまざくら、ひ
がんざくら、ひざくら、せうくんざくら。
島田充房『花彙』八巻を選み、草木各百種の図説を作る。その木部四巻は小野蘭山の
図する所であります。
八月、伊勢神宮の神宮度会常民『本草品彙』十一巻を作る。
この頃、本居宣長桜の歌をよみいず。古今の名歌として伝えらる。
敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花
桜屋敷の彼岸桜名を高うす。江戸番町厩谷杉田屋の屋敷を花屋敷という。佐野善左衛
小野職孝王、父蘭山の本草講義を筆記し、四十八巻となし、『本草綱目啓蒙』と題し世
門の屋敷である。大樹にして桜屋敷とも唱う。後、厩谷松平氏の屋敷となる。
丹波元簡、幕府の書庫より、深江輔仁の奉勅撰述するところの『本草和名』二巻を検
出し、これを上木しました。
に公にしました。
一年の花てふ花を集めても
桜にたぐふ花やなからん(小沢芦庵)
しめる。
尾張国堀川の桜を植ゆ。両岸日置場より北の方西水主町まで数町の間、数百本の桜並
樹をなして弥生の頃は貴賤袖をつらねる。「岸に往きかふ翠集水には舟を浮べて、上下〓
花を賞するさまさながら嵐山隅田川の春興にも劣らぬ勝地なり」と『尾張名所図会』は
記しています。これは、文化年中、府の世臣堀氏数百根の小樹を植並したものにはじま
るということです。
やよひ二十九日花月翁しるす。(浴思園白河楽翁)二巻、一二〇種の桜品を載録。
毛利梅園『花図』十八巻を作る。

一八二九
一八二九
徳川家斉、桜花を愛すること深く、所司に命じ、名所の枯株に植継せしめる。
上野山は、夕暮六つの鐘を合図に山を下らねばならぬ制度がありました。暴行者は、
当時、平民は時限があるのを嫌い、隅田堤、飛鳥山に行くことを多くしました。
よしのやま、みくるまかへし、みやまがへし、みやまざくら、しろまひざくら、あら
しやまざくら。しろひよどり、ほうりんじ、たいさんふぐん、つまくれない、ふげん
ざう等。
その附記文に、
屋代弘賢、『古今要覧』をあらわす。うちに、エトロフざくらを載す。
宇多川総兵衛墨堤に桜を植えつぐ。
代官大熊氏。田無村の名主半兵衛をして小金井堤に桜を補栽せしむ。
幕末黒船来るに驚かされ、品川湾に砲台を築くにあたり、江戸品川御殿山惜しくも崩
され、桜の名所を失う。
八田知紀、大和の吉野山の歌を作り、その名をうたわれる。
吉野山霞の奥は知らねども
見ゆる限りは桜なりけり
浅草観音堂の周囲に、桜千本を植える、時の俳人の句に、
そよつくや千もとの中の初桜(西馬)
昔見ぬ春あり花の浅草寺(和雪)
鳴る鐘の花にひびきて今年かな(不染)
佐久間象山、桜の賦を著わす。
京都祗園宝寿院(祇園社執行)の庭内の枝垂桜、はじめて世に知られ、やがて円山公
園の枝垂桜として有名となる。この年十二月六日、祇園社松の坊側茶屋より出火、楼
門・中門・拝殿・神楽所等焼失の時、飛火にて宝寿院も焼失、その時、枝垂桜(カリン
桜)の立派さが認められ、後、あたりの建物取払いと共に、この大桜はたちまち有名と
なったのでした。
オオシマ桜を母木とした伊藤氏作の桜を、藤野寄命氏染井吉野桜と命名す。
(明治以下略)
江戸時代後、徳川将軍(わけて八代吉宗)によって保護移植された江戸の桜は、
江戸をも、春は花の都のように盛らせましたが、江戸の桜には、まことに背景が乏
しく、京都の桜と見比べて見おとりされるようです。ことには水清い土地の気をう
けて、京の花の色はまことにあざやかです。それに多くの伝説に富む名所のなつか」

さぎちょう由来

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