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ディスタンクシオン

※7月22日 文章表現を一部変更しました<(_ _)>

ディスタンクシオンは、今のわたしには悲しい

闘争が、趣味に現れると言うのだ

たしかに、ロジェ·カイヨワが※遊びを4つに分類する中で、一つに競争を挙げていた
ブルデューの言う”趣味とは闘争”も、分からない訳では無い
※(模倣、運、スリル、競争)

闘争‥‥対人関係の破壊ではないか‥‥

”他者”や”理解”という言葉を同時に用いることは、ありえるのだろうか?

”他者”と”理解”と”闘争”が、三つ巴にしか考えられないのだが、これを連環のようにくくるのは、どうなのだろうか

‥‥

わたしは、少し前に、たまたま社会階級が上の人と、顔を合わせなければならないことがあった

そして、上述の、闘争と受け取れよう言葉を、返された‥‥


哲学者千葉雅也さんのツイートに、ひどいことを言われたときにフリーズして言い返せなくなる、内容を以前読んだのだが

わたしも、あのとき反論が出来なかった‥‥「ですよね」と、愛想笑いで自分の愚かさに同意する対応をとり、愚かにも自分自身を守ってやらなかったのだ‥‥


不快であり、不適切であると、直接に伝えなかったわたしは、胸の内に怒りが溜まり、関連のある方に相談をした

「あの方はそういう方ですよね‥‥」と同情の言葉を返してもらったものの、それ以上のアクションは起こらなかった

また別の人は、

「時間がないから、そのように言ったんではないか」、

「みんなのためを思って、言ったんではないか」と、両者に問題はないのではないか、という返答をされた‥‥

‥‥

科学雑誌Newton6月号に、心理学の特集があった

【認知的不協和】というのがあった

これは、本人の中で抱く矛盾する出来事を、何とか理解して受け止めようとして、自分自身の気持ちの方を変えてしまう現象のことだ

例えば低賃金や不遇のブラック企業で働き続けてしまうのは、この心理が関係しているという

上流階級の人が口にすることを、飲み込んでしまう

社会的に階級が、その人よりも低いという観念によって、否定したい事柄であっても、それを否定する方向に思考するのではなく、自らの意思の方を消してしまう____

いったい、誰に対して、望ましい生き方をしているのだろう?


人格系は、協調的に、上手くいくように意識が働いてしまうのかもしれない

そこに例えば罪悪感などの感情を抱かない人は、そのとおり罪悪感さえも抱ずに、対人関係を取るのだろうか

まるで利用される形のような、心理の障害を、ブルデューは真髄のように、そして万人に衝撃をもって、言っていたのかもしれない

ブルデューは、わたしの本質に、大衆の本質に、目を覚ませと、

だから闘争で良いんだと、言ってくれたのかもしれない‥‥


しかし趣味が闘争ならば、友情はどう築かれるのだろう‥‥か