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私のプラモデル作り拗れからの解消の体験を通じて、創作全般の拗れと解消について考えていきたいと思います

プラモデル作りを拗れさせていました。そして、ようやく拗れが解消された気配です。今回は、私のプラモデル作り拗れからの解消の体験を通じて、創作全般の拗れと解消について考えていきたいと思います。

私のプラモデル拗れは年末から薄っすらと始まり、それは違和感でした。自分で作ったプラモデルがしっくりと来ない。年始から数日後の吉本プラモデル部の模コンを見て、この違和感はピークを迎えました。ようこそ違和感。
この違和感は、省みるに、私と世間のズレです。

模コンに出品した私の美プラ

プラモデルキットのチョイス、筆塗りの仕方、プラモフォトの撮り方、どれも親しい(近い)と感じるモデラーを見掛けずに、私の中で孤立感と「これでいいのか?」というプラモ制作の方向性への疑問が生じていきました。

技術、技法。プラモデルの場合、歴史考証におけるリアリズムも大きな要素の1つです。

自分は正しいのか?

かなりの人は、自分が正しいのか疑わしい、自分の創作の正誤も疑わしい、自己正当化の支えであり、時に根拠になるのは、他者からの評価でしょう。
私だとて、私のプラモフォトが人様から評価されていれば、さほど拗らせてはいなかったでしょう。

ここまで書いて、考えるべきことは「自身の創作への取り組み方」「取り組み方の正誤」「自己正当性」の3つになります。

創作への取り組み方、というのは、どのように創作を行い、どのような創作を行うのか、この2点になります。

どのように=手法、方法、技術

どのような=キット、テーマ、世界観、メッセージ

私の場合、人気のないプラモデルキットを好み、筆塗りで厚く塗っています。
大体のモデラーは、人気のあるキットを作り、スプレー塗装が多く、筆塗りにしても、塗料を希釈して薄く塗ることでムラがないような、丁寧な作り方をしています。このようなプラモデル作品が評価されて、さらに、私からすると、写真の撮り方に独自性がほとんどありません。

写真になると、途端に辛口になる私、独自性がない、とは、使用機材(カメラ)を含めて、フォトコン止まり、と言うことです。
キレイで上手い、そして、見慣れた写真を量産しているのであって、ここに写真そのものへの思考、思想、独自性を感じさせないのです。

私はプラモデルを完成させて撮影するプラモフォトにRICOH R10を使用し、家の中に差し込む自然光のみで撮影しています。背景は画用紙です。
わざわざ使っていなかったレトロコンデジの埃を払って使用し、家の中に差し込む自然光のみで撮影するという融通の効かない縛りを設けて、色画用紙を背景にする、これぐらいには、私は写真のことを考えています(これは写真の正誤についてではありません)。

プラモデル歴1年ちょいの私。ようやく思春期を迎えて、自我の芽生えが始まった気配で、心は厨二病、特に人様と違うことをして、個性が欲しいわけではなく、元々、私は変わっていて個性的、心が拗れた人間です。
ミッドエイジクライシス、それは第二の青春!
何度だって青春は訪れます。春は青し草紙。

まず、私は考えます。
プラモデルとは何か、これは、歴史を書き直すこと。
プラモデル作りには、組み立て工作と、色塗り塗装の2つがあって、私は工作を頑張るつもりはないので、拗らせているのは色塗りだと明確に認識しました。

リペイントする為に塗料を剥がしました

筆塗りをしたギラン・ドウ、お風呂の洗剤に1晩浸けて、塗料を剥がしました。気に入らなかったからです。リペイント。

塗装設計のメモ
今朝、リペイントしたギラン・ドウ

このリペイントしたギラン・ドウ。暫定、これが私の答えなのですが、私の答えとは何でしょう。

私の教本
副教本

答えは私の本棚にありました。フロントミッションの薄い画集&写真集。
この本を私は高校時代に確かブックオフで購入して、気に入って、ずっと持っていました。天野喜孝さんと横山宏さん。
そして副教本は、最近、フリマアプリで購入したファイブスター物語の最新刊(15、16巻)。

天野喜孝さん、横山宏さん、永野護さん。他の追随を許さない天才、独自性。
天野喜孝さんと横山宏さんの作風は、丁寧と言うよりは、ラフです。フロントミッションの横山宏さんの創作模型、筆塗りがラフで、筆ムラがハッキリと見えます。天野喜孝さんの独特なタッチ。
さらに、つまりこれは「SF3D」のフロントミッション版なのでしょうが、模型写真が垢抜けていないところにグッと来るのです。
今の時代のデジタルフォトにはない垢抜けなさ、この垢抜けなさが、臨場感のある戦場写真であり、さらに、模型、プラモデルであることを隠そうとして撮られていないところが良いのです。
ツルツルせず、塗装の凹凸が写っていて、時間を掛けて細かく塗るよりも、手早く大まかに塗る作風なのであろう横山宏さんのプラモデル模型は、プラモデルフォトでしか表現出来ない作品になっています。
つまり、何かを真似てプラモデル作りをしているのではなく、プラモデルそのものを自分の世界に還元させて表現しているのが、私にはグッと来るのです。

永野護さんのファイブスター物語の最新刊を読んで、グッと来ました。これは、漫画版「風の谷のナウシカ」のような線や使い方があって、洗練しきっていない絵の魅力です。
最新刊を読んでみて、明らかに永野護さんは漫画というか、漫画における絵が上手くなっています(メカのデザインは言わずもがな)。
上手くなって、デジタルに行かず、レトロな漫画的手法を残しつつ、独自ラインを突っ走るロックンローラー永野護さん。

私が参考になる=教本

ただ、彼らの作品達を模倣するだけではいけません。だいたい、私なんかではレベルが違いすぎて、真似出来ません。
私がグッとくる共通点を探り出して、盗めるところだけ盗むのです。
天野喜孝さんの有機的な線(色気)、横山宏さんの筆塗りのタッチ(勢い)、永野護さんの独自な世界構築(雰囲気)。

水彩画をイメージして塗装した「日本の城」

Seriaのウッドクラフト、日本の城を筆塗り塗装しました。塗料を水でかなり薄くして、ザックリと塗りました。筆ムラや滲みを残りつつ、はみ出して塗ってもいいや、とラフに。

1回目の筆塗り塗装
ほぼ筆塗りフィニッシュ

今朝、戦車の塗装を行いました。アクリジョン筆塗り専用塗料のアンティークゴールドを、希釈せず瓶に筆を突っ込んで(瓶生)塗っています。
かなりラフに、手早く塗りました。
迷彩模様に関しては、アンティークゴールドにグラスグリーンを混ぜて、濃淡を付けて塗ることで表現しようと考えています。

ここで折り返し、つまりこれはどういうことなのか、話を変えて書いてみます。

スマホカメラで写真を撮っていて、疑問や違和感が出てきたとします。
スマホカメラだからダメなのか、と考えてみたり、被写体を変えた方がいいのか、とか、撮り方や写真加工の仕方などを考えてみたり。
そして、写真やカメラについての記事や動画をチェックして拗らせていくパターン。

このケース、私から言わせてもらえば、スマホカメラに特化した撮り方をすればいいのです。望遠とレンズのボケ味を捨てるのです。
スマホカメラの長所は、時代に合った色合いです。日々データが更新されます。色合いにおいて、iPhoneカメラは他のカメラよりも優れているでしょう。これはつまり「今の時代性にアジャストしている」です。

なので、iPhoneカメラを使うのであれば、自分で細かく色味を加工する必要性を感じないので、私は細かい写真加工をしていません。
フィルターを1枚咬ませて、オート色補正を使うかどうか、ぐらいです。

スナップフォトに関しては、フィルターのみで補正を掛けなくなりました

写真の撮り方、構図やトリミングは、被写体や写真作品のテーマによって変わります。
そして、作品のテーマ、世界観、メッセージなどを決めるのは自分であって、この正誤を決めるのも自分です。他人ではありません。
この作品の中心にあるテーマ、世界観、メッセージ性などに合致した被写体へのアプローチ、機材、撮り方、加工などの手法や技法を見つけるのであって、私からしたら、手法や技法は先行しません。

構図、例えば、3点構図だったかな? あれはズラした方がエモいし、というよりも、構図のポイントをズラした方がエモくなるのだけど、これはセンスで、作為的に感じさせるズラし方は途端にダサくなります。
スクエアサイズの場合、日の丸構図が基本で、これよりも強い(効果的な)構図はないのです。

「いつもあなたが」
プラマックスのプラモデルキット

最近撮ったボトムズのプラモデルフォト。
モコモコ塗装、R10による緩い描写力、スポットライトのような自然光、色画用紙の色味と温もり感、スクエアサイズの日の丸構図、寄った時の右下の影の入れ方。

「細けーことはどうでもいいんだよ」の前には「細かいところを考えて解決済みにする」があって、例えば、R10のカメラモニターは小さく、画素数も少なく、写した後の確認がしずらいので、私はほとんど撮り終わって、モニターチェックをしていません。
撮る時に、クリアーしておけばいいのであって、撮ってから迷わない。ダメだったら、また撮り直せばいいわけで、私はめんどくさいので、まず撮り直ししません。
沢山撮ることもしません。1カット、1枚か2枚撮って次のカットです。

さて、私のプラモ写真は素晴らしいのでしょうか?
私は、自分が作り上げたプラモデルに相応しい撮り方をしていて、なのでR10で撮っています。レトロコンデジで撮るぐらいがちょうどいいだろう、と。
有機的、温もり、ちょっと懐かしい感じ、大人の子ども遊び、レトロな時代性。

私の作品はSNSで評価されていません。無反応に近くて、ライクが10入ればバズっている感覚です。
そういう意味では、私はSNS弱者でしょう。
「SNS弱者をどうにかしたい」と私は考えません。作品で媚びたくないからです。

他者からの評価を欲すれば、媚びることになります。これも努力です。これは、自己の中の他者性の獲得だと思われがちですが、問題は「創作作品に他者性を獲得する必要があるのか」です。
あれこれ思考を展開するのはまどろっこしいので、一言で済ませてしまいますが、答えは「自分が獲得したい他者性を身に付けて、自己の確立を果たす」でしょう。
なので、自分にとって必要のない他者性(価値観)は無視しても構わないというか、意識的に影響を受けないようにする必要さえあります。
或いは、どうして自分にとって必要と感じないか、という批評性が求められます。

私は、写真講座的なものについ苛立ってしまいがちで、それは、細かいところで正しくないからです。この正誤は、私的において、と言っておきますが、例えば、写真は関係性で、関係性には裏があります。何だって、表裏があるはずで、表層で写真について語っている人が多いと感じているから、私はつい苛立ってしまう、まぁいいや、で済ませていますが。
まぁいいや、というのは、間違ってはいない、というのもあって、間違っていてもいいや、という気持ちもあります。要は受け取り手がどのように受け取るか、で、とどのつまり、正誤は自分で決めるしかないのです。

「自分の作品の正誤ぐらい自分で決めろよ」なのです。

そして、自分の作品の正誤を自分で決める、とは、自分の在り方を自分で決める、です。これは容易ではありません。
だから、この記事の文章がどんどん増えていって、私は内心、うんざりしてきているのですが、拗れを解消させる、というのは「自分で自分の作品の在り方を決める」、もしくは「在り方を見つける」で、どうやって見つけたり決めたらいいのか、当然「自分に即した在り方」でしかありません。

「自分に即した在り方」とは何でしょうか?
自分を客観的に捉えることで、「自分の作品を人様の作品のように徹底的に批評した果ての気付き」です。
まず批評が難しく、客観的に捉えることが難しく、自分への自惚れや言い訳を出来るだけ排除するのが難しい。

今日、戦車を筆塗り塗装していて、筆塗り塗装するには、筆と仲良くならないといけないな、と改めて感じました。
私は良い筆を何本か持っていて、コリンスキーの筆毛の描き心地。この描き心地に自分を委ねてみる。考えない、感覚で塗る。
感覚で塗る為には、私にとって良い筆でなくてはいけません。何故ならば、私が弘法ではないからです。

写真とは見るということです。見るには、見る、見える、見えない、見えていた、など、様々な状態があって、見ているつもりだけでは、つまらない写真になってしまうでしょう。
見ているつもり、というのは、表層意識、さらに、社会的な人間意識でしか見ていない、ということです。
社会的通念とは、例えば、Xにおける社会的正義感から行われるであろう特定の誰かへの叩きです。これはつまらないわけです。まず答えがあって、この答えを疑うことさえせず、さらには、自己への懐疑さえない、私から言えば、バカの所業です。
社会的人間、と、個人的人間、という多義性、多面性、多層的な在り方があって、時にこれらの境界線が曖昧になったり、はみ出てしまうどうしようもなさに人間という存在の危うさと面白さがある、と私は考えています。

例えば、カメラは何がいいのか、という話題があって、私からしたら、カメラなんて写ればいいのです。モニターを見たくない(フィルムカメラ)だったら、スマホ画面を見返さなければいいし、加工で変えることも出来ます。
手にしたカメラの癖を楽しめばいいわけです。私は写真において、主体的な態度を取りたいとは思いません。
これはプラモフォトを自然光のみで撮影していることにも起因していて、光源をその日の自然光に委ねているのです。なので、同じ光で写真は2度と撮れません。一期一会。
プラモデルキットもそうですけど、ダメなところも良し、自分が試行錯誤して、仲良くなれるかどうか、カメラに委ねてしまえば、撮る時でさえ、きちんとモニターを見る必要がありません。というか、私の場合、撮る前に写真撮影はほぼ完了しています。
撮らなくても写真は撮れるのです。

筆を持って、筆で塗る自身の肉体性、この肉体性が筆の運び方、筆塗りに現れます。有機性、とは、肉体性でもあります。肉体も含めた自然(アウラ)です。
写真だったら、自分の目、背の高さ(アングル)などに宿ります。もっと言えば、見つめ返す目に宿ります。
この肉体を持っているのが自分で、同じ肉体なんてありません。この肉体が感覚であって、自己(内面)世界を形成する上で影響を受けています。
そして、この肉体性に正誤はないのです。背が高い低いに正誤はないでしょう。あるとしたら、願望です。
顔の良し悪し、キーボードを叩く強さと速さ、指先の長さ、声の良し悪し、歌、動作、手書き、改善は可能ですが、根本があるでしょう。

自分の根源は普遍的に在り、ありのままの自分は既に在ります。

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