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言葉が詩になる瞬間に、僕は立ち会えたのだろうか。

はじめて詩の展示を観に行ってきた。
ずっと行ってみたいと思ってた、最果タヒ展だ。

表裏に書かれた言葉のパネルがいくつもぶら下がっている。揺れとともに反転したり、隣接したパネルと入れ替わったり。

ふとした瞬間、違う言葉が目の前にくる。それは一瞬の出来事で写真に収めるのは一苦労だ。

本とは違った体験を、僕はしている。

きっかけは、作詞で関わっていたAlexandrosの曲「ハナウタ(feat.最果タヒ)」を聴いたこと。

顔出しをしていない詩人さんらしく、どんな人なのかはよく分からなかった。今でもよく分からない。

作家を通じて作品に触れてもらいたくない感じのことが書かれていた気がして、それ以来どんな人なのか気にならなくなった。

そうして純粋に作品を触れようと、いくつか詩集を手に取ってみる。けれども小説とは違って、意味を理解しながら読むのが難しく感じる。

最初の感想として、よく分からないだ。そして分からないものは恐ろしいということ。人間はよく分からないものに恐怖を感じる生き物だと思ってる。分からないものは、悪いものであるとされていないだろうか。

いや本当に悪いのは、誰かが定義したもので分からないまま使ってしまってることなんじゃないかと思った。普段から自分の言葉で語れているかと問いたくなる。



実は展示会に行く前に、最果タヒさんへのインタビュー記事にいくつか目を通してみた。そこで印象的だったのが「人はそもそも分かり合えないもの」という言葉だ。

言葉で表現できないものであったとしても、言葉で表現しようとする詩。それは決して強制的なものではなくて、いつか手にとってもらえるようにそっと置いているものであるんだと展示を通じて感じた。

発信が誰でもできるようになり、共感が求められるようになったいま、逆に周りにわかってもらえず苦しんでる人って多いかもしれない。

そこでなんだか孤独を感じることが多い現代において、それでもいいんだと思わせてくれる気がした。その力が最果タヒさんの詩にはあるように感じられた。残酷な中にも小さな光が確かにあるのだと。



日曜日の夜に伺ったので、展示会場にひとりだった瞬間があった。孤独を感じつつも歩いていると、揺れたパネルの言葉が自分に寄ってくるのだ。その度に僕はひとりじゃないんだと思えた。

それに部屋の中は暗いのだけれども、最後にはなんだか心がぽかっと温かくなった。

言葉が詩になる瞬間に、僕は立ち会えたのだろうか。

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