空理空論の奈落

 与えるということは、与えられるということ。
 与えられるということは、与えるということ。

 こういった、真逆の意味ではあるが、最終的には鏡写しになるような思考/事象が、世の中には複数存在する。

 世の中には、色々なヤツが存在する。『頭が良い』とされるヤツもいれば、『馬鹿』とされるヤツもいる。人にも色々あるとは思うし、そんな一概に分けられるものでもないと思いたくもあるが、それでも、自分の記憶の中をのぞいた際に、意識下/無意識下問わず、ほぼ全ての知人をそのどちらかに振り分けてしまっていることに気がつくだろうし、そんな心理を否定できるヤツなど、そうはいないであろう。要は、潜在意識なのである。

 『馬鹿と天才は紙一重である』
 ボクはこの言葉が大嫌いだ。馬鹿は馬鹿だし、天才は天才である。そんなもん、当たり前である。言うまでもない。じゃあ、そんなエラそうなことを言うオマエはどちらなんだと聞かれたら、そりゃもう、馬鹿である。そんなもん、当たり前である。言うまでもない。じゃあ、オマエは馬鹿なのか? いいや、馬鹿ではない。馬鹿なのに、馬鹿ではない。それならば、天才か? いやいや、そんなことはない。じゃあやっぱり、馬鹿か? んなこたぁない。じゃあ、どっちだ? 知らない。

 『知らない』
 大変便利な言葉である。なんでもかんでも『知らない』で済ませようとするヤツが、世の中には複数存在する。
 なぜそこまで何も考えずに生きていられるんだろう、楽しいのかな、と思うことが、多々ある。まぁそら、楽しいであろう。生きてきた中で『考えなければいけない』という境遇に一度たりとも足を踏み入れずに済んでいるのだから。親や周りの友人に感謝すべきである。
 で、である。こういうタイプのヤツに対して、こういうタイプではないヤツは、きっとこの台詞を頻繁に発するはずである。『なんで』と。

 『なんで』
 大変使いどころの難しい言葉である。この言葉を親の敵のごとく嫌っているヤツが、世の中には複数存在する。
 なぜであろうか。聞いている側としては、ただ理由を聞いているだけである。たとえば、何か失敗をしてしまった際、原因/理由がわかれば、後の対策や改善に繋がる。だから聞いている。聞く側からしてみれば、ただそれだけのことであろう。なのにも関わらず、この言葉を嫌うヤツというのは、ほぼ例外なく『聞いてどうする』『終わったことだ』などと、必要以上に騒ぎ立てる。そして、同じような経験のある、同じような連中を周りに集め、とにかく共感を得ようとする。

 『共感を得る』
 大変危険な行動である。ネット上で必要以上に可視化されるようになってから、なんだか居心地の悪さを感じるようになったというヤツが、世の中には複数存在する。……と、思う。
 ネット社会の発達により、立場の低さを逆手に取った、いわば『逆転現象』である。共感を得たからとて、それで何が起こるのかといえば、自分自身の尊厳を、虚栄の存在に認めさせるのみである。自己防衛の一種であろう。これらの行動は人間的には何も間違っていない。

 レベルの差というものは、早々埋まるものではない。たとえば、平仮名片仮名は覚えられたとして、果たして何人がそれを使いこなすことができるのであろうか。どこまでが使いこなすの範疇なのかは置いておくとしても、やはりそれ相応の技術が必要となる。それこそ一生かかっても難しいであろう。文字とは、ある意味、言葉を可視化したものと言える。ということは、言葉なのである。言葉の使えぬ者に、果たして本当に文字……もっと言えば、文章を読解することは可能なのであろうか。『りんご』と書けば、そりゃまぁ『りんご』であろう。では『りんごが食べたい』と書かれたものはどうであろうか。そりゃ『りんごが食べたい』のであろう。じゃあ、いまボクは何が言いたいのか。それがわからないようであれば、たぶん、ボクとキミは分かり合えない。きっと、ボクがキミよりも馬鹿なのであろう。キミはここまでの文章を読んでいないだろうし、この先を読むのは、きっと、キミにとっては時間の無駄だ。

 『作者の気持ちを答えなさい』
 大変捉えどころの難しい言葉である。この言葉を親の敵のごとく嫌っているヤツが、世の中には複数存在する。
 これに関しては、もう言わせていただく。この問題に対してあーだこーだと言うヤツは『馬鹿』だ。じゃあ、いまボクは何が言いたいのか。それがわからないようであれば、たぶん、ボクとキミは分かり合えない。きっと、ボクがキミよりも馬鹿なのであろう。キミはここまでの文章を読んでいないだろうし、この先を読むのは、きっと、キミにとっては時間の無駄だ。

 人はみな、心の底では自分が正しいと思っている。よく言われることである。では、正しい正しくないのジャッジをするのは誰なのか。無論、そんなヤツ、この世にはいない。結局、ただのわがままなのである。そして、無知なのである。人の言う『知らない』なんて、『本当に知っている/本当に知らない』その次元ですらない。『考えたくない』『めんどくさい』ただそれだけのことなのである。

 『学校の勉強なんて必要ない』
 ボクはこの言葉が大好きだ。この言葉は、一種の魔除けである。こんなことを言うようなヤツとは関わりたくないし、一生関わらないほうがよい。こんな馬鹿なことを真顔で言い放つような馬鹿にならないためにも、勉強などという面倒なことが必要なのである。当たり前のことだが、自分の知らないことを理解できるはずがない。ただ、知識で補完することは可能である。理解というのは、知識の延長である。
 一言で表せば、ビジネスなのである。ビジネスによって、学校という不特定多数の枠組みに適応することの意味を大人になっても理解できなかった、知らないを連呼する、作者の気持ちを考えられない、決して馬鹿ではないが天才にもなれない、ただりんごが食べたいだけの人の共感を得るためだけに生み出された、いわば『金のなる木』なのである。今一度その言葉の意味を考えてみるといい。いまボクは何が言いたいのか。それがわからないようであれば、たぶん、ボクとキミは分かり合えない。きっと、ボクがキミよりも馬鹿なのであろう。キミはここまでの文章を読んでいないだろうし、この先を読むのは、きっと、キミにとっては時間の無駄だ。

 ただ、ただである。何事にも例外はある。言うまでもないと思うが、読めていない人のために、念のため書く。いまボクは何が言……もういいか(笑)。

 なーんでこんな支離滅裂で面白くもないようなことを書いているのか。ボクはこれでも、教える仕事をしている、教える立場の人間なのだ。また、職業柄、不特定多数の人間と時間を共にすることも多い。これだけいろんなヤツと関わってきていれば、文句のひとつでも言いたくなるってもんだ。ボクだって、いままさに勉強の真っ最中である。いくら勉強したって、先に勉強していた人には敵わないのである。時間が共通である以上、人の差というものは、本来であれば、縮まりようのないものなのである。だからこそ、勉強を続けなければならないのである。これは、なにも勉強に限った話ではない。

 馬鹿だとは思っていないのに、馬鹿と言う。それはなぜか。馬鹿を馬鹿と言ってしまう自分の汚い部分を指し、皮肉の意味を込めて、馬鹿と表現しているわけである。
 考えられないだけなのに、知らないと言う。それはなぜか。自分のレベルの低さを露見させたくないからである。
 考えられないのはなぜか。そう、馬鹿だからである。
 馬鹿だとは思っていないのに、馬鹿と言う。それはなぜか。馬鹿だからである。
 馬鹿である。それはなぜか。知らない。 

 ここでそろそろ、頭の良いキミは気がついたはずだ。コイツもまた共感を得ようとしているだけだ、と。
 そして、その行動について『なんで』と聞かれた場合、ボクは必ずこう答えるであろう。

 『知らない

 世の中そんなもん。
 おわり。

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