鉛筆削りがないもんで
鉛筆削りがない。だってつかわないから。でも鉛筆はある。その黒鉛のさきは、まるまってしまっている。じゃあ削ればいい。でも鉛筆削りがねぇの。かつて竹原ピストルという歌手が「タバコ自体はあるのに火がないときってのがすんごく耐え難い」みたいなことを歌っていて、ヤー! ヤー! そんなフォーリナー的ノリの首肯で、おれもそうおもう。
おもうに。にんげんの出来不出来とは問題解決能力の差である。おれだって出来るにんげんになりたかった。だがミスター粗忽のとはおれのことだし、あのGショックですら故障させる、天運に見放されたおれである。出来るにんげんにはとうていなれない。ごめんよ母さん。
でもどうしても鉛筆をしようしたい。鉛筆というあたたかみ、人情味、ノスタルジー、アナログな世界観。おれはアナログでにんげんくさいものが好きだ。そこに愛があるんだよ。カメラはミラーレスを排除して一眼レフだし、アンプもエフェクターのクリッピングで歪ませるよりは真空管でマイルドに歪ませたほうが好き。だから「鉛筆削りが無い」問題をどうしても解決せねばならぬ。
だからおれは解決した。アマゾンで発注する、なんてのは物質世界における資本主義という瘴気になれてしまった結句であるが、ふっ…。おれはそんな愚昧なことはしない。おれは、おれだけは真なる世界を生きているからだ。ではどうしたのか。水沢さんからレンタルしたのである。
弊社事務方の水沢さんは、おれの席の真後ろに拠点をもっている。当方の諸事務をおこなってくだすっている。実務にかんしてもじつはおれよりけっこう詳しいのでめっちゃたよりになる。そしてなによりにんげんが出来ている。離婚してるけど。
水沢さんは鉛筆削りをもっていた。おれがまるまった鉛筆をみつめ二時間ほど茫然自失していたところ、「鉛筆削りつかう?」とお声をかけてくだすったのだ。おれはひとの助けがあって生きている。
そんな水沢さんが退職してしまうらしい。かなしい。ってゆうかおれは今後だれに鉛筆削りをかりればいいんだ。あたらしく来た事務方の富野さんとは、まだこころの距離がはるか彼方遠方である。そんなひとに「鉛筆削り、かーしーてー」なんていえるもんか。
水沢さん、あなたにはどうか引継ぎをしてほしい。「もっちーが鉛筆見つめていたら鉛筆削りかしてあげてね」って。書面にのこしてね。あー、鹿島さんも辞めちゃうし、それもこれもあたらしく赴任した部長の前園が根源であると推察する。氏はシャープペンシルのような合理的で鋭利なかんかくをもっていて、ちょっと冷たすぎる。鉛筆つかったほうがいいぜ。
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