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雨の日に来る

 初夏、灰色の雲が低く垂れ籠める、ひどい雨の日の午後にだけ来る幽霊がいる。

 まだ幼子だった私が微睡みに招かれ青くさい畳の上に横になっていた時に、それは来た。

ざあああああああ
ざあああああああ

 という雨の音の中に、玄関の引き戸の硝子をカシャンカシャンと叩く音が聞こえる。
 私が寝ている間に家族は買い物にでもでかけたようだ。
 私の他に誰も出るものがいない。
 寝ていた居間から顔を出すと、ひんやりとした暗い板張りの廊下の先に、玄関の引き戸が見える。
 そのはめ殺しの窓は曇り硝子で、いつもなら紫陽花の青紫色と緑が透けて見えるはずだった。
しかし、今はそれをうすぼんやりとした黒い影が遮り、外に立っているのが見えた。
 黒い影は手のようなものをで曇りガラスを撫でるように引っ掻いていた。

カシャンカシャンカシャンカシャン
ざあああああざあああああざあああああ

 その影は人にしては真っ黒すぎたし、細長すぎた。曇りガラスにあたる手の指は長さが不揃いでひどく気味悪く見えた。

 あれは人ではないー
 恐怖に駆られた私は居間に戻ると座布団をかぶって震えてうずくまり、何故か死んだ曾祖母にあの黒い影を追い払ってくださいと祈った。
 雨音に混じるカシャンカシャンという音は相変わらず聞こえ続けていが、だんだんそれが大きく、激しくなっていく。

カシャンカシャンカシャンカシャン…ガッチャガッチャガッチャ…ガチャンガチャンガチャンガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ...カチャリカチャリカチャリ...カシャンカシャンカシャンカシャン...カシャン...

 やがて、ざあああああ、という雨の音しか聞こえなくなった。
 音が消えても、また玄関の様子を確かめる気になれず私は長いこと蹲っていた。
 小一時間もそうしていただろうか。やがて祖母が家に帰ってきた。
 私は縺れる足で半ば転がりながら祖母の腰に抱きつき大泣きした。
 祖母は驚いて私を宥め、落ち着かせながら事の仔細を聞き出した。

 私は夢だと一蹴されるかもしれないと恐れていたが、祖母は意外にもカラカラと笑って言った。
「まだいるのねえ、あの幽霊は」
 それから祖母は、その「幽霊」について知ってることを教えてくれた。
 あの黒い幽霊は、祖母がこの家に嫁いでくる数代前から、初夏の雨の日の午後にこの家を訪れるらしい。

 何でも最初は真っ黒い、髷を結った和装の男の姿をしていたらしい。塗りつぶされたように仔細は見えず、ゆらゆらと揺らいでいるが、紛れもなく「人」の形はしていたそうだ。
 やはり戸を撫でるように叩くが自分からは入って来れないようで、放っておくとガリガリと戸を引っ掻きだすが、やがて諦めてしまう。無害だか気味が悪く、お祓いも何度かしたそうだが効き目は無かったそうだ。

「最初はそりゃあ不気味でね、私も凄く怖くて実家に帰ろうと思ったものだわ。でも無害だし一年に何回かしか出ない上に、そう長く居るものでもないからね。そのうち気にしなくなったの」
 祖母は言った。
「ここ数年間は全く出てなかったし、すっかり忘れていたわ。その程度のものなんだから、怖がることなんてないのよ。生きている人の方がずっと強いんだから、堂々としていればいいのよ」
 その言葉を聞き、私はほっとした。もう怖がっていない私を見て祖母は微笑んだが、やがてその眉根が少し寄り、悲しげな顔つきになり呟いた。
「......でも、なんだか、憐れなものね」

 私が大学に進学し家を出るまで、その影は何回か現れた。

 しかしそれは、年々小さく、弱くなっていくようだった。 
 最後に見た時は子猫のように小さく、カリカリと玄関の曇り硝子を引っ掻くとすぐ消えてしまった。

 あの幽霊は何故この家に入りたがるのだろうか?

 最初は人の姿で現れたというそれは、やがては形を完全に失い消えてしまうのだろうか?
 ひどく異質ではあるが、些末でささやかで、とうとう省みられることはなかったあの幽霊が何者であるか、ついぞ知られぬまま。

 あるいは──私はこれを考えるといつも足がすくむ──あれは私たちの行く末なのでは? 
 
 死んだ後、あの世に行けなかった魂は、生者と隔たれたまま、あんな風に徐々にすり減り消えていくのだろうか?
 私は、その恐ろしい考えを出来るだけ忘れようと努めた。

 しかし、今年の6月に祖母が急逝し、3年ぶりに実家を訪れたことで、その考えがまた私を悩ませることになった。

ざあああああ
ざあああああ
ざあああああ
ざあああああ
ざあああああ
カシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャンカシャン

 私は今、あの幼い日のように、居間の畳の上に横になり、玄関の硝子窓を叩く何者かの音を聞いている。

ざあああああざあああああ
カシャンカシャンカシャンカシャン

 目をかたく閉じ起き上がれずにいる。

ざあああああざあああああ
ガチャンガチャンガチャンガチャン
 何故ならもし、もし、玄関の曇り硝子の向こうにいる影が──
ざあああああざあああああざあああああざあああああガチャンガチャンガチャンガチャンガチャンガチャンガチャンガチャンガッチャガッチャガッチャ
──祖母の姿をしていたらと思うとガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ私はガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ私はとてもガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリとガリガリガリてもガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ耐えられないガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガチャンガチャンガチャンガチャン...カシャンカシャンカシャンカシャンカシャン......カシャン.........

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