18.「言葉っていうのはとても楽しい時とか、嬉しい時には出てこないものなんだよね」
今日は久しぶりに文章が書ける日だと思う。
最近はとてもダメで、全然ダメだった。
全然頭に言葉も感情も浮かんでこなかったのだ。
それほど穏やかに過ごしていたのかもしれない。
悲しいかな、言葉っていうのはとても楽しい時とか、嬉しい時には出てこないものなんだよね。
辛い時とか、寂しい時とか、自分が誰なのかわかんなくなっちゃった時とか、涙すら出なくて自分がバラバラになっちゃいそうになったり、いつかは消えて無くなっちゃうのかなとか思った時に。
頭の中が大渋滞してショートしちゃいそうになるくらい、言葉ってのはポロッポロ浮かんでくるのだ。
なんなんだろうね。
ハッピーな時っていうのは、言葉がちっとも浮かんでこない。
とはいえ、最近のわたしの日常っていうのは、それほど塩っ辛くもしょっぱくもない。
恋人と一緒に都内のマンションに住み始めてから、もう一ヶ月が経った。
世間ではこれを「どーせー」とか呼ぶ。
「どーせー」っていうのは、同世代の友達にとってはそれはそれはハッピーらしい。
でも、「どーせー」ってのは当たり前だけど、1人で住むわけじゃないから、起きてる間中自分を上手に操縦しなくちゃならない。
自分のためにも、相手のためにも。
人と暮らすっていうのは、1人で暮らしている時より色んなことに目を背けられなくなってしまう。
一人暮らしっていうのはとっても寂しいけど、誰にも何も言われずに自分のルールで生活できる。
自分だけの王国の中で生きられるのだ。
それはそれは自分の操縦も楽チンだ。
好きに道路を作って、その上を走る。
一方通行の道だったとしても、自由に行き来してしまう。
好きな場所に停まる、スピード操作も気の向くまま。
それに比べて、毎日を「誰かや、誰かや、誰か」と「生きる」ってとっても難しい。
「誰かも、誰かも、誰かも」いない「わたしだけ」の部屋は誰にも侵されない、自分が守られる、自分だけの世界だったのだ。
わたしは部屋に人を呼べなかった。
少しも心を、自分を侵されたくなかったのだ。
そんなわたしが、恋人と一緒に暮らし始めて、自分1人の空間に逃げ出せなくなった。
一筋縄ではもちろん、共同生活を送れるはずがない。
わたしの恋人は、とても温厚で器の大きい大人なカッコイーカワイーナイスガイだ。
おんなじ人間で、おんなじ歳なのに、よくもまあこんなに違うものだ。
今年の初詣では、当たり前に「1年心穏やかに過ごせますように」と願った。
恋人を苦しめないように、自分が苦しさに支配されないように。
おみくじは小吉、「開運」の小守りを200円で買った。
「開運」を選んだのは、緑色をしていたから。
横に並んでいた厄除けの小守りは赤色だった。
赤色をしていたから、どうしても手に取る気にはなれなかった。
青とか緑とかって、赤とか黄色よりも刺激がないから、好きだ。
ちょっとの刺激にも敏感なのは、脳みそなのか心なのか。
そもそも、心って、どこにあるのかな。
ドラックストアで、漢方を買った。
動悸とか、のどのつかえとか、そういうのに効くらしい。
こっちのお守りは20日分で4000円。
わたしにとっては高めのお値段。
少しも効果が出なかったら、どうしよう。
20数年付きまとうわたしの悪運は、200円のお守りにとっては、荷が重すぎるかもしれない。
話をちょっと戻したい。
最近文章を書こうと思えなかったのは、日常が少し輝いていたから。
転職をして、新しい仕事についた。
仕事にも新鮮味があるし、恋人とも新しい仕事を通して出会った。
恋人とは急行電車で20分の、程よい距離で別々に暮らしていた。
仕事を含めて週に3日ほど顔を合わす、連絡はこまめに取る、LINEのメッセージは既読無視をしてもされても気にせず送りあえる。
やさしくて、サラサラしている、そんな恋人との付き合いが、わたしのピリピリとした生活をまろやかにしてくれたのだ。
頭の中の交通状況はバッチリで、スイスイ操縦可能だった。
だが、最近は仕事に疑問を感じたりとか、恋人と一緒に住み始めて改めて感じる自分の問題とか、そういうので頭の中はぐちゃぐちゃだった。
だから、また文章を書けるようになった。
正直なところ、こうやって文章を書けて、とっても安心している自分もいる。
でも、できることなら心穏やかに幸せに毎日を送りたいし、明るくてハッピーな文章を書いてみたい。
今年は、穏やかにスローにマイルドな生活を。
人に優しく自分に正直に生きていきたい。
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