見出し画像

予想外の領域

少し前に話題になった発言。

(スクリーンショットは当該記事にリンク)

映画のテーマのひとつ「信じる」についての芦田さんの回答。

 “信じる”について芦田は「裏切られたとか期待していたとか言うけど、その人が裏切ったわけではなく、その人の見えなかった部分が見えただけ。見えなかった部分が見えたときに、それもその人なんだと受け止められることができる、揺るがない自分がいることが信じることと思いました」と高校生とは思えない回答を披露。
 続けて「揺るがない軸を持つことは難しい。だからこそ人は『信じる』と口に出して、成功したい自分や理想の人物像にすがりたいんじゃないかなと思いました」と言葉の中に潜む人の心理を指摘した。

(画像は当該YouTubeにリンク)

知性と教養に加え、瑞々しさすら感じる。既に悟りを開いているのだろうか。

「揺るがない自分」という箇所に多少の若さを感じるが、哲学の素養を存分に感じる発想は、問答無用に素晴らしい。

……

二人称の人間関係において、「対幻想」という概念がある。(©︎吉本隆明)。
自分の心の中にいる相手は幻想に過ぎず、実態とは多かれ少なかれ齟齬があるということ。
そりゃそうだよな、と分かっていても、実際自分の想像の範囲外の性質や、理想とかけ離れた部分を見てしまうと「裏切られた」「信じられない」などの反応が出てしまうのが凡人ではなかろうか。私は全くそうです。

ちなみに吉本は、「対幻想とは、個に対して抑圧的で強権な共同幻想から自己幻想を守るための、ある種の緩衝材」であると述べている。
社会はだいたい冷たく厳しい。生き抜くために、人は身近な存在である家族や恋人と手を取り合い戦う。最小単位の人間関係が対幻想だけど、相手をおもんばかる際に想像力が入る以上、齟齬からは逃れられないという話だ。
相手の中にある、想像外の部分に触れた時、それを受容し、向き合い方を新たに考えるという作業は相当にエネルギーを使う。「こんな人だと思わなかった」「がっかりだ、裏切られた」と切り捨てる方が千倍簡単だ。
でも、うまく受け止め、その度に関係性をアップデートしていれば、良好な人間関係が築けるし、社会とのかかわり、闘いが段違いに楽になることは間違いない。

もし、「裏切り」の部分において、芦田さんの言う「揺るがない自分」、つまり己の信念との乖離があれば、ダウングレードの場合もある。
個人的には、親密な関係性であっても、自身の尊厳や心身の健康を脅かす存在と判明した際は、適切な距離を置くのがベストだと思っている。先日精神科医の斎藤環氏もその旨をおっしゃっていた。

ただこの文脈だと、「揺るがない自分」は、自己信頼に加えて、寛容さ、包容力の意を持つように感じる。あくまで良好な関係性において、自分の在り方を定める方法ということなのだろう。
その場合、必要なのは、多層的、多角的な視野と知性だ。
「みんな違ってみんないい」という冷静さと社会システムが、人類を救うのだと思う。

………

芦田さんの哲学に胸打たれた。刺さり過ぎて死にそうだ。

「信じる」が達成できないのは、自分の経験値や想像力の不足・欠如が原因だったりする。少し考えれば分かることなのに、期待などの様々な感情に、目を曇らされてしまいがちだ。近しい関係性だと特に。

人類の悩みの大半は人間関係と言います。
まだまだ修行が必要だなと痛感しました。がんばります。

先日訪れた自然公園。緑はいいです。癒されます。

最近、ようやく高山羽根子さんの芥川賞受賞作「首里の馬」を読んだ(「破局」は読了済)。書評家の豊崎由美さんが大分前から激賞していた理由が分かった。幻想文学だけど、不思議なユーモアがあってすっごく面白い。読み終わりたくなくて、最後の方は読むスピードを落としてしまった。

連休はあっという間だった。
まだまだ休み足りないけど、自分を大切にしながら前に進みます。

サポートいただけたら泣いて喜び、創作活動に活用します。