一番大切なもの

今、わたしは絵に描いたような岐路に立たされている。死ぬ時、2019年は大変に濃い年として思い出され、走馬灯では「起承転結」の「承転」あたりを担当するであろう。端的に言うと、「本来の人生に戻りなさい」って四方八方からどやされているような日々である。

良い事も悪い事もあれこれ起きているのだが、全てが一つの方向性を示し、導かれている気がする。質の良い小説みたいな展開だ。驚くとともに「神様っているのかな」という気持ちにさえなってもいる。そういえば敬愛する作家・吉本ばななさんが結婚する際、そんなことをエッセイ「バナタイム」に記していたのを思い出す。

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正直、向き合うべき現実は結構大変なのだが、ここまでストーリーが出来上がっていては仕方あるまい。
ただ、出来事を解釈しているのは「自分」だ。つまり、立ち上がる際に己ときっちり戦っておかないと、必ず後悔する。これまで何度も失敗してきたから良く知っている。
大事なものは何か、軸はどこに置くのか。それだけは決して見失ってはならない。
私の軸は芸術だ。墓に花を手向けるという行動が、その原初と言われている。死者を悼む気持ちを美しい形に昇華する、愛情、優しさ、自然の叡智を比喩的に借りるという教養。クリエイター云々ではなく、生き様としてのアート。まあ引き続き創作はやるけど、って意味も含まれますが。
また「献花」は自身を慰める行為でもある。喪失の悲しみを花でいたわる、己への慈悲こそが愛の根幹だ。爆笑問題の太田光も「自分も捨てたもんじゃない、と思えれば、周りの人たちも素敵だ、大事にしたいって思えるはず」と語っていた。逆に言えば、自罰的な人間は、周りに対して加虐的だということだ。

まずは私がわたしを大切にすること。そして大切な人たちや隣人にも同じように接すること。それが私のしたい生き方だ。辛い時に八つ当たりしたり、隣人を貶めたりするような人生は送りたくない。そんなことをしたら自分が一番傷ついてしまう。まあ、毎回うまくいくわけではないけど、失敗したら謝ってまたやり直す、というくらいの世知は身につけてきた。歳を取って図々しくなったからな。恥はかけども愛は失わず、時々はナイスプレーもしたいっす、ってのが希望だ。謝罪多め、打率1割5分がデフォルトだが。

書いたら少しスッキリした。10年弱前に色々あった時も苦しかったが、今は自分を大事にしようと奮闘してる分、多少は楽だ。ちょっとは成長しているのかもしんない。兎にも角にもがんばります。

こういう経験はしっかり客観視できるまで寝かせておいて、物語のネタにしたい。備忘録として記しておく。
あと、「バナタイム」を久しぶりに引っ張り出したらあんまり面白くて読み耽ってしまった。ばななさんの本は文学というよりも処方箋に近い。世界の秘密がきっぱりとした言葉で綴られている。やっぱり大好きだな、と改めて思いました。


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