人と作品、被害者と作品

番組は見てないが、流れてきたネットニュースに度肝を抜かれた。

(1枚目スクショは記事にリンク)
お笑い好きなので、松っちゃんを嫌いになるという選択肢はないが、この件に関しての意見は真逆だ。

音楽も小説も絵画も映画も、「作品」と「作家」は切り離されるべきだ。政治や文化の礎を担ってきた、名だたる哲学家たちの人生をご覧あれ。だいたいがダメ人間です。ビートルズだってそうじゃん。あと、戦後の寄席にはヒロポンが蔓延していたというではないか。腕に注射痕満載で現れる漫才師を想像すると少し怖いが、その日の舞台の出来が良ければ「良い仕事をした」と言える。漫才だって「作品」だ。
そもそも演技はスポーツではない。表現である。芸術表現とは、「その時出されたもの」が全てだ。たとえ練習や取材なしで取り組んだとしても、薬をやってたとしても、その場で優れた演技ができればそれで良い。芸術とはそういうものである。ま、鍛錬なしに極めるのはやっぱり難しいけどさ。いずれにしても、人間性という意味で「背景を問う」のは監督の仕事ではない。プロデューサーや興行主の業務です。
マッキーが薬をやっていたであろう時期に出された楽曲も、価値が下がるわけではない。変な雰囲気だな、と感じた記憶はあるけど、曲そのものはしっかりした「作品」だ。その時のマッキー個人の人生は、道義的な意味では宜しくないかもしれないが。

ただ、「良く生きるとは?」の問いの答えは、時代や場所によって全く異なる。例えば縄文時代の価値観で現代を生きるのは大変に難しいだろう。その時代ではいくら賞賛されていたとしても。
生き様を安易にジャッジするのは危険である。どんな思想もあくまで「今を生きる自分」から見たものに過ぎない。一人の人間が100年足らずの人生で獲得できる視点が限られていることは語るまでもない。

性犯罪に関しては、かなり思うところがある。はっきりと被害者がいる犯罪だからだ。そして被害者はその人だけではない。違う人から似たような被害を受けた人まで傷つける可能性がある。
職業に貴賎はないが、少なくとも政治家などの公的な職種や、俳優など表に出る仕事は控えるのも償いの一つだと思う。社会復帰そのものは支援すべきで、適切な治療は必須ですが。
音楽家ならライブ活動を中心にするとか、舞台俳優に徹するなど、ある程度ファンが限定されるような領域がボーダーでしょう。地上波はアウト、映画や有料配信作品なら何とか、なのかな。出来れば裏方に回って欲しいところだが。

怒りに任せて書きなぐってしまった。

ここまで書いておいて何ですが、私は大根仁監督が大好きだ。「モテキ」はどハマりし、テレビ版はDVDを買った。映画版は初日に駆けつけ、感想メールを送ったら返事が来て狂喜乱舞した。先日の大河ドラマ「いだてん」9話・シベリア鉄道編(大根仁演出)も涙しながら観た。
彼は数十年来の電気グルーヴファンで、ドキュメントムービーを撮っている。映画版「モテキ」には新井くんもピエールさんも出ていた。新井くんは大根組の常連だった。私も彼の演技は好きだ。新井くんが出てるなら、と見る作品だってあった。
大根さんのことを思うと胸が痛む。お蔵になる作品が出るかと思うと辛い。
何とか有料コンテンツの形式で残して欲しいと願う。

作品と作家は分けるべきだ。彼らを裁くのは法だ。文化ではない。
正しい生き方なんてあってたまるか。

……
ひと通り怒ったら疲れてしまった。大事にしてたアクセサリーも壊してしまい凹んでいる。今は茶を飲んで落ち着いたところ。
松っちゃん、やっぱりワイドナショー向いてないと思うなあ。正直、勇退的な形での降板を願っている。


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