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震災の記憶

最終話 悲しみに暮れる間もなく、 親戚や知人に妻の死を知らせる連絡や 葬儀に関することを進めていかなくてはならなくなった。 息子は、ちょうど葬儀の日が テニスの大切な試合の日と重なってしまい 試合に出れなくなった。 初めての他県への遠征。 私の住んでる県からたった1校、 息子の通う中学校が出場を招待された 貴重な試合だった。 その晩 顧問の先生が自宅を訪れてきた。 「○○くんがこういう状況だから 他の子たちが試合を辞退して葬儀に出たいと言ってます。」 驚いた。 凄く

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      第7章 妻の死 【後編】 病院に到着した。 未だ、妻の意識は戻っていない。 身体中にたくさんの管が通り 心電図の音が鳴り響いていた。 私は妻が目を覚ましてくれることを ただ祈るしかなかった。 妻と過ごした日々を思い出しては わがままに生きてきた自分を悔いた。 妻は、明るくおおらかな人だった。 私のことを理解し、信じ、愛し、 ずっと私の傍で支えてくれていた。 神経質な私の性格にも全て合わせてくれた。 私と息子の為に大きな愛で尽くしてくれた。 私が唯一、頭が上がらない存

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        第7章 妻の死 【前編】 息子が中学校に入学した。 息子はテニス部に入った。 周りは小学校からテニスをしていた子たちが多くいる中、 息子は初めての部活でいちばん下手くそ。 何をしていいかもわからず、ぼーっと突っ立っていた姿をみた。 「大丈夫かな」 と親心は心配であったが、 毎日、部活を頑張る息子を見守ることにした。 妻は、少し体調を崩す時もあり 何度か通院もしていたが、様子を見ながら 生活をしていた。 震災から7年を迎えた3月中旬ごろ。 急激に妻の体調が悪化

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          第6章 仮設住宅での暮らし 息子が小学校に入るころ 応募していた仮設住宅の抽選が通り 小学校卒業するころまで そこで暮らしていた。 壁は薄く、3人で身を寄せるには 狭く窮屈なところであったが 同じ仮設住宅で暮らす方たちとも 明るく会話をしたりして過ごしていた。 町も復興に向けて動き出していて 少しずつ、元の暮らしに戻ろうと 活気づいてきていた。 私自身も、震災があった年の夏ごろから 仕事に復帰していた。 以前と同じ海の仕事。 毎日、早朝から 海の機嫌を伺い あの日の

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          第4章 震災後の生活 3人で悪路をひたすら歩いて アパートに向かっていた。 辺り1面変わり果てていて どこがどこだかわからなかった。 町が無くなった。 そう感じさせられざるを得ない風景だった。 やっとの思いでたどり着いた 引越ししたての アパートは、焼け崩れていた。 住むところが無くなった。 着の身着のまま、替えの服もない。 もちろん、食料も水もない。 それに、家族の思い出の写真など 大切にしていたものが 全部焼き尽くされていたのだ。 その後私たちは、 妻の親戚

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          第2章 道の駅 実家に行くと、父も母も無事だった。 1晩そこに泊まったが、落ち着かず 朝早くに目が覚めた。 近くの道の駅に、なんとなく向かうことにした。 すると、私の顔をじっと見る人の姿があった。 私も、視線をそちらに移した。 「おとうさん???」 と呼ばれた。 妻だ!!! 生きていた。 顔を見合わせたあと、 妻を抱き寄せ2人でワンワン泣いた。 道の駅には、たくさん人が集まっていた。 それでも人目をはばからず、泣きじゃくった。 これほど嬉しい瞬間はなかったと

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          □はじめに 2024年1月1日午後4時6分 石川県能登地方を震源地とする震災に遭われた皆さま方に、心よりお見舞い申し上げます。 コロナ禍も明け、日本全体が元に戻りつつあり、お正月の明るいひと時を過ごしていた方々が多数おられるであろう最中での突然の出来事に 心が傷みます。 どうか一日でも早い復興をお祈り申し上げます。 この体験記は、 2011年3月11日 午後2時46分。 三陸沖を震源地とする地震・津波により 日本に甚大な被害を及ぼした 「東日本大震災」の体験記です。

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