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実感をもって言葉を知る

その言葉や物語を知った時にはピンとこなくても、のちに身を震わせるほどその文章を実感する…
というような事がある。

1.キッチン

初めてそれを感じた経験が吉本ばなな「キッチン」だった。

私の母は読書が趣味で、文庫で発売された「キッチン」もそうやって母が買ってきたものだった。
それを読んでいた母が文字通りキッチンでビックリするほど泣いていた。
今でも覚えているくらいの泣きっぷりがおかしくて、その原因が「本」だというのも当時の私にはおもしろくうつっていた。

そんなに泣くのが不思議で、私もその当時、中学生の時に「キッチン」を読んだ。
そして母に「何でどこでそんなに泣くの」と疑問を呈した。

再読したのは25歳を過ぎた頃。
母を笑えないほどに、私は泣くに泣きながら読んだ。
そのことを母に伝えたら「あの本は泣いちゃうのよ」と語っていた。
きっと今ならもっと泣くだろうと思うと、怖くて読み直せない。

あの本にある「喪失」を中学生の私は文章として理解しても、実感として理解してなかった。
おそらく再読までに私はその実感を持つまで「喪失」を体験したのだろう。
そして私は明確な「喪失」をたくさん経験してきて、それを受け止めることができるかわからなくて…もう一度読むことが怖いのだと思う。

「キッチン」のこの体験は私にとって最良の読書体験として強く残ってる。

2.サザエさん

最近も文章を実感として理解できた、ということがある。

サザエさんのオープニング曲「買い物しようと町まで出かけた」…というと意外かな。

それは「買い物」と「町まで出かける」がイコールになる生活、環境にずっといなかった…ということ。

私の育った場所では住んでいる町の「中」で出かければ「買い物」ができる。
住んでいる町と別の「町まで」は出かけないという環境。
住んでいる環境と「買い物する町」が別に存在していなかった。

上京して10年以上住んでいたところも、どちらかというと多くの人が「買い物する町」だったので、その実感なし。
だからずっと住んでいる環境の中で「買い物」をするものになっていて
「買い物しようと町まで出かけた」ということがなかった。

ここ5年いわゆる「住宅街」に住んでいて特別に「買い物する町」が別にある環境になった。
ふと最近「買い物しようと町まで出かけ」なきゃならないなぁと感じて「おぉ!これが!」と思った。

とりあえず財布忘れたくないなと思ったけど、最近財布よりスマホあればなんとかなるし…
サザエさんの桜新町考えたらやっぱり「買い物しようと町まで出かけ」るよなぁと思った。

3.放哉

咳をしても一人

自由律俳句の中でも名作中の名作で、教科書にも載っていることから知ってる人も多いと思う。
小学生の時に初めて読んだクラスメイトは皆で大爆笑していた。
「咳をして」という状況もあまり実感がないだろうし、よっぽどの家庭環境でなければその中で「一人」であるなんてないからね。

私は人より「咳をして」の体験が当時多かった。何しろひと月に一回は熱を出す。
その中で一人でいることを少し想像して、きっと笑うようなことじゃないと感じていたのを覚えている。

「咳」は単純に咳ではなくて、放哉から言えば結核だった…
そこから推察しても咳だけではない身体の不調を抱えた中の句だったという。
当然「咳」は「身体の不調」の比喩でもあるから放哉自身の例にてらさなくても、単純に咳ではないけど…

身体の不調を抱えて苦しい辛いといっても、衣食住暮らしをすべて自分でやり、辛くて泣いても咳で苦しさに埋もれても心配も助けもない。
そういった「苦しさ」を感じる。

ワクチン5回目を打ってきて、39度の熱と全身にわたる関節痛の中思い出したのがこの句だった。
ワクチンなので、結核みたいに死を目前にもしておらず治る目安もわかっていたので、まだその実感には遠いのだろう…とも思う。

でも身体の痛みや朦朧とする頭の中で感じた圧倒的な「一人」は、私の心を打ちのめすのに充分だった。
それは「咳をしても一人」の中にある「徹底的な孤独」の実感だった。

結局、孤独を癒せる存在というのは「咳」をする時に「一人」にさせない、側にいる人なのだ。
病める時もとは良く言ったものだな、と思う。
「咳」の時に「一人」ということが何よりも「孤独」の証。
逃れられない圧倒的で、徹底的な「孤独」の実感なんだと思った。

死を迎える頃にまたこのことを思い出して、今言ってる「徹底的な孤独」など浅はかだった…と思うのだろうか。
できれば、これ以上骨身に染みるほどのこの句の実感だけは経験したくない…と思う。

おわり

自分に経験が増えれば増えるほど、単なる文章が文章ではなくなってゆく。
それは身の震える体験、表面だけ生きていけない証左だと思っている。

それでも実感を知らなくても良かったのではないか…という感情も中にはあるね。
それを哀しさにするのか、豊かさにするのか、自分次第なんだろう。

その体感を自分の感情と切り離してしまえれば楽なんだろうけど、この身を震わせることが豊かさなのかもしれない。

読んでくれてありがとう!心に何か残ったら、こいつにコーヒー奢ってやろう…!的な感じで、よろしくお願いしま〜す。