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「生きる」女優

先週の朝ドラで私はすごいものを観た。

NHKの朝ドラや大河をふたたび観るようになったのは十年近く前のことだ。
洋楽を聴くほうが楽しくなりだした中学生以降、十数年ほど私はテレビから遠ざかっていた。その時期のテレビの記憶というものが、音楽番組は別として、私にはほとんどない。小学生までは家族と一緒に観ていた朝ドラや大河の記憶も、この時期だけはすっぽり抜け落ちている。

歳をとると大河観るようになるよね、と言う人は周囲にわりといる。そういう気もする。十代の後半から二十代までは頭の中が自分独自の興味でいっぱいで、私はもっぱら海外のこと、現代のことにばかり目を向けていたから、日本の昔のお話にはまったく興味がわかなかった。

それが中年の領域に入ってしばらくたつと、それまでひたすら外に向かっていたベクトルの向きが、しだいに自分の内側に向きを変えはじめた。日本人ってどういう人たちなんだろうと考えてみたり、自分のルーツに思いをはせてみたり。大河とか観てみようかな、と思い立ったのはそのころだ。同じころ、朝ドラもまた観るようになった。

朝ドラには、最大公約数的な好感度をそなえたヒロインが努力して明るく正しく生きていくお話、という平板なイメージをずいぶん長い間もっていた。たぶんそれは小さいころに観ていた昭和の朝ドラの記憶のせいだろう。当時の私は、そういう人物こそが爽やかな朝のヒロインにふさわしいとされた時代の渦中にいたので、家族とともに納得して視聴し、ああいいねえ、なんて言う母や伯母のコメントを素直に受け入れていた。が、やはりある程度歳をとると、そしてこれだけ女も多様化した時代になると、ヒロインの平板さに物足りなくなる、というのは否めない。

ところが、知らないあいだに朝ドラのヒロインも脇役も平成バージョンに進化していた。
「カーネーション」(再び観るようになった最初の話)では、尾野真千子さん演じるヒロイン糸子が道ならぬ恋に身をやつしていた(つまり不倫ね)。脇役にも強烈なクセをもつ人が登場するようになった。キョンキョンが演じたあまちゃんの母に漂う非優等生的な匂いは、昭和の朝ドラの母にはなかったものだ。
いろんなタイプの女が登場するようになって朝ドラも面白くなったなあ、とここ何年か思ってきたのだけど、先週のある朝、それとはまったく別次元の驚きを私は味わった。

4月から始まった「エール」である。
第6週、二階堂ふみ演じる関内音に、私は目を奪われたのである。

二階堂ふみさんはおそろしい俳優だ。
出演作をくまなく観てきたわけではないけれど、若い俳優の中ではとりわけ芸達者な人だなあと前から思ってはいた。

なによりあの大きな目。
きらきら輝く大きな目の女優さんはいくらでもいるけれど、彼女の目の光は格別で、意志の強さや激しい感情を表すときに絶大なる効力を発揮する。
あの目にキッと見すえられた共演者はどんな気分になるのだろう。捕食者に出くわしてしまった草食動物みたいな感じなんだろうか。私だったら、視線をそらすことも、逃げることもできず、その場ですくんでしまいそう。瞬発力がなくて考えるのにやたらと時間のかかる私みたいな動物は、きっとあっというまに捕まり、食べられてしまうはずだ。

だが、その目が語るのは、ぐっと前に出てゆく激しい種類の感情だけではない。悲しみや落胆のような深く沈み込んだ感情もまた雄弁に語ることができる。はっきりしない、焦点の定まらない感情をうっすら浮かべることもできる。

声もほかの女優とは違う。
腹から出ている。

日本の女の声のトーンが外国女性に比べて高いのは腹式呼吸をしていないから、と聞いたことがある。だからかどうか知らないが、日本のテレビに出てくる女のひとたちは、喉元から先で発声しているような、浅くて高い声を出すひとがとても多い。生物学的にそうなりやすいのか、それとも、高い声はカワイイという社会通念からくるものなのか。知りたい。知ってどうするわけでもないが。

発声のしかたと演技力に相関関係があるのかどうかはわからないが、少なくとも私は、腹から声の出ている女優さんには本気度の高さを感じてしまう。本気度が高いと感じると、説得される度合いも高くなるよね、やはり。
要するに好きなのだ、低めの落ち着いた女の声が。

人間のさまざまな感情を目とか声とか佇まいで繊細に表現できる人となると、やはり経験を積んだ年配の俳優だよなあと思うけれど、二階堂さんは、若いながらもそういう人たちに引けを取らない演技のできる役者さんではないだろうか。

「エール」では、歌手をめざす関内音(二階堂ふみ)と作曲家をめざす古山裕一(窪田正孝)が文通を通じて知り合い恋に落ちる。が、実家の事情で音との交際を認めてもらえない裕一は音に別れの手紙を送る。

その手紙を読んでいるときの音の表情のこまやかな変化。
手紙の結びにある、別れてほしいという言葉にショックで手を震わせるしぐさ。
「お姉ちゃん、震えが止まらん、押さえて」とつぶやくときの声の震え。
姉の胸元に寄りかかり、こぼす涙。

大河や朝ドラで大役を演じることによって演技力を身につけ、成長する俳優はこれまでに何人もいた。駆け出しのころは演技も台詞も頼りなくて、見ているこっちのほうが疲れていたのが、見違えるように成長して、ああこの人、いい俳優になってきたなあ、なんて思うことはよくある。

でも、どんなに成長しても、どんなに演技力がついても、あくまでも「演技をしている」枠内に留まっている俳優が大半ではないだろうか。
台詞の言い回しとか、表情とか、物腰などにこなれた良い味が出てきても、結局は演技という行為の枠内で熟成したということであって、その人が「演じている」という認識からこちらは逃れられない。という場合がかなり多いと思う。

だけど先週の二階堂ふみには、もはやそういうレベルを超えた何かを私は感じた。
それはもう芸達者というような簡単な言葉で片づけることのできない迫真の演技というか、いや、迫真の演技というのもはばかられるほどの切羽つまった何かだった。

そのときの二階堂ふみは、音という名の女としてその場を生きていた。

この人はすごい。本物だ。
まだ25歳というから、この先どう成長していくのか考えただけでもおそろしい。この人が中年とか老女になったとき、どんな女の姿を見せてくれるのか。待ち遠しい。早く見たい。そのときまでこちらが生きていればの話だけど。

こんなに言葉が溢れているなかから、選んで、読んでくださってありがとうございます! 他の人たちにもおすすめしていただけると嬉しいなあ。