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ミレーの落穂拾い : essay



ある老人のお宅に伺った。

事務所として、
昔、使われていた部屋に入ると、
ミレーの落穂拾いが飾られていた。

それは額に入っていたけれど、
埃がだいぶ被っていて、
落穂拾い独特の光が翳っている。

私は老人を待つ間、
落穂拾いを凝視した。

「落穂拾い」
それは小学2年の梅雨の日、
昇降口の奥の廊下に、
どこかの業者が、
印象派時代の絵のポスターを
展示していた。

どんな絵のポスターがあったかは
覚えていない。

でも、
ミレーの「落穂拾い」だけは
しっかり覚えている。
湿った空気の中、
私は「落穂拾い」の虜になった。

小学2年の私には
「落穂拾い」と言うタイトルの意味さえ
分からなかった。

「先生。
 これなんて書いてあるの?」

「ん? おちぼひろいだよ。」

「ふーん。」

私は「おちばひろい」だと思った。
だけど、
落ち葉を拾っている絵には見えなかった。

つまりは、
言葉的には何も理解していなかった。

それなのに、
「落穂拾い」から目が離せなかった。
一目惚れのような感じだ。

家に帰り、
「絵が欲しいから、
 お金ちょうだい。」
と、親に言った。
「絵なんかいらないでしょ。」
「どうしても欲しい。」
「絵なんか買ってどうするの?」
そんな会話をしたと思う。
結局はお金を貰いポスターを買った。

その日から私の部屋にはずっと、
「落穂拾い」のポスターが飾られた。

私は飽きずに毎日眺めたのだけれど、
あの時の私は一体何を思って
「落穂拾い」を眺めていたのだろう?

数年後、
「落穂拾い」の意味を理解した。
貧しい農民が溢れ残った落ちた穂を拾い
食の足しにしたのだ。
そんな言葉的な絵の説明。
そんな言葉とは違ったところで
私は「落穂拾い」が好きだった。

あの時の私と、
今の私は同じだろうか?

私は「落穂拾い」」自体よりも、
あの時の幼かった自分を
「落穂拾い」から見ていた。

あの時の私の方が
本当は色んな事を理解していたんじゃ
ないだろうか?

全ての事を言葉に起こし
思考する事しか出来ない
今の私は、
埃を被った目の前の
「落穂拾い」の様に、
曇ってしまって
本来の光は消えてしまったんじゃ
ないだろうか?

小学2年の私とは
かけ離れた場所にいるけれど、
あの時の私と
今の私は
同じ私のはずなのに…。



梅雨の湿った冷たい空気の中、
「落穂拾い」を真っ直ぐ見つめる
小学2年の私を、
抱きしめたい気持ちになって、
そして、
自分自身を愛しく思えた。

今、
あの時の私の見ていた先は分からないけど、
あの延長線上で今も生きている気がする。
ずっと、
同じ魂で生きていた気がする。

「落穂拾い」を通して、
小学2年の私に、
「ありがとう」と言いたくなった。

「落穂拾い」は私にとって、
きっと光なのだと思う。





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