おっさんと愛

私はチームの四半期に一度のキックオフの宴会にいた。その日はやけに営業チームのメンバーに絡まれた。


「俺たちに数字(売上のこと)をやらせてそれを毎週のビジネスレビューにまとめて、それで終わりですか?」


「もっと俺たちの行動を見てくださいよ」


「もっとやれることあるでしょう」


しばらく聞いていて思った。彼は愛されたがっているのだと。


30代後半の営業マンであるこの人物はチームの中で恐れられている論客タイプの人で、愛されるタイプではない。


そんな論客タイプの彼だって愛されなければ寂しいのだ。かと言って今更愛されキャラになることもできない。第一、彼はチームの中でも年齢が上で、周りはみんな若いのだ。


そう思えば、私自身もそうは変わらない。おっさんは愛されないし、寂しいのだ。


おっさんが昇進を逃して不貞腐れたりするのも、職場で必要とされないのを感じ取って転職を考えたりするのも、愛が足りないと感じるからなのだ。


キャリアプランなんて格好つけた言い方をするけれど、結局愛され続ける自分でいたいのだ。しかし、実際のところずっと愛され続ける望みなんてものは無い。なぜなら年をとれば、愛されなくなるからだ。


年をとったからといって別に憎まれるということはない。そうかと言って、積極的に愛されるということも無くなる。人間だって生き物なんだからピチピチしてる方が愛されやすいし、そうでなくなれば積極的には愛されなくなる。


人生にはいつだって愛は足りない。年をとれば尚更だ。そして、この先、老いていけば更に愛されなくなる。


おっさんにとって愛は希少な資源なのだ。コバルトみたいに。


でもコバルトと違って愛は自分で生み出すことができる。ただ、愛すればいいのだ。


でも、愛したところで愛されるわけではない。愛が帰ってくることなんてまるで期待できない。


すなわち、おっさんは愛されることはもうきっぱりと諦めるしかないのだ。


若い人だって、あまつさえ小さな子供だって愛されることから完全に見放された人がいる。だから、こんなことは全然大したことではないのかもしれないけれど、おっさんになったら、これからの人生、もう愛される望みは無いことを覚悟しなければならない。


愛という希少資源を生み出すための人生になってしまったのだ。ステージが変わってしまったのだ。


残念な話だが、まだ大してもらってもいないのに、与えるだけのステージに変わってしまったのだ。


そんなの損じゃないか。そう、損だ。お金では得をすることができても、愛情については得はありえない。お金は価値を保存できるメディアだが、愛情にはそういった保存できるメディアはない。感情なので留めておくことができない。損得にこだわってしまうと、必ず負けるゲームをプレイする羽目になる。


おっさんは愛されなくなったな、と思ったら愛をうみだす方にジョブチェンジしたほうがよい。


愛する対象があることはまだ幸いだ。愛する対象がなくなってしまうことだってあるのだ。年を重ねればますますそうなるだろう。


命に限りがあるので、その命で愛されたり、愛したりすることにも限りがある。生き物として、愛されたり愛したりすることはどんどん無くなっていくのだ。ならば、あるものを享受するしかない。



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