都知事選のこと

都知事選の投票に向けて、候補者の討論会を動画で見た。今どきは、政見演説や討論会のたぐいは文字で書き起こしたものがあるものなのだそうで、そちらを読んだほうが効率がよさそうだが、候補者がどんな人なのかも見たくて動画で見た。


表面的な争点はコロナの影響に対してどのように対処するべきか、ということであったが、その背後には「成長戦略か再分配か」という論点が垣間見れた。これの論点をはっきりと持ち込んだのは宇都宮健児だったが、そのおかげで小池百合子との対立軸がはっきりした。成長戦略か、再分配かという対立軸ができたのである。


弱者救済を軸にしたことは山本太郎も同じだったが、「経済成長にサヨナラ、社会の連帯で幸せに」とまでは言わなかった。宇都宮健児と山本太郎の両者は弱者救済のための財源をめぐってつばぜり合いをしていたが、そこはあまり盛り上がらないところだ。有権者に「財源のこともきちんと気にしてます」というメッセージが伝われば十分であり、テクニカルなところを議論しても有権者には理解されないのだから。


今回の選挙ではリベラル側(宇都宮健児と山本太郎)にいつもにはない利があるなと思う。それはリベラル側の敵になる自己責任論が出にくいことだ。コロナの影響で経済的に追い込まれるのは自己責任ではなく、天災のようなものであると考えられている。だから、コロナで経済的に困窮した人を救うために財政出動するとしても、それが自己責任論による反論に会うことはない。


すると唯一の反論は「財源はあるのか」ということになる。それが、国家財政の話だったらば増税か、国債発行か、紙幣を刷って埋め合わせるかのどれかに限られてしまうが、地方財政はそれを規模で大きく上回る国家財政が背後に控えているので国家財源が出動すればなんとかなってしまうように見えてしまう。国家予算は100兆円規模で、東京都の予算は7兆円だ。だから、「財源はあるのか」という反論もあまり強力な反論にならない。しかし、都民だけを救済するために多額の国家予算を出動するなど、都民以外の人にとってはどうなんだろうか。


この弱者救済のリベラルをめぐる論争はいつも3つの論点の間をぐるぐる回っているだけになりがちだ。「弱者を救済しよう」「いやそれは自己責任だろう」「財源はどうするんだ」の3つだ。


先日、真山仁の小説『オペレーションZ』を読んだ。国家財政が破綻寸前の日本で、首相と財務官僚が国家財政を大胆な施策で再建しようと奔走する物語である。国家歳出を大幅カットしようとすることに対して日本のあちこちが悲鳴を上げ始める。その様々な悲鳴のあり方を描くことで財政破綻をシミュレーションしようという試みがなされている。ここでも展開されるのは「弱者救済」「財政」「自己責任論」の3つで、その間を行ったり来たりする。


ここに私が感じる違和感がある。この3つの論点においては、救済される側はとことん救済されることを望んでいることが前提で、問題は救済すべきかいなか、そして救済可能かどうか、ということに尽きているきとだ。なぜ、相手は救済を望んでいないのではないかという論点がいつもないのか。言い換えれば「政府なんてすっこんでろよ。自分達のことは自分達でするから。しゃしゃってくんな。」という論点が出ないのだろうか。こういう考え方をリバタリアニズムという。日本にはリベラリズムはあるが、リバタリアニズムが不在なのだ。


小池百合子の成長戦略は一種のリバタリアニズムである。成長のためには淘汰が必要であり、全員を救済していたら淘汰が起こらず成長できない。旧来の低い生産性のビジネスに人々が安住してしまう。しかし、小池百合子はその淘汰の側面を見せない。何しろ今は、コロナという未曾有の事態なのだ。淘汰について言及できるような状況ではない。宇都宮健児の成長戦略か再分配かという議論を持ち込むことで、小池百合子の成長戦略が淘汰のロジックを背後に持たせていることにスポットライトを当てたのだ。


日本には成長戦略という変種としてのリバタリアニズムはあっても、純粋に社会の国家権力からの独立性を保とうとする政治哲学としてのリバタリアニズムは不在だ。


政府による再分配機能によって自由と平等(このときの自由とは経済的貧困からの自由という要素が強い)を実現しようとするリベラリズムと、政府の介入を嫌い人々の自由を守ろうとするリバタリアニズムは、異なる価値観である。社会の中にリバタリアニズムがなければ、政治の議論も資源の分配だけの議論になってしまうので、行政官僚機構がすることと政治がすることが同じになってしまい、政治議論がとてもつまらないのだ。


政治が人々の関心を集めなくなり、投票に行く人が少なくなりつつある。小選挙区制になってからというもの政策が似たりよったりになり対立軸が作れなくなったから、ということもあるだろうが、リベラリズム一辺倒で政治哲学としてのリバタリアニズムが不在なため、政治議論が資源の再配分の問題にしかならない窮屈さがあるからだろうと私は思っている。


政治哲学としてのリバタリアニズムの不在は、日本人の国家観として祭祀の延長線上に国家をおいているということがあるのかもしれない。それは戦後知識人が嫌悪し続けたものだ。丸山眞男がそこからの自立を促し、吉本隆明が『共同幻想論』で描き、小室直樹が「日本教」と呼び、浅田彰が「土人」と唾棄したアレだ。米国という建国理念にリバタリアニズムが塗り込まれた特殊な人工国家は例外として、リバタリアニズムは多くの国で不在になっていくのではないだろうか。


私達はいまでは市民というより、消費者というべき存在になってしまった。市民とは「参加し、貢献し、享受する」存在である一方、消費者は「金を払って、サービスを受け取り、文句を言う」存在だ。市民でいるより、消費者でいる方がよっぽど楽で快適だ。町内会で公園の遊具の安全性とその遊具で得られる体験をどう両立させるかを議論するより、役所に「税金払っているんだからなんとかしろ」といい、できたものに文句を言ったほうが楽ちんなのだ。そういった厄介事をアウトソースできれば、自分は業務に勤しめるし生産性も高い。


日本では、祭祀の延長としての国家観から、消費者的国家観に移行したが、他の多くの国でも消費者的国家観への移行はじわじわと進んで行くだろう。国家は、一種の企業体のようなものになっていくだろう。払ったものに対してサービスを供給する、というサービス企業に。


もし政府が一種のサービス企業ならば、そこからの独立性を担保しようとする意味もなくなる。アップルIDとマイナンバーに大した差がなければ、別に抵抗感もない。


変種のリバタリアニズムとしての成長戦略と、リベラリズムの戦いが今回の都知事選だと理解した。政治哲学としてのリバタリアニズムが日本で育つ見込みは恐らくないだろう。


さて、誰に投票するか決めなくては。

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