コロナで仏の教えを思い出す

今どきは外国にFacebookの友達がいれば、その国のことがタイムラインに流れ込んでくる。私Facebook のアカウントはインドや香港、シンガポールの友人が多い。


東京ではコロナウイルスの新規感染者と診断された人が日に100人を超えたそうだ。世界はもっとひどいことになっているようだ。インドでは病気の前で病院に入れない人々がストレッチャーの上に横たえられている。まるで戦時中だ。叔父さんが病院をたらい回しにされてなくなった、といういたましいエントリーが続く。


東京で、うちの子供たちがじいじばあばに会えない鬱憤を、「コロナのバカ!」「コロナなんか僕がやっつけてやる!」などと叫んで晴らそうとしている。実に呑気なものに見える。


ウイルスというものを子供にどう教えたものか。パンチしたり、ブレーンバスターをきめたりできる相手ではない。ということを教えるためには、ウイルスとはそもそも何なのかを教える必要がある。


「人間の細胞は、アミノ酸を決められた配列に組み合わせることで、自分の身体を作っているんだ。ウイルスとは細胞の中に入り込んで、そのアミノ酸を組み合わせる仕組みに介入して、人間の身体のかわりにウイルス自身を多量にコピーして作らせるんだ。ウイルス自身は生きていなくて、タンパク質でできた小さな機械なんだ。生き物の細胞の中に入り込んで、自分のコピーを作らせるということ以外何もしないんだ。」


と、私なりに頑張って教えた。通じたかどうかは分からないが、直接力を加えるには小さすぎる相手であることは伝わったようだ。


「人間ってのはこのアミノ酸の配列に過ぎないんだ。この配列どおりのタンパク質であれば、自分の身体であると言えるんだけど、配列の違うタンパク質が入ってきたらそれは異物なんだ。免疫系は身体の中の配列の違うタンパク質を見つけ出して、その配列を壊すことで身体を守っているんだ。自分の持つアミノ酸の配列を守るってことが、自分の身体を守っていくってことなんだ。」


説明がここまでいくと子供たちには通じてない感が漂ってきたので、そこでやめにすることにした。


ウイルスのことを考えると、仏教を連想する。仏教を一言でいうのは難しいだろうが敢えて一言でいうと、「物事の性質は、その事物が持つ周囲との関係性びよって決まるものであって、それ自体で変わらずあり続ける性質というものはない」ということだと理解している。


ミリンダ王の問いという話しがある。空性という概念を確立した大乗仏教の巨人ナーガールジュナがミリンダ王に空を説いた話だ。ナーガールジュナが「王よ、ここまで車で来たならば、何が車なのかを教えて下さい。軸ですか、車輪ですか、車体ですか」と聞くとミリンダ王は瞬時に質問の意図を察して「車とは、軸と車輪と車体の組み合わせだ」と答える。たったこれだけの問答から車とは車軸と車輪と車体との関係性に過ぎないということを導きだすのだ。


人間というものが、アミノ酸の配列に過ぎない、ということは配列そのものが人間であって、それはただアミノ酸の配列関係としてしか存在しない。その配列が変われば、それは別の生き物だ。


仏教以前にはウパニシャッド哲学があった。ウパニシャッド哲学では自己を超越した自己、アートマンというものがあるとする。人間が痛くても苦しくても、それはまるで映画の登場人物が苦しんでいるのであり、本当にそれを認識している自己は、映画の観客になったかのように、「苦しんでいる自分を見ている自分」である。自分を見ている自分、アートマンこそが本当の自分なんだと教えている。アートマンとしての自己を獲得するための修行がバラモン教の苦行だった。ブッダも苦行を経験している。


悟りを開いたブッダは悟りの内容についてほとんど何も語らかなかった。ブッダの死後、弟子たちが集結してブッダの教えについてコンセンサスをとると、「物事の性質は、その事物が持つ周囲との関係性びよって決まるものであって、それ自体で変わらずあり続ける性質というものはない」というポイントに至ったようだ。


その教えは、あることをこっそりと語りかけてくる。それまでのウパニシャッド哲学が想定していたアートマンは実は存在しない。物事の性質は、周囲との関係性によって決まるものであり、アートマンというようなそれ自体であり続ける性質というものはない、と。バラモン達が苦行によって得ようとしていた修行のゴールであるアートマンは存在しなかったということになる。


それ自体で超越するような性質は存在しない。人間は自分が置かれた関係性が変化していく中で思いがけない出来事や、得体の知れない感情にまみれて生きるしかないということだ。


ウイルスはまさにそんな仏教的世界を端的に表しているように思える。どこからともなく入り込んで来て、アミノ酸の配列を変えてしまう。アミノ酸の関係性として成立している生き物を、思いがけない形で乗っ取ってしまい、アミノ酸の関係性を別のものにしてしまう。関係性が書き換わってしまうのがウイルスなのだ。


というのは、あまりにも生命を相対化しすぎかもしれない。言い換えれば、生命に対する思い入れがなさ過ぎるかもしれない。本来ならアミノ酸の配列は、生物が自分を保つ秩序であり、ウイルスはその秩序への挑戦である。だから、ただそのウイルスと戦う、というのが自分自身が生命であるものとしての正しい態度なのだろう。


しかし、ここでは敢えて生命そのものを相対化するくらいの距離感で考えてみようではないか。


コロナに第二波がやってくるどころか、第一波が過ぎ去ってはいない。そんな中、議論は安全第一論と、経済活動とのバランス論の間をただ行ったり来たりしている。しかし、そんな行ったり来たりを続けていても、どこにも行けない。


ウイルスは関係性を書き換える。アミノ酸の配列を書き換えるだけでなく、人と人の関係性も書き換えている。距離を取り合う人と人の関係性はどのようなものになっていくのか、飲み会という時間もオンラインでできることに気付いた人と人の関係性はどのようなものになっていくのか。その中で、経済活動として価値を自己演出するために何ができるのか。


そっちを掘り進んだ方が、安全第一論と経済活動とのバランス論を行ったり来たりするよりずっと先に進めると思う。



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